プーチン氏はなぜ暴挙に至ったのか?~元首相らが語った素顔~

プーチン氏はなぜ暴挙に至ったのか?~元首相らが語った素顔~
ウクライナ侵攻という暴挙に及んだプーチン大統領。
背景にはアメリカが世界各地で推し進めてきた民主化の動きをみずからへの脅威として受け止めてきた経緯があります。

NHKスペシャル「混迷の世紀」取材班はプーチン大統領を間近で見ていた2人の人物にインタビューし、プーチン大統領の素顔や知られざるエピソード、そして、今後のウクライナ情勢の行方について聞きました。
(NHKスペシャル「混迷の世紀」取材班 ディレクター 佐川豪)

“プーチン大統領は普通の人だった” 元顧問の証言

「混迷の世紀」取材班が向かったのは、ロシアの首都モスクワ。ロシア大統領府でメディア戦略などを担当したグレブ・パブロフスキー氏のもとを訪ねました。
パブロフスキー氏はエリツィン大統領の時代から、プーチン政権1期目・2期目、そしてプーチン氏が首相を務めたメドベージェフ政権時代まで、長年ロシアの政界を内側から見ていた人物です。

プーチン大統領の第一印象を尋ねると意外な答えが返ってきました。
パブロフスキー氏
「何の印象も受けませんでした。私は当時すでに5年エリツィン大統領のもとで働いていましたが、誰が後継者に選ばれるかはどうでもよいと思っていました。

プーチンはロシア大統領府で働いていたので私は会議などで彼と顔を合わせていましたが、いたって普通の人でした。

『次の大統領候補はエリツィンよりも若く、健康でなければならない』という条件を彼は満たしていました」
当時のプーチン氏は、今、私たちが目にしているのとはまったく異なる印象の人物だったと、パブロフスキー氏は語りました。
パブロフスキー氏
「今とはまったくの別人です。彼は陽気で誠実な人でした。何か際立つ特徴があったわけではありませんが、飲み込みが早く、合理的で理知的な人物でした。

エリツィンの後釜に就くと、プーチンは自分がエリツィンより弱いわけではなく、自分も『ロシアの主人』なのだということを証明しなくてはなりませんでした」

ロールモデルはあのアメリカ元大統領だった

パブロフスキー氏はプーチン大統領が当時ロールモデルとしていた人物として、意外な名前を挙げました。
パブロフスキー氏
「プーチンは、アメリカのブッシュ大統領を手本にしていました。彼のことをとても気に入っていたのです。彼はブッシュが好きでしたし、ブッシュも彼のことが好きでした。彼らには政治的ロマンスがあったと言ってもいいでしょう。彼らは友人でした」
2001年9月、アメリカで同時多発テロ事件が起きると、プーチン大統領はアメリカと協調する姿勢を見せました。

当時ロシア国内でも首都モスクワや南部のチェチェンなどでテロ事件が起き、対応に苦慮していたプーチン大統領は、いち早く同時多発テロ事件の現場を訪れ、ブッシュ大統領を強く支持。

その後、ブッシュ大統領は「テロとの戦い」を掲げ、力には力で対抗するという強硬な姿勢を示し、アフガニスタンでの軍事作戦を開始しました。
パブロフスキー氏
「プーチンはブッシュのやり方が気に入っていました。ブッシュのやり方とは権威主義的なやり方です。当時言われていたように“軍事皇帝”のやり方でした。

プーチンも“軍事皇帝”になりたかったのです。そして彼はブッシュを見て、どのように振る舞うべきかを学びました」
さらに、当時プーチン大統領はNATO=北大西洋条約機構に対しても、いまとはまったく異なった考えを抱いていたとパブロフスキー氏は明かしました。
パブロフスキー氏
「私はプーチンに『NATOに入りたいのか?』と尋ねました。するとプーチンは言いました。『なぜそんなことを聞く?もちろんだ。ほかに選択肢などない』と。

なぜなら彼はNATOとして結束する西側に力があると考えていたからです。ロシアは当時テロ攻撃にさらされていましたが、NATOこそがロシアの安全を保障できると考えたのです。

