人は人を傷つけるけれども、救ってくれるのも、また人なんだ

人は人を傷つけるけれども、救ってくれるのも、また人なんだ
「人は人を傷つけるけれども、救ってくれるのも、また人なんだ」
これは、今から21年前に大阪で起きた事件の、被害者の遺族のことばです。

大阪教育大学附属池田小事件の遺族、本郷由美子さん(56)は、事件後、深い悲しみとともに、長い間憎しみや怒りの感情から抜け出せずに苦しめられてきたと言いますが、人と関わり、ことばをかけてもらう中で、次第に穏やかな気持ちを取り戻していったそうです。

そして、おととし、自分と同じような思いをしている人たちの“居場所を作りたい”と、東京・台東区の寺に、ある施設をつくりました。

その場所には「傷ついても新たな一歩を踏み出すことができる」という願いと祈りが込められています。
(大阪放送局 ディレクター 白瀧愛芽)

当たり前の日常が突然奪われたあの日

今から21年前の2001年6月8日。本郷さんの日常は、突然奪われました。
本郷由美子さん
「行ってきますっていって、ただいまって帰ってくるのが当たり前で、その当たり前がいきなりなくなっちゃうってことですから。とても受け止められないんですね」
刃物を持った男が学校に侵入し児童と教員を無差別に切りつけた大阪教育大学附属池田小事件。8人が死亡。15人が重軽傷を負いました。
亡くなった本郷優希ちゃんは、当時小学2年生。
花や歌うことが大好きで、将来の夢は学校の先生でした。

悲しみと憎しみに飲み込まれそうに

最愛の娘を奪われた本郷さんを襲ったのは、経験したことのない絶望と深い悲しみ。さらに、犯人への怒りや憎しみの感情でした。

犯人への憎悪の感情で、見えているものすべてが憎く見えたという本郷さん。例えば、学校の前の信号機にさえ「この信号が赤だったら犯人の侵入が遅れて優希は助かっていたかもしれない」と激しく怒りを覚えたそうです。

やり場のない怒りは自分自身にも向けられ、みずから命を絶とうとしたこともあったといいます。
本郷由美子さん
「言葉では言い表せないほどひどい憎悪の感情で、自死を試みたことがあるんですが、悲しいというだけではなくて、人を憎む感情というのはとてもつらかったんですね。どうしたらこの感情を私は消すことができるか、でもそんなの消せるわけがない、娘が戻ってこないんだからという闘いです」

娘の最後の”68歩”が教えてくれた「生きることの尊さ」

苦しみからなかなか抜け出せない中で、本郷さんを支え、生きる力に変えていかなければと思わせたきっかけは、2つのことだったといいます。

1つは、優希ちゃんが亡くなる直前に見せてくれた”生き切る姿”です。

現場検証で分かった優希ちゃんの最期。
当初は教室で刺され即死とみられていた優希ちゃんですが、実は、致命傷を負いながら、廊下に出て出口に向かって歩いていたのです。
その距離、本郷さんの歩幅で68歩、39メートルありました。
娘は最期に何を思ったのか。
本郷さんは、毎日のように廊下に通い、1歩1歩よろけたり、手をつきそうになったりしたことが分かる優希ちゃんの血の跡を辿っていきました。

そうする中で、やがて「生きることの尊さ」というメッセージを受け取っていきます。
本郷由美子さん
「たどっていくうちに、苦しいとか悲しいとか痛いということもあったかもしれないけど、それだけじゃない。生きたいという気持ちがここに詰まっていると思ったときに、一生懸命、本当に死力を尽くして、この子が伝えようとしたことは、それだけではなくて、生きることの素晴らしさや尊さということを、一歩一歩に伝えているなと私には感じてきて」

“静かな寄り添い”が何よりの心の支えに

本郷さんが少しでも前を向こうと思ったもう1つのきっかけは、友人や近所の人たちから、まったく知らなかった犯罪被害者の家族まで、多くの人たちから受けた”寄り添い”です。
静かに寄り添ってくれたことで「1人じゃないんだ」と感じたといいます。

例えば、事件直後に声をかけてくれた、同じように犯罪で家族を奪われた遺族の人たち。
事件で妻を奪われた岡村勲さんは、「がんばらなくていいんですよ。これ以上がんばれるはずがありませんよ」と声をかけてくれました。
また、神戸児童連続殺傷事件で次男を奪われた土師守さんは、自身の経験から「残されたお子さんを大事にしてください」と言ってくれたそうです。
本郷由美子さん
「事件後初めて被害者の方に会って、子どもを失った、犯罪にあった立場の人が来てくださって、心が許せるというか話せるというか、一緒にいてもらいたいというか、そういう不思議な気持ちになりました。目で本当に心配しているという眼差しをくださり安心できたというのが記憶に残っています」

