人間国宝 志田房子 琉球舞踊の原点に「ガマで聞いた水滴の音」

人間国宝 志田房子 琉球舞踊の原点に「ガマで聞いた水滴の音」
沖縄戦で身を隠した自然洞窟・ガマで聞いた「ポトン、ポトン」という水滴の音に「生きていること」を実感した少女は、琉球舞踊で初めての人間国宝になり、ことし5月、本土復帰50年の式典の舞台を飾りました。

「踊りは、私の臓器の一部」だと話す志田房子さん。

創作舞踊「鎮魂の詞」は、77年前にガマで聞いたあの水滴のしたたる音で始まります。
(沖縄放送局記者 西銘むつみ)

沖縄に浸透する琉球舞踊

ことし5月15日。
沖縄県宜野湾市の会場でおごそかに、そして、みやびやかに琉球舞踊を披露する志田房子さんがいました。
27年間におよぶアメリカ統治から本土に復帰して50年を迎えたこの日、沖縄では、総理大臣や沖縄県知事が出席する記念式典が開催されました。

そのレセプションの幕開けを琉球舞踊で飾ったのが志田さんです。
志田さんは、琉球舞踊の分野で初めて、国の重要無形文化財保持者、いわゆる「人間国宝」に昨秋、認定されました。

国の重要無形文化財の琉球舞踊には「古典舞踊」や「雑踊(ぞうおどり)」があります。

沖縄が今の中国と交易があった琉球王国時代に、中国からの使節をもてなすため国の威信をかけて完成したのが「古典舞踊」、それをもとに沖縄の民謡を取り入れ明治以降に作られたのが「雑踊」です。
琉球舞踊は通称「琉舞」と呼ばれ、沖縄では子どものころからお稽古事として習っている人がたくさんいます。

ちなみに沖縄出身の私は高校の体育の授業で習いましたが、親しむことと踊れることの大きな違いを痛感したことを覚えています。

誰もが知る少女

志田さんが人間国宝に認定されるという記事を書いた直後、実家を訪れた私は、母のことばから志田さんのすごさを改めて認識することになります。

志田さんと同い年の母が「根路銘房子さん、よかったね。人間国宝って、すごいね」と、旧姓・根路銘房子さんのことを興奮して語り始めたのです。
芸歴82年の志田さん。
小学生のころから沖縄で名をはせていたのです。

それなのに……。

そこから始めないといけないの?

東京を拠点にしている志田さんは沖縄が本土に復帰する4年前、結婚を契機に夫の出身地、東京に移り住みます。

当時、沖縄はアメリカの統治下でいわば「外国」扱い。
パスポートのような役割を果たす渡航証明書を持って本土に渡りました。

その志田さんをがく然とさせたのは、琉球舞踊の認知度の低さもさることながら、沖縄に対する誤解だったと言います。
「沖縄のことをあまり理解してもらえていなくて、会話をすると『日本語がお上手ね』と言われたこともあります。琉球舞踊どころかそこから始めないといけないのかと」
志田さんは付け加えます。
「沖縄戦で焼け野原になったため、戦後、メディアが戦災復興のためにと、はだしで生活している様子や貧しい現状を伝えましたが、本土の方々はその印象を、まだひきずっているようでした」
等身大の沖縄を知ってもらわなければ。

志田さんはある行動に出ます。

琉球舞踊を広めたい

志田さんは子どもの保育園の行事など、ことあるごとに琉球舞踊を披露していきます。
「卒園式や謝恩会などでプログラムに余興があると、『もし、よろしければ踊らせてもらえませんか』と持ちかけました。子どもたちに迷惑をかけるだろうかと迷いも悩みもしましたが、うちの子どもたちは沖縄出身であることに誇りを持っていましたので、嫌がることはありませんでした」
琉球舞踊には、はだしで軽快に踊る「雑踊」もありますが、はだしでの踊りは一切披露せず、みやびやかな古典舞踊を紹介することから始めました。
「『沖縄にこんな踊りがあったんですね。琉球舞踊っていいですね』と言ってもらえるようになりました」
1972年、沖縄は本土に復帰。本土との行き来が自由になり、琉球舞踊も徐々に広まっていきました。

そして、志田さんも新たな一歩を踏み出します。

亡き師匠の一文字を流派名に

志田さんは自ら新たな流派「重踊流(ちょうよう)」を立ち上げます。
「重」という文字は志田さんが最初に入門した琉球舞踊の名匠、玉城盛重からもらいました。
名作「むんじゅる」を作った盛重にわずか3歳で師事した志田さんは、師匠を「おじいさん」と呼び、ゆっくりと歩く「歩み」の稽古を徹底的に重ねました。

