WEB特集

発見!“岡本太郎の幻の作品”か 苦悩の末の“爆発!”

「芸術は爆発だ!」

力強いことばと、それを体現したような作品で、今なお、多くの人に影響を与え続ける芸術家・岡本太郎。

「岡本太郎が20代初めのときに描いた幻の絵画が残されている?」

そんな情報を聞きつけた私は、「まさか」と思いながら取材を進めた。その過程で浮かび上がってきたのは、若き太郎の悩みと苦しみ、そして「自分」と正面から向き合い、闘った、真摯な姿だった。
(科学文化部記者 岩田宗太郎)

運び込まれた3点の絵画

搬入の様子(2月21日)
ことし2月、東京都内のとある倉庫に、パリで保管されていたという3点の油彩画が運び込まれた。

到着を待ちわびていたのは5人の専門家。

絵画には、ひらひらとした布のようなものや、どことなく煙のように見える不思議なモチーフが描かれている。

「これ不思議だよね」

「こんな感じは太郎っぽいけれど…」
運び込まれた絵画
3点のうち1点には、「岡本太郎」とも読み取れるぼやけた漢字の署名が。

のぞき込む専門家からは、とまどいも感じられた。

なぜなら、「パリ時代の太郎の作品が残されているはずはない」というのが、美術界の常識だったからだ。
岡本太郎記念館 平野暁臣館長
「びっくりしました。パリから持ち帰った作品・資料は、何から何まで、すべて空襲で燃えてしまったんですよ。だから、当時のものは一切、残っていないというのが定説だし、僕もそう信じていました。

もし、今回の3点が太郎の作品だとしたら、岡本太郎の歴史を塗り替える大発見なんです。しかも、写真も記録もなくて、存在そのものが知られていなかった」

自宅は空襲を受け、作品・資料は焼ける

岡本太郎は1911年、著名な漫画家だった岡本一平と、歌人で小説家の岡本かの子の長男として生まれた。

18歳で両親と共にパリに渡り、2人が日本に戻ったあとも絵画の勉強と創作活動を続ける。
若き日の岡本太郎
そして29歳のとき、ドイツ軍のフランス侵攻に伴って、それまでに描いた絵や資料を携えて日本に帰国したとされている。

しかし、中国に出征している間に自宅は空襲を受けて焼けてしまった…。

パリからの連絡で事態が動く

止まっていた歯車が動き始めたのは、ことし2月。

パリ在住のフランス人男性から、「自分が所有する作品に『岡本太郎』のサインがある」という情報がもたらされ、太郎に関する資料収集や研究を行う「岡本太郎記念現代芸術振興財団」などが詳しい調査を行うことになったのだ。
岡本太郎記念館
調査は、以下のような手順で進められることになった。

▽フランス人男性がまとめて所有していた3点は、すべて同一人物が描いたものなのか、確かめるために絵の具の成分分析を行う。

▽3つの作品のうち1点に書かれていた「岡本太郎」とも読める署名の筆跡鑑定を実施。

▽それらを踏まえたうえで、太郎の作品に詳しい専門家が協議し、見解をまとめる。

絵の具の成分分析

まずは、3点の絵画、それぞれに使われた絵の具の成分分析だ。

東京電機大学の阿部善也助教が、蛍光X線分析という技術で調査を行った。
その結果、3点の作品に使われている「青」や「黒」、「クリーム色」の成分がほぼ共通していることが分かった。

