WEB特集

エゴドキュメントで読み解く“大東亜共栄圏”

いま専門家たちの間で注目されている「エゴドキュメント」。人びとの言論の自由が制約された時代に、表だって言えなかった“本音”を記した日記や手記、私信などを指す。

今から80年前の太平洋戦争で、日本は自らを盟主とする「大東亜共栄圏」の建設を掲げ、欧米の植民地だった東南アジアの国々を次々と占領した。アジアとの共存共栄、その理想と現実はどのようなものだったのか?

今回私たちは、アジアの軍政に関わった軍人の日記だけでなく、アジアの人たちのエゴドキュメントも多数入手した。証言者の多くが鬼籍に入る中、当時を知るための貴重な資料だ。占領に関わった日本人、そして占領下での暮らしを余儀なくされた現地の人々は、何を見、何を思い、生きたのか。“大東亜共栄圏”の姿をたどった。
(NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争」取材班 酒井有華子 高瀬杏)

「東洋平和の日は近い」26歳 軍人から見えた“占領の景色”

都内の大学に、ある日本の軍人が残した膨大な資料が保管されていた。

80年前、フィリピンの占領に最前線で関わった陸軍中尉、人見潤介が残した当時の手紙や写真、その数は1200点を超える。
一橋大学 中野聡教授が遺族から寄贈を受けた「人見潤介資料」
人見は当時26歳。

1942年1月、日本軍がフィリピンの首都マニラを攻略した直後に両親にあてて書いた手紙にはこうある。
(以下、旧かなづかいは現代かなづかいに改めた)
「正月早々、感激の入城を致しました。この間の猛進ぶりは感嘆に値し、夜を日についで椰子の木陰を前進し、遂に敵をほうったり(原文ママ)でした。強烈な南海の太陽に焼けて『南洋の美人』になりつつ元気です」
フィリピンで「宣伝隊」を率いた陸軍中尉・人見潤介
人見は京都で農家の3男として生まれ、もともとは小学校の教員をしていた。

その後、志願して軍人となり満州で3年5か月の従軍生活を送った後、フィリピンに派遣された。

人見が満州での従軍中に出した手紙には、現地の住民の理解を得られず厳しい抵抗にあった過酷な日々が綴られていた。

フィリピンへの転戦を命じられた人見は、今度こそ住民の理解を得て統治を進めたいと考えていた。

1941年12月、マレー作戦と真珠湾攻撃によってアメリカ・イギリスとの戦争に踏み切った日本。

それまでアメリカからの輸入にたよっていた石油などの資源を求め、東南アジアへ進出した。

戦争目的の一つに掲げたのが、欧米の植民地だった東南アジアを解放する「大東亜共栄圏」の建設だった。
1942年 日本軍は各都市や地域を占領していった
新たに“統治者”となった日本について、アジアの国々で受け止めは多様だった。

オランダの植民地だったインドネシアのジャワでは、日本の占領を「解放」だと受け止め、日本軍を歓喜して迎える人もいた。

一方、人見が赴いたフィリピンは、もともとアメリカからの独立を約束されていたため、日本の占領に批判の目を向ける人が多かった。
人見は占領したフィリピンで、日本が掲げる「大東亜共栄圏」の大義を現地の住民に説くという、難しい任務に就いた。

「宣伝隊」を率い、ビラの配布や集会の開催、プロパガンダ映画の上映などに邁進していった。
人見中尉が占領直後に両親に宛てた手紙
(1942年マニラ占領直後に両親にあてた手紙)
「バナナは一房十銭くらい。土人(原文ママ)は日本人に好意を持っています。東洋平和の日は近いです」

「我等は暴戻なる(注・横暴な)米国の東洋に於ける唯一にしてしかも最後の侵略拠点をいよいよ完全に粉砕すべく冲天の意気をもって戦っています」
人見が占領当初に残した言葉は、希望に満ちあふれていた。

日本を盟主にアジアが栄えるという“大東亜共栄圏”の理想が、現地の人々にも受け入れられると信じていたのだ。

「なぜ日本がアジアの盟主?」占領が一変させた女性たちの暮らし

一方、人見の目には友好的に映った現地の人々は、その内心で何を考えていたのか?私たちは人見がいたフィリピンでエゴドキュメントの収集を進めた。

そこには日本人の記録から見える世界とはまったく異なる現実があった。
パシータ・ペスタニョ・ハシント(27)
マニラに暮らしていたパシータ・ペスタニョ・ハシント(当時27歳)。