しかし、悲劇が訪れます。

ハブ、飢え、マラリア、沖縄戦の記憶

7歳のころ、太平洋戦争末期の沖縄戦が始まります。
志田さんは容赦なく降り注ぐ砲弾と爆音におびえながら、沖縄本島北部に疎開します。

当時、はだしで逃げる人も大勢いましたが、志田さんは琉球舞踊の丈夫な足袋をはいて数日間、歩き続けました。

ようやくたどり着いた疎開先は父親のふるさと、今の大宜味村でした。
アメリカ軍に見つからないよう山奥に隠れていましたが、ハブにかまれて命を落とす人が相次ぎ、「ハブを見たら動かないようにじっとしていなさい」と、大人たちから厳重に注意を受けました。

ハブの恐怖、ひもじさ、そして、77年がたったいまも脳裏から離れない光景がマラリアに感染した人たちの姿です。
「ひきつけを起こしたみたいにブルブル震えているんです。みんな同じ症状で並んで横たわっている。男性は兵隊にとられていないから、お母さんたち女性がバショウの葉をとって来て、芯をくだいて柔らかくして床に敷いてそこに寝かせるの。葉っぱは冷たいから高熱の体を少しでも冷やそうとしたんでしょうね。タオルもないから、着替えの服を川の水で濡らして体にかけてあげて熱をとって、みんなで助け合っていました」
アメリカ軍の攻撃がある日中は、家族で自然洞窟のガマに身を隠しました。

そこで聞こえたある音が、志田さんに生きていることを実感させたといいます。
「ガマの先からポトン、ポトンとしずくが落ちますよね。その音が私にとっては気持ちいい音なんですね。今、音を聞いている時間が、みんなが生きている時間。みんなが元気であればいいという気持ちが子どもながらにありました」
そして、終戦。

志田さん家族は激しい地上戦を生き延びましたが、大切な人の命が奪われていました。

それでも踊り続ける

戦後、師匠の盛重が沖縄戦で亡くなったことを耳にした志田さん。

しかし、踊りを諦めることはありませんでした。

戦後の物資が乏しい中、志田さんの母親はアメリカ軍の払い下げのシーツを縫い合わせて衣装に仕立て、志田さんはその衣装を着て近所の原っぱを舞台に踊りました。
「広場にドラム缶を置いてベニヤ板を置いて、その上で踊るわけですよ。それでも皆さんが拍手や手拍子をして、にこやかに踊らせてくださる。踊りってみんなの心が豊かになるんだなと」
志田さんは亡き盛重から仕込まれた雑踊「むんじゅる」など芸を磨き続け、国内外の公演で琉球舞踊の魅力を発信していきます。

さらに、創作舞踊の制作にも精力的に取り組み、沖縄戦の体験をもとにした作品「鎮魂の詞」を作ります。
77年前、疎開先のガマで聞いたあの水滴のしたたる音。

その音で始まる作品は、鎮魂と平和の尊さを静かに訴えかけています。
「とにかく平和であってほしい。沖縄戦を体験した者として、私たちが守ろうとしている文化やすべてのものを壊すようなことは、同じ人間がしてはいけないと思う」
「県民の4人に1人」

多くの住民が命を落とした沖縄戦と、今のウクライナの現状を重ね合わせずにはいられない、志田さんの重いことばでした。

踊りは臓器の1つ、そして平和は

6月、志田さんは沖縄戦の組織的な戦闘が終わったとされる「慰霊の日」を前に、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」を訪れました。

20代の弟子と一緒に向かったのは沖縄戦で犠牲になった師匠、盛重の名が刻まれている場所です。
志田さんは引き寄せられるようにすっと「玉城盛重」の名前に近づき、手のひらで何度も何度も優しく名前をなでていました。

その直後、地面をたたきつけるような雨が降り、インタビューもままならない程でしたが、私の耳には、志田さんのすすり泣く声がはっきりと聞こえ、目には光るものが見えました。
志田さんは師匠の名前に背中を押されるようにして、いつもより強い調子の早口でこう語りました。
「次の世代を担う子たちがもっと戦争というものに向き合って、戦争はいけないということを沖縄から発信してもらえるように、琉球舞踊も戦争に対する思いも引き継いでいきたい」
志田さんは「私の体の中には踊りという臓器があるように思う」としなやかに語ります。

「いくさ世(ゆー)」、「アメリカ世」、そして「やまと世」という世変わりを琉球舞踊とともに歩んできた志田さんは、平和な世の中、「みるく世」を願いながら踊り続けます。
沖縄放送局記者
西銘むつみ(那覇市出身)
1992年入局
沖縄戦や基地問題など沖縄を取材し続ける