“沖縄が嫌だった”元高校球児が贈る 60年越しのメッセージ

“沖縄が嫌だった”元高校球児が贈る 60年越しのメッセージ
毎年、幾多のドラマを生む高校野球。
ことしもあの暑い夏がやってきた。
60年前の夏、宮崎で高校野球史に残る特別な一戦が行われた。
甲子園出場をかけて宮崎と沖縄の代表どうしが戦った「南九州大会」。

「試合をする前から自分たちが甲子園に行くんだって思っていた…」

夢の甲子園を目指しマウンドにあがった宮崎の大淀高校のエースがみた光景。
まさかの敗戦から、数十年にわたって抱え続けた“沖縄”へのわだかまり。
60年越しに初めて口にしたことばとは…。
(宮崎放送局カメラマン 小林亨輔)

甲子園出場かけた南九州大会

宮崎の地元紙、宮崎日日新聞社で見つかった一枚の写真。社屋にひっそり保管されていたフィルムのネガに、それはあった。

写真が撮影されたのは1962年7月29日。

宮崎代表の大淀高校と沖縄代表の沖縄高校が甲子園出場をかけて戦った試合。
30度を超える夏の太陽が照りつける1日だった。

宮崎市中心部にある宮崎県営野球場で行われた全国高校野球選手権「南九州大会」。

まだ高校の数が少なかった当時、甲子園に出場するのは今のような1県1代表ではなかった。

宮崎と沖縄の代表どうしが争った南九州大会もその1つ。

1960年から15年間開催され、勝った高校が甲子園に進んだ。

この年の宮崎代表は大淀高校。

2年ぶり3回目の甲子園出場がかかっていた。

対する沖縄は沖縄高校。

前年、前々年はともに宮崎代表が沖縄代表を制し、甲子園に出場。

今回も宮崎代表の勝利は間違いない。

そう誰もが思っていた…。

沖縄に負けるはずがない

三浦健逸さん
「当日は球場に入りきらないぐらいの人でしたね。スタンドの熱気もムンムンで、とにかく強い日ざしが照りつける暑い夏の日でした」
大淀高校の先発としてマウンドに上がった三浦健逸(78)。

不動のエースだった。
当時の宮崎県は群雄割拠、強豪校ぞろいだった。

高鍋高校には後に西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)に入団し、現役通算100勝をあげた清俊彦。

宮崎商業には近鉄バファローズ(現在のオリックス・バファローズ)で球団最多1908試合に出場した小川亨など、まさに黄金世代だった。
三浦を擁する大淀高校はそんな強豪たちを倒し、宮崎県大会を制した。

宮崎代表となった時点で、すでに甲子園行きの切符を手にしたも同然だった。
三浦健逸さん
「県大会で優勝候補の高鍋高校に勝った時点で自分たちが甲子園に行けるんだと。九州の中でもそのときの宮崎の高校っていうのは技術的にもレベルが高かった。戦う前から下に見ていたというか、絶対に沖縄に負けることはないと思ってましたから」

異様な雰囲気に包まれた県営野球場

宮崎と沖縄で交互に開催されていた南九州大会。この年は宮崎だった。

代表戦の舞台となったのが宮崎県営野球場。

5000人以上の観客が詰めかけたスタンドは押し合いへし合いの超満員。

中にはフェンスによじ登る見物客まで出ていた。
本来なら大淀高校のホームともいえる球場。

しかし試合前から異様な雰囲気に包まれていた。

当時の新聞にその様子が記録されている。
宮崎日日新聞より
“試合開始前、大淀のシートノックの時、突然ライトスタンドから夏祭りのミコシがなだれこんできた。異郷で奮闘する沖縄高校を応援するのだ”
三塁側、沖縄高校のスタンドには合同のブラスバンドの姿もあった。

県予選で大淀高校に敗れた高校の有志が集まって沖縄に声援を送っていた。

当時の沖縄はまだアメリカ統治下。

沖縄から宮崎に来るにはパスポートが必要な時代だった。

そんな沖縄の人たちに代わって球場全体が沖縄高校を応援する熱気に包まれていた。
三浦健逸さん
「スタンドを見渡したら沖縄を応援する人のほうが多いんですよ。あれ?なんでみんな沖縄を応援しているんだろうと…動揺ですよね。ホームは宮崎のはずなのに」

まさか、まさかの敗戦…

そして、試合は始まった。

大淀高校が1点を先制した直後の4回、三浦が沖縄高校打線につかまる。
県大会の疲労のためかストレートにいつものスピードがない。

さらにコントロールも甘い。

真ん中に集まった球を痛打された。

フォアボールや味方のエラーも重なり、一挙に4失点。
一方、打線も沖縄高校のエース安仁屋宗八投手の浮き上がるような速球に苦戦。

県大会の4試合で19得点を奪った打線も沈黙した。
三浦さん
「試合中はとにかく焦りです。自分のバッティングができない…“こんなはずじゃない”って、“こうじゃない”と“時間よ止まれ”と」
まさか、まさか。狂ったリズムは元には戻らなかった。

安仁屋の前に打線は散発4安打。

大淀高校は2-4で敗れた。

南九州大会で宮崎代表が沖縄代表に負けたのはこれが初めてだった。

三浦の甲子園出場の夢は予想だにしなかった形でついえた。

一方、下馬評を覆した沖縄高校。

記念大会などの特別枠での出場を除けば、沖縄県勢として実力で初めて甲子園出場を決めた歴史的な一日となった。

引きずり続けた沖縄への感情

湧きあがるスタンド。沖縄を祝福する大歓声があがっていた。
毎日新聞より
“紫紺の優勝旗を先頭にグラウンドを1周する沖縄ナインははじめて自分たちがかちとった優勝の感激にひとみもうるみスタンドからはアラシのような拍手が贈られた”