3点とも同じ作者が、同じような絵の具を使って描いた可能性のあることが分かった。

筆跡鑑定

次は筆跡鑑定だ。
戦時中、自宅が焼失したこともあって、若いころの太郎の文字はほとんど残っていない。

パリ時代以前の10代のころに太郎が書いた文字、そしてパリ以後の60代のときに書いた文字などを、民間の専門機関が分析することになった。

パソコンに文字を取り込んで解析した結果は…。

同一の筆者、つまり岡本太郎によって書かれた可能性が高いと推定する、というものだった。

研究の第一人者が集結

こうした結果を踏まえ、5人の専門家が再び顔をそろえた。

東京・南青山の岡本太郎記念館に集まったのは、次の人たち。

▽記念館の平野暁臣館長。

▽太郎の代表作=「明日の神話」などの修復も担当した絵画修復家の吉村絵美留さん。

▽現代アートをリードするワタリウム美術館の和多利浩一CEO。

▽美術評論家で多摩美術大学の椹木野衣教授。

▽美術史に詳しい明治学院大学の山下裕二教授。

いずれも太郎研究の第一人者だ。

5人は、パリ時代に出版された太郎の画集、「OKAMOTO」に掲載された作品との比較などを基に検討を進めた。
画集「OKAMOTO」
吉村さんは、絵の具の成分分析の結果などから、次のように指摘した。
吉村さん
「デジタル顕微鏡で拡大すると、この3点は同じようなキャンバスを使って描かれていることが分かる。さらに3点の作品の絵の具にも共通点があり、同じ作者が描いた可能性が高い。そのうちの1枚には『岡本太郎』のサインがある」
和多利さんは、さらに積極的だ。
和多利さん
「絵を見るときは、最初の出会いの瞬間がとにかく大事だ。作品との対峙のしかたが、直感的に太郎さんのものだと思った。細かいことを言えば線にたどたどしいところはあるが、ポイントは描かれているテーマと手法。ひらひらしているものを描いていたり、空間が2つに分かれていたりするところが、岡本太郎の作品だと感じた」
椹木さんは、パリ時代の太郎の心情に踏み込んだ。
椹木さん
「当時の太郎には、日本を離れて、世界中から集まり腕を競う画家たちの中でオリジナルの作品を作り上げなければならないという“強い圧力”や“悩み”があったと思う。今回の3点には、そういう要素が表れているとも言えるのではないか」
山下さんも同意する。
山下さん
「悩める若き岡本太郎の姿が見えてくる。そういう意味でも重要な発見だと思う。僕の中では、もう100%だなと。太郎の絵には描いているときの“身振り”が見えてくるような独特の曲線がある」
5人の結論は、「太郎本人が描いた可能性が極めて高い」というもの。

これまで、その存在さえ知られていなかった3点の作品が、改めて“発見”された瞬間だった。

3点の“太郎作品”はなぜ残されたのか

太郎自身が描いた可能性の高まった3点の絵画。

だが、いったいなぜ、パリに残されていたのだろう?

平行して調査が進められ、次のような経緯が浮かび上がってきた。

パリ市内には19世紀末から使われ、今も残っている「アトリエ村」とも呼べる一画がある。

太郎とも切磋琢磨したミロやエルンストといった画家たちが過ごした場所だ。
1993年、ここに住んでいたある画家が、アトリエ内に残っていた「絵」をゴミ捨て場に廃棄した。

このとき、同じ「アトリエ村」に住むフランス人男性が、その「絵」に興味を持った。

彼は、「絵」を持ち帰って保管することにした。

翌年、画家は亡くなり、アトリエ内に残されていたほかの2点もオークションにかけられる。

フランス人男性は、その2点も落札し、合わせて3点の作品を手に入れた。
それが今回の3点が残された経緯だ。

このうちの1点は、一度は廃棄されたものの、数奇な運命を経て今に伝えられた。

まるで奇跡のような出来事ではないか。

「完成度はやや低い」

一方で、3点の出来栄えはと言うと…、専門家たちの評価は厳しい。
岡本太郎記念館 平野館長
「のちに発表されていく作品群と比べると、完成度はやや低いし、はっきりとやや稚拙です。太郎の作品の持つダイナミズムやスピード感があまりないんです。恐る恐る、いろんなことを考えながらトライしていった、そんな感じがします。

でも、それはしょうがないことだと思う。迷いながら、ちょっとずつ、ちょっとずつ描いていたんじゃないかと」

抽象画との出会い

パリで本格的に絵を描き始めた若き太郎。

ある日、20世紀を代表する画家・ピカソの作品に出会い、涙が出るほどの衝撃を受けたという。

そして、みずからも抽象的な表現を志した。

当時の心情を語ったインタビューが、NHKに残されている。
岡本太郎
「興奮した、涙が出るほどね。感動した以上は『あれを乗り越える、あれと全く違った、そして乗り越える仕事をしてやる』と決意しました。それで僕は抽象へどんどん入ったわけです」
平野さんたちは、今回の3点は、20代初めの習作(=練習のために描かれた作品)だろうとみている。

画集「OKAMOTO」に掲載された「空間」という抽象画(23歳のときの作品)は、こうした習作から発展したものかもしれないという。
「空間」

太郎の中に悩みと苦しみが

ただ、このころ、太郎の中に悩みと苦しみが生まれる。

著作《自分の中に毒を持て》の中で、太郎は次のように書いている。
「迷いつづけていた。自分はいったい何なのか、生きるということはどういうことか」(《自分の中に毒を持て》)
このまま抽象画を描き続けてよいのか。

それとも、新しい道を模索するべきなのか。

パリで、もがき続けた太郎。

人の真似ではない、自分にしか描けない作品を生み出す決意を固めた。
「いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。死に対面する以外の生はないのだ。その他の空しい条件は切り捨てよう。そして、運命を爆発させるのだ」(《自分の中に毒を持て》)