友人たちから届いた絵本も“寄り添い”に

周囲の友人たちから届いた絵本も支えになりました。事件後から、次々と届く絵本。最初は、ショックで文字も目に入らず、ただそばに置いておきました。

次第に、届けてくれた人のことを思い浮かべながら手に取ってみたところ、絵本のイラストや色彩、文字に引き込まれていったと言います。絵本を通じて様々な感情に触れることで、自分の気持ちと向き合えるようになっていったそうです。
本郷由美子さん
「事件直後は、文字も色も何も感じないんだけれども、届けてくれた人の気持ちが嬉しかったからそばにおいていたんです。そして、”この人が選んでくれたんだな”と思っているうちにふと、目が行く。開いてみると自分の気持ちと重なるところがあり、絵や色に癒やされるというか、心の中で対話ができている気がして、気づいたら読めていました。主人公と気持ちが同一化して、だんだんと自分の気持ちに向き合えるようになっていきました」
ほかにも、たくさんの人が心配して声をかけてくれました。

その時は気持ちを受け止めきれずに関係が途絶えてしまったこともあったと言いますが、時間をかけてみんなの思いに気づき、「あのときはごめんね、私はほんとうに余裕がなかった。私のことを心配してくれたんだね」と伝えて、関係が再構築できたこともあったそうです。
本郷由美子さん
「その支えがなかったら、私はたぶん、いま生きていないんです。それは本当に言えることだと思いますね。人の命の力をもらったんだなっていうのは、私の中で確かなことだと思います」

傷ついた人たちに“寄り添える”場所を作りたい

娘の最後のメッセージと周囲の人たちの寄り添いによって、次第に穏やかな気持ちを取り戻していった本郷さん。

今度は、”自分と同じように傷ついて悲しんだり苦しんだりしている人たちに寄り添える場所を作りたい”、“悲しんでいる人たちの居場所を作りたい”と、おととし11月、東京・台東区の寺の一角に、ある施設をつくりました。
グリーフケアライブラリー「ひこばえ」です。グリーフケアとは、「悲しみを癒やす」という意味で、様々な喪失体験をした人に寄り添い、希望を持てるように支えることです。

ひこばえは、「切り株から生える新しい芽」を意味しています。
本郷さんはこの場所に、”再生への願い”を込めました。

予約制で利用は無料。悲しみや死別などをテーマとした約900冊の本が並び、利用者は自分の好きなように過ごしながら、悲しみや苦しみの感情を安心して吐き出すことができます。
本郷由美子さん
「私たちって、周りからみると悲しいこと暗いことマイナスな感情を人に話すことで周りに迷惑をかけちゃうとかそういう気持ちになってしまう。
そういう感情と向き合いながら生きている人たちはほかにもいるということなどを伝えることで、少しでも気持ちが和らいでくれたらいいなと」
新たに立ち上げた「ひこばえ」には開設から1年半余りで、大切な人と事件や事故、災害、病気などで死別した人や、現在、病気や障害に悩まされる人など、のべ160人以上が訪問。

利用者からは「自分の中の悲しみと心ゆくまで向き合うことができる」「自分はそのままでいいんだよと言ってもらえた気持ちに」といった感想が寄せられています。

”父親の最期に立ち会えなかった” 平間優希さん

この日「ひこばえ」を訪れた平間優希さん(33)は、大切な家族の最期に立ち会えなかった後悔を抱えていました。

平間さんは、中学生のとき本郷さんの手記を手にし、亡くなった優希ちゃんと同じ名前であることを知り、本郷さんと文通などで交流してきました。
去年亡くなった平間さんの父親の良雄さんです。
平間さんは、膵臓がんで余命宣告を受けた良雄さんのもとにかけつけ、それから1年1か月、一緒に暮らしながら身の回りの世話や看病を続けました。

良雄さんが亡くなった日の早朝、隣の部屋で休んでいたため、最期に立ち会えなかった平間さん。血を吐いて亡くなっている姿を見て、もっと事前にできることがあったのではないかという大きな後悔に襲われました。
平間優希さん
「もうちょっと病院に相談していればよかったなとか、寝る向きを変えていたら変わっていたかなとか、苦しそうではなかったが、服が汚れて亡くなっている姿は、思い出してしまいますね」
本郷さんが、平間さんに紹介したのは「かぜのでんわ」という絵本。