しかしその後、ブッシュ大統領の任期が終わる頃に、アメリカで金融危機が起きました。ブッシュ大統領はそれに対応することができず、プーチンは自分があてにしてきた力がそこに無いということに気づいたのです」

“ロシアは当初NATO入りを検討していた” 元首相の証言

今回、私たちの取材に応じたもうひとりの人物。それは、プーチン政権が発足した2000年から4年間、首相を務めたミハイル・カシヤノフ氏です。カシヤノフ氏はいまロシア国外に身を移し、プーチン政権への批判を強めています。カシヤノフ氏は居場所を明かしておらず、オンラインでのインタビューとなりました。
カシヤノフ氏にもプーチン大統領の第一印象を尋ねると、パブロフスキー氏とは別の角度からの答えが返ってきました。

当初プーチン大統領が民主的なロシアを築くと期待していましたが、次第に強権化する姿を目の当たりにして、たもとを分かったと言います。
カシヤノフ氏
「2000年当時、プーチンを支持し一緒に働いていた人たちは皆、彼が民主主義の原則を信奉し、民主主義国家と市場経済を築こうとしている新しいリーダーだと思っていました。エリツィンも私もそう思っていました。

私が首相として一緒に働くときに出した条件は、『すべての改革の主導権を私に認めてほしい』ということでした。彼は『そうする』と約束しました。

一方、彼が出した条件は『私の領域には口を出すな』というものでした。『私の領域』とは、治安当局に関連する活動。つまり、警察・諜報活動、軍、特殊部隊などのことです」
カシヤノフ氏は当時政権内部で、ロシアのNATO入りが検討されていたと証言しました。
カシヤノフ氏
「私自身、『ロシアはNATOの加盟国となることを切望している』と公言していました。プーチンはもう少し控えめで慎重に『ロシアのNATO加盟の可能性を排除しない』と言っていました。

加盟は実現しませんでしたが、前進もありました。2002年5月にローマで開催されたNATO首脳会議で『NATO・ロシア理事会』が設立されたのです。

“加盟”という形ではありませんでしたが、協力関係ができて、政治面でも軍事面でも合同の会議などが開かれるようになりました。ですから、『遅かれ早かれロシアも加盟するだろう。正しい道を進んでいる』と考えられていました」

欧米型民主主義への不信を深め敵視するように

しかしカシヤノフ氏は2004年にウクライナで起きた「オレンジ革命」を機に、プーチン大統領が民主主義に不審を抱くようになったと言います。

市民の抗議活動をきっかけに、ロシア寄りの政権が欧米寄りの政権に取って代わられたのです。
カシヤノフ氏
「ウクライナで民主主義を志向する人々が、ヨーロッパの価値観に支えられた発展の道は正しいと、国民の大半を説得できたことに、プーチンはひどく落ち込みショックを受けました。

市民が路上に出て、憲法で保証された権利、例えば選挙の開票作業の徹底を求めることで、運命が決まることさえありえるのだと彼は理解しました。彼はすぐに、同じようなことがロシアで起きるのではないかと恐れるようになりました。それで、野党勢力への弾圧を始めたのです」
この頃ロシアが勢力圏と見なす旧ソビエトのジョージアやキルギスにも民主化の波が押し寄せていました。

いわゆる「カラー革命」です。

当時プーチン大統領に顧問として仕えていたパブロフスキー氏によれば、プーチン大統領は民主化の動きの背後にアメリカがいると、さいぎ心を深めていったと言います。
パブロフスキー氏
「プーチンは思考の構造上、陰謀論者です。民主化革命がアメリカの陰謀だと確信していました。ウクライナ大統領府に対してアメリカは非常に強い影響力を持っていました。