「傷ましき腕」が転機に

25歳のとき、太郎は1つの作品を生み出した。

「傷ましき腕」
「傷ましき腕(再制作)」
この作品には、浮遊しているような大きく赤いリボンが描かれている。

同時に太郎は、強く力を込めて拳を握った腕もキャンバスに描き込んだ。

写実的とも言える表現だが、腕には何かで切り取られたようならせん状の傷が入り、見る人に痛みを感じさせる。

岡本太郎記念館の平野さんは、「傷ましき腕」には抽象と具象、相反するような2つの表現が同時に取り入れられたと指摘する。
岡本太郎記念館 平野館長
「抽象画っていうのは、抽象的なものだけで表現を構成するという考え方なので、本来、具体的なものは描いてはいけないんです。

しかし『傷ましき腕』には、はっきりと腕が描いてあり、生々しい傷が描いてあって、明らかに抽象表現からは逸脱している。命の躍動感のようなものを表現しようとすると、やはり抽象的な要素だけでは足りないと思ったのではないかと僕は想像しています。

太郎は、どうすれば自分の表現を獲得できるか、苦闘をしていたわけです。それを乗り越えて自分の表現をつかんだ」
その後、太郎は次々と抽象と具象が融合したような作品、原色をふんだんに使ったパワフルな作品を生み出していく。
「森の掟」
創作の対象は、絵画だけでなく、彫刻、オブジェ、そして家具にまで広がり、街角で、ふと見上げた先に、太郎の作品があるというケースも少なくない。

太陽の塔・明日の神話へ

中でも、代表作は1970年の大阪万博のシンボルとして制作された「太陽の塔」と、メキシコで制作され、原爆がさく裂した瞬間をイメージして描かれた「明日の神話」だろう。
太陽の塔
今も大阪・吹田市の万博記念公園にそびえ立つ「太陽の塔」は、高さ・約70メートル。

塔の中央、上、そして背面に付けられた3つの「顔」が特徴だ。

内部には生物の進化の様子を表現した「生命の樹」が作られている。

その威容は、風景の中にとけ込んでいるようでもあるし、それを拒否しているようにも感じられる。
「明日の神話」
ほぼ同時期に制作が進められた「明日の神話」は、高さ5.5メートル、幅30メートルの巨大壁画。

燃え上がる骸骨や第五福竜丸などを描き、核兵器の恐怖や悲惨さを表現するとともに、何者にも消し去ることのできない生命力をも感じさせる。

制作後、一時、行方が分からなくなっていたが、メキシコシティーの倉庫で発見されて修復が行われ、現在は東京・渋谷駅の連絡通路で、道行く人を見下ろしている。

こうした作品群は、若き太郎が苦悩を重ねたからこそ生みだされたのだと、私は感じた。

「太郎の最高傑作は、岡本太郎という存在」

今回の発見をきっかけに、私は岡本太郎という人物の一端に触れた。

平野さんは、現代ほど「岡本太郎」が求められている時代はないと言う。
岡本太郎記念館 平野館長
「今回の作品は、太郎の出発点であり、源流である。そうした意味で非常に重要です。太郎は、創ったもの、考えていたこと、実際の言動、社会との関わり、すべてにおいて一般の美術作家とは、ステージが全く違うわけです。

太郎はいろんなものを創ったし、いろんなものを残したけれども、最高傑作は何かと問われれば、僕は迷うことなく『岡本太郎自身』だと答えます。いわば岡本太郎という存在そのものですね。

太郎がやろうとしたことは、すべて、『人間とは何か、芸術とは何か』という根源的な問いに関わることです。つまり、人間の本質や根源に迫ろう、タッチしようとして物を創り、いろんなことを語ってきた。今、閉塞的な時代であるからこそ、岡本太郎が必要だし、岡本太郎を求める人たちがいるんだろうと思います」

太郎の残したことば

最後に、岡本太郎が残したことばを、いくつか挙げてみたい。

あなたは何を感じるだろうか。
「生きる日のよろこび、悲しみ。一日一日が新しい彩りをもって息づいている」
「自分の限界なんてわからないよ。どんなに小さくても、未熟でも、全宇宙をしょって生きているんだ」
「ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者。無条件に命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。“芸術は爆発だ”」
(今回の3作品について)
今回確認された3作品は、7月23日から開かれる「展覧会『岡本太郎』」で初めて一般に公開される予定。
科学文化部記者
岩田宗太郎
平成23年入局
宇都宮放送局を経て平成28年から科学文化部

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