くまのおじいさんが山の上に置いた「線のつながっていない電話」。うさぎやキツネが、会えなくなった家族と話がしたいとやってきます。
そして、物語の最後は、「みんなの思いが届いた」と結ばれています。
父親を亡くしてから、心の中で「幸せだった?」と何度も問いかけてきたという平間さん。読み終えて口にしたのは、亡き父への思いでした。
平間優希さん
「私が何を後悔しているって、一番は、本当の最期の最期にいてあげられなかった。いたんですけど、気づけなかったのが、なんでなんでって思っちゃって。そんなこと言ったってしょうがないだろうって言われるんですけど」
本郷さんも、あの日、ニュースで事件のことを知り学校に駆け付けますが、運ばれた娘の近くまで行っていたものの、大混乱の中で気がつくことができず、最期に立ち会えていませんでした。

本郷さんは、そのときの気持ちとどう向き合ってきたかを平間さんに伝えました。
本郷由美子さん
「私も優希の運ばれたすぐ近くにいたんだけど会えなかったのね。
そのときに、必死に探せば会えたはずじゃないってすごく責めたの。でもヘリコプターの音とかがひどくて、誰の声も聞こえなくて、誰も確認に行けなかったね。それを後悔したの。

でもね、いろいろな意見を聞いて、いろいろ考えて『ママにそんな顔見せたくなかったかもしれない』という考え方をした。

本当に揺れ動いた。すぐにはそんな気持ちになれなかったけど、そうだったかもしれないね。でも答えは分からないけど、あなたを愛する気持ちは変わってないということでね、長いことかかった」
長い時間をかけて、悲しみと向き合ってきた本郷さんの言葉に、平間さんは「まだまだ立ち直れていないけど、私なりに今日を生きていこうと思います」と話していました。
平間優希さん
「由美子さんに聞いてもらえて、悲しんでいるのは私だけじゃないし、それぞれ乗り越え方があって、ステップがあって、いまの自分でいいかなって」

”不安がよぎる”という加藤悠記子さん

3年前、妊娠した子どもを人工死産した経験をもつ加藤悠記子さん(41)は、ふとした時に襲う不安を抱えながら「ひこばえ」にやってきました。
当時、お腹の中にいた赤ちゃんの名前は日向子ちゃん。この写真は、最後の思い出にと、旅行にいったときのものです。医師からは、赤ちゃんは重い横隔膜ヘルニアなどで「産まれても生きられない」と告げられていました。

悲しいお別れのおよそ1年後、加藤さん夫婦は新しい命を授かりました。

いまは、夫の洋平さんと新たに授かった大翔(はると)くんとともに穏やかな日々を送る加藤さんですが、この日常が突然奪われるのではないかと不安に襲われることがあるといいます。
加藤悠記子さん
「まさかと思っていたことが起こったからだと思うんですけどね。この子をまた失ったらどうしようとか、失ったときに自分はどうなってしまうんだろうって」
この日やってきた「ひこばえ」で、大翔くんがたまたま手にした絵本に加藤さんの目が留まりました。

絵本のタイトルは「もうさみしくないよ」。もともとは知り合いではなかった、奥さんを亡くしたおじいさんと、おばあさんを亡くした女の子が、天国の亡くなった2人のはからいで出会い、久しぶりに手を取り合い笑うという物語です。
読み終えた加藤さんは、ふだん家族にもなかなか口にできない気持ちを話しだしました。
加藤悠記子さん
「今は元気に育っててすごく幸せなんですけど、その幸せなのがいつまで続くのか、すごく怖くなっちゃう時が時々あって」

本郷由美子さん
「そうだよね、まさかということが自分の身に降りかかったもんね」

加藤悠記子さん
「そうなったときに自分が立ち直れないような気がして」
本郷さんは、自分が経験してきたことを話し、加藤さんの思いに共感していました。
本郷由美子さん
「7歳で亡くなったでしょ。(次女は)絶対超えられないて思っていて。その日の夜中の12時を迎えるのがすごく怖くて。

悲しいけど、グリーフって一生続くし、背負うというよりも大事に抱えて生きていこうっていうふうに考えないと。
それになかなか人に言えないしね。だから今をしっかり見ようって」
2人は、対話の中で自然と笑顔になっていました。
加藤さんは、「共感してもらえるだけでも気持ちがちがう」と話していました。
加藤悠記子さん
「不安がこみ上げるときってこれからもいっぱいあると思うんですけど、いまを見るしかないと私も思っていて、そうやって生きていくしかないかなって思います」

人は人を傷つけるけれども 救ってくれるのも人なんだ

最愛の娘を奪われた事件から21年がたちました。

本郷さんは、これまでに多くの人たちから支えてもらった恩を、これからも、自分がほかの人たちを支えることでつないでいきたいと考えています。
本郷由美子さん
「人ってすごいなって。一人一人生きる力があって、命の力に気づいたときって、生きる力につながったり、人と人とがつながって次にもつながることができる。

人は人を傷つけるけれども、本当に救ってくれるのも助けてくれるのも人なんだなっていうことを、感じています」