日本軍が、フィリピンを占領下に置くため、空からの爆撃を開始した1941年12月から日記を書き始めていた。
(1941年12月9日パシータの日記「Living with the Enemy」より)
「私たちとって、これまで戦争は新聞で読んだり、ニュース映画や映像で見たりするだけのものでした。これが現実だなんてありえない!」

「いつもの暮らしを続けようとしたが、もはや正常な状態ではなかった。戦争の空気が私たちの心を支配した。常に不安を感じ、日本が落とす爆弾を警戒している」
右端がパシータ アメリカ植民地時代に撮られた写真
アメリカ統治下、パシータは医者として働く夫との間に子を授かり平穏な生活を送っていた。

本の虫で、文章を書いたり社会について議論したりすることが好きな女性だった。

突如始まった戦争は、彼女の生活を一変させていく。

妊娠中の子どもの誕生を心待ちにする日常から、マニラへと進攻する日本軍を警戒する日々に変わっていったのだ。
(1942年1月1日パシータの日記)
「地方での日本の残虐行為が私たちの耳に届いた。最初は信じないようにしたが、知人が直接夫に伝えたことだから嘘だとはもう思えない。彼は話した『日本人は女性たちを町の教会に丸一日閉じ込めた。彼らは獣だ。獣よりもひどい。私たちは我慢できなかった、女性たちの叫び声とうめき声…』。私の心には恐怖が芽生えた。善良な神がどうしてこのすべてが起こることを許すのだろうか?」
昭和17年9月22日 第14軍司令部「軍参謀長口演要旨」
フィリピンでの作戦初期に、日本軍による強姦が多発したという事実は、日本側の極秘文書の中にも記述が残されている。

現地の日本軍の参謀長が「軍紀風紀」について述べた文書。

軍は、略奪や強姦を固く禁じていたが、占領下、それが徹底されることはなかった。

さらに、欧米に取って代わった日本には、新たな経済圏を確立するだけの国力はなかった。激しいインフレと食料・生活物資の不足が人々の生活を圧迫し「大東亜共栄圏」という日本の大義を霞ませていく。しかし、日本の指導者たちは銃後の国民に対して「大東亜共栄圏の建設は着々と進んでいる」と繰り返すばかりで現実を伝えることはなかった。

パシータは日本への不信感を強めていた。
(1942年2月パシータの日記)
「“アジア人のためのアジア”が新しい戦争のスローガンだ。でも、なぜ日本人が盟主でなければならないのだろう?」
占領下、日本に批判的な言葉を日記や手紙に記すことは身に危険を及ぼすとして、恐れられていた。

パシータの夫は、日記に日本への批判を書くことをやめるよう注意したという。

しかしそれでも、日本の占領が終わる1945年まで日記を書き続けた。

パシータはその思いを日記にこう書いていた。
(1942年12月1日パシータの日記)
「見たこと、感じたことを書き留めた言葉は、記憶だけに頼るよりも、鮮明に起きた出来事を伝える役割を果たしてくれるでしょう」
この時、パシータの傍らにはまだ生まれたばかりの赤ちゃんがいた。

娘のメルトさん。

あれから80年近くが経ち、今も存命だということが分かった。

私たちは、メルトさんを捜し当て、話を聞くことができた。

母親の日記を読み、日本にどのような感情を抱いているのかと不安だったが、メルトさんは大の日本好きで、私たちを温かく迎え入れてくれた。
メルト・ハシント・ロイナスさん(80)
「私は、高校生になってから母が書いていた日記を初めて読みました。衝撃を受けました。普通、第一子の妊娠や出産はとても大きな出来事です。でも、80年前は戦争でしたから。他にも大きな問題はたくさんあったから子どもの出産をただ喜ぶわけにはいかなかったのだろうなと思いました」
メルトさんは、日本の占領下の日々をエゴドキュメントに残した母への思いを聞かせてくれた。
「自分が真実だと思うことを書き留めることは本当に重要だと教えられます。見たのならば、私たちは書き残さなくてはいけないのだと思うのです」