当時私は間近にいたので、プーチンがアメリカのせいだと考えていたことをよく覚えています。プーチンはアメリカの影響力の拡大を止めたいという思いを強めていきました」

“プーチンのNATO脅威論はでっち上げ” 元首相の分析

以来、欧米が掲げる民主主義を敵視するようになったプーチン大統領。

元首相のカシヤノフ氏は、プーチン大統領がNATOを脅威と捉えてウクライナ侵攻に及んだとする見方は誤りだと考えています。
カシヤノフ氏
「戦争を始めた根拠は常に変化しています。当初プーチンはNATOのせいだと言っていましたが、それはでっち上げです。NATOはすでにエストニアとラトビアにまで拡大していて、ロシアと国境を接しています。しかしプーチンは何の脅威も感じていません。

彼が最も恐れているのは、ロシアの隣国ウクライナがもし民主主義国家として繁栄した場合、ロシア国民が『なぜ自分たちはそうなれないのか』と疑問に思い始めることです。『まともで繁栄した国家を築くための資源はウクライナの何倍もあるのに、ロシアはどんどん落ちぶれていく』と。ウクライナが繁栄した国家になることは脅威なのです」
プーチン大統領はロシア国内で民主化の動きが強まり、みずからの政権が脅かされるのを防ごうと強権化していった。

カシヤノフ氏はそう指摘した上で、民主主義を敵視する姿勢が、ウクライナ侵攻の動機にもなったと見ています。
「ロシアはこれまで完全な民主主義国家だったことがありません。今や完全な権威主義国家となり全体主義へと向かっています。“プーチンのロシア”という全体主義です。

彼は自分が作り上げた国家機構が敬われるべきだと考えていますが、世界からは認められません。プーチンはそれが気に入らないのです。

彼は『民主主義国家を締めつけてやろう』、『民主主義国家には選挙や議会があるが、ロシアでは必要ない』と考えています。それで戦争も始めたというわけです」

長期化が懸念されるウクライナ侵攻 今後の行方は

ウクライナ侵攻の長期化が懸念される中、今後の行方を2人はどう見ているのか。

パブロフスキー氏は一刻も早く終わらせなければならないとしながら、同時にそれは非常に難しいという見通しを語りました。
パブロフスキー氏
「ロシアにもウクライナにも交渉文化の経験がありません。どちらも交渉するすべを持っていないのです。私は交渉がうまくいったケースを1つも思い出すことができません。ですから戦争を終わらせるというのは極めて難しい課題です。

しかし着手しなければなりません。理不尽な戦争に踏み切ったのは誤った決断でした。ただロシアを崩壊させることができないのも事実です。なぜならロシアの国家体制はこの30年間、攻撃への抵抗を基盤として築き上げられてきたからです。

確かに人々の暮らし向きは悪くなるでしょうし、失業率は少し上がるでしょう。経済ももちろん落ち込むでしょう。しかし私たちはすでに何年もゼロ成長の中で暮らしているのです。人によっては実感さえ湧かないかもしれません」
一方、カシヤノフ氏が最後に語ったのは、世界が冷戦終結後に築き上げてきた国際秩序を守ることの重要性でした。

今年2月、国連の安全保障理事会では、ロシアに対してウクライナからの軍の即時撤退などを求める決議案がロシア自身の拒否権によって否決されました。

安保理が機能不全に陥っているという批判が高まる中、カシヤノフ氏は国連改革の必要性にも言及しました。
カシヤノフ氏
「プーチンは新たな国際秩序が必要だという考えを世界に押しつけようとしています。しかしそれを受け入れてはなりません。侵略者を止め、既存の秩序を守らなければならないのです。

国際秩序はすべての国々が信奉する価値に基づいています。その第1の価値は『人権の尊重』。そして第2の価値は『民主主義体制』、つまり国民がみずからの政府を選ぶということです。

今求められているのは、複数の穴をふさぐ仕事です。国連、ヨーロッパの安全保障体制、国際的な金融機関、それらの枠組みの中で何を修正できるか考えなければなりません。プーチンが生み出した今日の諸問題を教訓として既存の制度を改善すべきなのです。ウクライナ侵攻のようなことが2度と起きないように」
政経・国際番組部ディレクター
佐川豪
2006年入局
甲府局、徳島局などを経て2020年から現所属
ヨーロッパや中東でテロや難民問題を取材