宮崎日日新聞より
“勝った沖縄ベンチに比べ、大淀側は気の毒なほど沈んでいた”
敗れた三浦たち大淀ナインにねぎらいの声が上がる一方で…。

まさかの敗戦に、信じがたい声があがったことが当時の新聞に記されていた。
宮崎日日新聞より
“本県チームが沖縄に負けたのも初めてのこと。それだけに県営球場に詰めかけたファンの間では『本県の恥だ』という声も聞かれた”
宮崎の恥…。

三浦は試合後自宅に戻ることができなかった。

応援してくれた近所の人たちに合わす顔がないと離れて暮らす兄の家で2週間引きこもった。

たかが野球、されど野球。

屈辱的ともいえる敗戦は、10代の多感な1人の球児の胸に一つのとげとして刺さり続けることになる。

あの日を迎えるまでは。
三浦さん
「就職しても結婚しても子どもができても沖縄に負けた悔しさはずっと頭の中から消えることはありませんでした。沖縄のことを聞くのも嫌、何をするにしても沖縄のことは嫌、沖縄の音楽を聴くのも嫌だったですね」

“負けて当然”からの勝利

一方、沖縄高校の選手たちはあの歴史的な勝利をどう感じていたのか。

あの試合、三浦と投げ合った沖縄のエース安仁屋宗八は柔和な顔で懐かしんでこう振り返った。
安仁屋さん
「今まで本土に1回も来たことがなかったし、甲子園のこともよく知らんかったですね。 大淀の試合に勝って初めて、あぁそういうところに行けるんだなって本土との差はもう歴然とした感じ。今まで先輩も勝てないし、負けて当然だと思われとるから。勝てないとおもって僕らも戦ってましたからね。負けて当たり前と」
日本で唯一、住民を巻き込んだ激しい地上戦が行われた沖縄。

県民の4人に1人が犠牲となった。

戦後もアメリカ統治下のもと、復興を続ける本土と理不尽なまでの差が生じた。

安仁屋たちは高価なバットやグローブなどを手に入れることも、新品のボールを使うことすらもままならなかった。

“沖縄の星”となった安仁屋

“負けて当然”の試合でつかんだ甲子園の切符。

安仁屋にとって人生の大きな分岐点となっていた。
高校卒業後、社会人野球を経て広島カープに入団。

1年目からプロ初勝利をあげ『沖縄の星』と称された。

豪放磊落な性格。

鋭いシュートを武器に勝ち星を重ね現役通算119勝。

引退した今もプロ野球の解説者として活躍する。
安仁屋さん
「僕が今こうして野球に携わる仕事をさせてもらっているのはあの大淀高校に勝って、甲子園に行けた、それが僕の今の人生のすべてじゃないかなと今になって思いますね。あれが甲子園に行ってなかったら今の僕はないと思います」

60歳のときに訪れた思わぬ転機

『宮崎の恥』とまで言われた三浦。

沖縄への屈折した思いを抱え続けていた。

そんな三浦の大きな転機となったのが、あの試合から40年余りたった60歳の還暦。
いつまでも引きずり続けていた三浦を見かねた9つ上の妻・洋子が還暦祝いの家族旅行を提案した。

行き先は三浦が避け続けた沖縄。

生まれて初めての沖縄旅行だった。

しぶしぶ参加した名所を巡る観光バスツアー。

三浦の心を震わせる出来事が起きた。

バスが予定していなかった経路を進み、かつての沖縄高校(現在の沖縄尚学高校)の前を通りかかったときのことだった。
三浦さん
「ここが沖縄が初めて甲子園に行った沖縄高校で、ピッチャーは安仁屋投手ですと。プロ野球に行って活躍してっていうことを説明されたんです。沖縄県民にとって最大の喜びごとがここなんですということをドライバーさんとガイドさんがおっしゃってくれて」
かつて自分が白球を追いかけた高校球児だったこと。

宮崎県予選で優勝したこと。

そして、甲子園出場まであと一歩だったこと。

自分の子供や孫にまで話せずに生きてきた。

野球に、沖縄に心に閉ざしたままだった三浦。

40年以上たってもなお、沖縄の人たちがあの試合を誇りに思っている。

心のわだかまりが溶けた瞬間だった。
三浦さん
「自分たちのことばっかり考えてた負けた悔しさだったんですが、沖縄の方のことを考えれば自分たちの負けにすごく深い意味があったんだなっていうのをそこで初めて知って、自分なりに気持ちの中で整理することができたっていうか」

あのとき言えなかったことば

三浦から安仁屋へ。

そして沖縄の人たちへ60年たった今だからこそ伝えたい。

“おめでとう”
三浦さん
「その時は言えないですよ、やっぱり。17歳18歳の野球少年でやってきて沖縄おめでとうは言えない。もう78歳になりますけど、今、おめでとうを言いたいですね。60年前、宮崎の県営球場、そこで戦った記憶は私の宝です」
宮崎放送局カメラマン
小林亨輔
2016年入局
大阪局を経て宮崎局
心の機微を伝えられるカメラマンになりたいです