あるフィリピン人兵士 執念の日記

戦争の時代を生きた人たちにとって、日記を書くという行為は、自らの存在を残すための行為でもあった。

ジャーナリスト志望だったフェリペ・ブエンカミノ(22)もその一人だ。
4人兄弟の長男だったフェリペは、正義感の強い青年だった。

日本がフィリピンに上陸するというニュースを聞くと、国を守ろうと志願してアメリカ軍の戦いに参加した。

日記には、参加した戦闘の厳しい現実が綴られていく。
(1942年2月1日フェリペ・ブエンカミノ日記)
「ジャップ(原文ママ)は軍とともにいた民間人を爆撃した。地獄絵図のようだった。パニック。男性、女性、子どもたちが殺された。死者の長い行列が小さな門をくぐって延々と続く担架の列で運び出されているのを見た」
一部のフィリピン人はアメリカ軍とともに日本軍に抵抗し、一部地域にたてこもり戦闘を続けた。

アメリカ兵と比べ、フィリピン人に与えられる武器は乏しく、食料も少なかったとフェリペは日記に記している。

フェリペは肉体的にも精神的にも追い込まれていった。
(1942年2月2日フェリペ・ブエンカミノ日記)
「ここでの生活はどんどん厳しくなってきている。みんながますます怒りっぽくなってきていることに気付いた。神経のせいだと思う。食料は恐ろしく不足している。爆撃はより激しく、より頻繁になっている。将軍はいつも短気だ。そして私は…私は家に帰りたい」
戦闘に加わったフェリペ(中央上)と仲間たち
アメリカからの補給が届く気配はなかった。

22歳の青年は、国を守り抜くという理想と、初めて身を置く戦闘の恐ろしさとの狭間で揺れていた。

やがて、所属していた部隊は降伏。

日本軍の捕虜となったフェリペにさらなる事態が待ち受けていた。

後に日本が“戦争犯罪”として厳しく問われることになる、いわゆる“バターン死の行進”だ。

フェリペの日記をたどると、捕虜となったバターン半島南端から北の捕虜収容所までの間、約100キロを歩いたことがわかる。
(4月10日 フェリペ・ブエンカミノ日記)
「『君らは自由だ、フィリピン人だから』と日本人は言った。しかし、そうではないということはすぐにわかった。太陽はとても暑かった。同胞の兵士が怒った日本兵に銃剣で突き刺されているのも見た。彼は地面に崩れ落ち、そこに横たわり、目で助けをもとめていた。私は彼を助けなかったみんなを呪った。だが、自分も呪わないといけない。私も気にしなかったのだ。」
戦後、フェリペの日記は、家族の手によって自費出版され、製本された形で保存されている。

フェリペの弟、ビクトル・ブエンカミノさん(100歳)が健在で、私たちの取材にこたえてくれた。
日記を見せてくれるビクトル・ブエンカミノさん(100歳)
日本軍の捕虜となったフェリペは、約3か月の収容所生活から解放され自宅に戻ってきた時、24キロも体重を失いやせ細っていたという。

しかし少し回復すると、タイプライターに向かい始めた。

記憶が鮮明なうちに、体験を書き残そうとしていたのだ。
ビクトル・ブエンカミノさん(100歳
「私が眠りにつこうとしても、兄はタイプライターを打ち続けました。(眠れないので)母親に不満を言いましたが、兄は夜に1人になるのが怖いらしく、私の横で作業をつづけました。そんな姿を見て、何も言えなくなってしまいました」
フェリペは、戦後まもなくして29歳で事件に巻き込まれて亡くなったという。

弟のビクトルさんは、兄の死後に残された日記を、親戚と相談しそのまま掲載する形で本にまとめることにした。
ビクトル・ブエンカミノさん(100歳)
「兄は、書くことで後世に残そうとしていました。どっちの国が正しいかとかそういうことではないのです、ただ真実を残そうとしていたのだと思います」

現実に直面した日本軍の将校 書き続けた「エゴドキュメント」

人見中尉は軍の報告書に「民心全く我になく」と記した
大東亜共栄圏の理想に燃え、宣伝隊を率いていた人見潤介の活動も、次第に壁にぶつかるようになる。

日本軍による占領への不満からフィリピンの人々がゲリラ化し、抵抗を強めていったからだ。

占領当初、「東洋平和の日は近い」と両親に手紙で書き送った人見だが、その後内地の婚約者に送った手紙には、全く異なる思いがつづられている。
(1942年12月の手紙)
「お変わりありませんか。僕は毎日毎日はげしい思想の戦いに血みどろな戦いをつづけています。大東亜戦争の前途は益々多難を極める事でありましょう。我々は骨と皮になっても、戦い抜き必ず勝たねばなりません」
フィリピンではその後、いったんは敗戦したマッカーサー将軍率いる連合国軍の反転攻勢により日本軍は敗退。フィリピンでの日本軍の全戦死者はおよそ50万人にのぼった。

人見は日本の敗戦をフィリピンで迎えアメリカ軍の捕虜となる。

人見は捕虜収容所の中でも小さなノートにエゴドキュメントをつづり続けた。

帰国後もその記録全てを大切に保管し続け、生前、信頼していた研究者・一橋大学の中野聡教授に託した。

「とにかく戦争はしてはいけない。平和のためにいかして欲しい」と何度も繰り返し言っていたという。
日本の東南アジア占領の歴史に詳しい一橋大学・中野聡教授
人見のエゴドキュメントと、フィリピンの人びとのエゴドキュメント。

中野教授は、占領し、占領される、双方の立場のエゴドキュメントを通してあの時代を捉え直すことは重要な作業だという。
「戦争はお互いが敵同士という関係で、互いに共感なきまま戦争になるわけですね。しかし、“敵”と思っていた人たちも、見方を変えれば被害者になる。そこに様々な共感が芽生えてくる。

エゴドキュメントは、敵味方こえて、互いのそういう経験を知ることができる。戦争の時代、国籍、ジェンダーを問わずさまざまな立場にある人たちが残したエゴドキュメントがあるが、そこからは共通して『戦争はしちゃいけない』とか『平和なときが一番だな』という思いが浮かび上がってくる。そこに大きな価値があると思います」

受け継がれる記憶 知ることの大切さ

今回、私たちはエゴドキュメントを記した人たちが生きた時代の空気感を表現したいと、撮影のためフィリピン各地をまわった。

2階建ての大きな民家の主は、80年前、日本軍にその家を接収されたことを祖父から聞かされていた。

辺りの古くて大きな家は、日本軍が軒並み接収し滞在した建物だという。
占領下のフィリピンについて話すエバンジェリンさん 91歳
かつて人見が宣伝班を率いたことのあるフィリピン中部のパナイ島では、当時を記憶する91歳の女性と出会った。

エバンジェリン・サイソンさん。

この島では日本軍に抵抗するゲリラ活動が活発で、島に駐屯していた日本軍部隊がゲリラの討伐を厳しく行った。

エバンジェリンさんの口からは「キャプテンワタナベ」という将校の名前が今も自然と出てきた。

別の日本兵が川辺で、ゲリラとなったフィリピン人の首を処刑だとして切り落とした光景が、今も忘れられないという。

そう話すバンジーさんの表情はかげり、恐怖を拭い去れないようだった。

エバンジェリンさんは、島の若者たちに、時折80年前のことを話して聞かせていると言う。

大東亜共栄圏を掲げた日本の戦争は、市井の人たちにこうした形で記憶されている。

今回入手した、フィリピンの人々が日本の占領について記したエゴドキュメントの多くは、英語で出版され現地の図書館などにもおさめられている。

しかし、日本では入手が困難で図書館などでも取り扱いがないものが多い。

日本で、アジアの人々の戦時下の記憶に触れることができる機会はまだまだ少ない。

現在も世界中で争いが絶えない。

対立の渦中に置かれた者同士が、相手の中に流れる物語を想像するのは容易ではない。

80年前、各国の人たちが記したエゴドキュメントは、相手の体験や思いを立場を超えて共有することのできる貴重な資料だ。

先人が残してくれた言葉を、これからも探り続けていきたい。
報道番組センター ディレクター 
酒井有華子 
2009年入局 
沖縄局 東京 大阪局を経て2020年から現所属
首都圏局 ディレクター 
高瀬杏
2017年入局 
大阪局を経て2021年から現所属 差別や多様性の問題に関心を持ち取材

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