ビジネス特集

“スパイ”はすぐそこに… 狙われる日本の先端技術

「設備の設計図と化学式をいただければ10万ドル(およそ1300万円)払います。あなたの経験と知識を求めているんです」

エンジニアに機密情報の漏えいをそそのかす2人の中国人。これはアメリカのFBI=連邦捜査局が実際のスパイ事件をもとに作成した動画のワンシーンだ。

まるで映画の世界だが、実は日本も無関係ではない。外国の“スパイ”などによって先端技術が狙われる事件がここ数年、相次いでいるのだ。

その舞台は工場でもオフィスでもなく、東京・新橋の飲み屋街。日本でいったい何が起きているのか、取材した。(経済安全保障 取材班)

“スパイ”が飲み屋街に?

JR新橋駅前。
路地裏や高架下に至るまで飲食店がひしめき合っている。

官庁街やオフィス街からも程近く、仕事帰りのサラリーマンの「聖地」として知られるエリアだ。

この場所をきっかけに、大企業の通信設備に関する機密情報が流出する事件がおととし、発覚した。
通信大手・ソフトバンクの元社員が会社の機密情報を不正に取得した罪で有罪判決を受けた事件だ。
警視庁公安部 増田美希子参事官
「このあたりがまさにスパイ活動の現場になっていました」

取材に応じてくれたのは、事件の捜査を担当した警視庁公安部の増田美希子参事官。
裁判では明らかにされなかった“スパイ”の手口を詳細に語った。

きっかけは5年前の2017年。
この場所で、40代の社員(当時)とあるロシア人が出会ったことだった。
増田参事官
「社員が『このあたりでおいしい店を知りませんか』と声をかけられたことがファーストコンタクトです」
在日ロシア通商代表部
路上で社員に声をかけてきたのは、在日ロシア通商代表部の職員だった。
貿易関連の業務を担うロシア大使館の組織だ。

日本語で話しかけてきたこの職員。
社員に事前に目を付けた上で、偶然を装って近づいたとみられている。
この時、1人でいた社員はそのまま一緒に近くの飲食店へ。

その後もたびたび会食する仲になった。

そして数か月後、この職員が帰国することになり、「後任のロシア人にも日本語を教えてあげてほしい」と別の人物を紹介される。
在日ロシア通商代表部のナンバー2にあたる代表代理(当時)だ。

しかしこの人物、実際にはロシアの情報機関の1つ、「SVR」=対外情報庁に所属していたとみられている。

その中でも、科学技術に関する情報を専門に収集する「ラインX」と呼ばれるグループの一員だったとされる。

“プロのスパイ” 巧みな話術

それから2人は、およそ2か月に1度のペースで会食を重ねていった。

会食の話題は食べ物から国際情勢まで幅広く、社員が仕事の悩みを聞いてもらうこともあったという。

社員は、しだいに代表代理の巧みな“話術”にはまっていくことになる。
増田参事官
「みずからのエージェントとして好ましい人物を調べあげた上で、卓越したコミュニケーション能力で近づく。そして、自身が持つ人間的な魅力や人柄で相手を惹きつけ、ほれさせる。これが“プロのスパイ”の手口です。社員も当時の調べに対し『この人の役に立ちたかった、喜んでもらいたかった』と述べています」

同じ店は使わない

一方、代表代理は不審な行動もとっていた。

会食の場所は東京や周辺の県の飲食店だったが、すべて代表代理が指定し、同じ店を使うことはなかった。

携帯電話の番号なども教えず、会食のたびに次の日時や場所を伝えてきたという。

また、飲食店で直接会うのではなく、必ず周辺の人目につきにくい場所で待ち合わせた上で店に向かっていたそうだ。

警視庁は、誰かに監視されていないか常に警戒し、接触した証拠を残さないようにしていたとみている。

要求がエスカレート機密情報が…

会食を通じて関係を深めていった2人。

やがて代表代理は、ソフトバンクが持つ技術に関する情報を求めるようになる。

初めのうちは会社がホームページで公開している情報にとどまっていたが、要求はしだいに機密情報にまでエスカレート。

社員は渡す資料の内容に応じて、数万円から20万円の謝礼を受け取っていたという。

一方、社員が要求を断ろうとすると、「あなたの住んでいるマンションを知っている」などと脅すような言葉をかけてくることもあったそうだ。

数十桁のパスワード 証拠は残さない

さらに、機密情報を渡す際の具体的な手順も、代表代理が指示していた。

情報をパソコン画面に表示させた上で、それをデジタルカメラで撮影し、SDカードに記録する方法だ。

その際、社員は数十桁に及ぶパスワードを設定し、記録したデータをいったん削除した上でSDカードを渡すよう指示されたという。

警視庁は、情報を不正に取得した証拠を残さないようにした上で、受け取ったデータを復元していたとみている。

社員は懲戒解雇 そして逮捕

その後、社内調査で事件が発覚し、社員は懲戒解雇。
会社のサーバーから通信設備に関する機密情報を不正に取得した罪で逮捕・起訴された。

おととし開かれた裁判では起訴された内容を認め、懲役2年、執行猶予4年、罰金80万円の有罪判決を受けている。

一方、代表代理は警視庁の出頭要請に応じずロシアに帰国した。

その後、元社員をそそのかしたとして書類送検され、起訴猶予に。

流出した機密情報がどのように使われたのか、事件の真相は明らかになっていない。
増田参事官
「今回のケースは懐柔工作、隠ぺい工作、報酬、そして脅迫に至るまで『プロのスパイの手口の見本市』のような特徴があります。国家機関による組織的なスパイ事件と考えられ、収集されたあらゆる情報はロシアの国益に資するよう利用されたとみています」

事件相次ぐ背景に米中の対立か

私たちのごく身近なところで活動していた“スパイ”。
こうした手口に限らず、日本の先端技術の流出をめぐる事件はここ数年、相次いでいる。

ロシアのほかに目立っているのは、中国の企業などの動きだ。
○2019年
・京都市の電子部品メーカー「NISSHA」元社員が、主力製品の技術情報に関するデータなどをコピーして持ち出し、一部を転職先の中国企業の技術者に送信したなどとして逮捕・起訴され、有罪判決を受ける
○2020年
・ソフトバンク元社員が、通信設備に関する機密情報を不正に取得したとして逮捕・起訴され、有罪判決を受ける
・積水化学工業元社員が、スマートフォンの画面に関する研究内容を中国の通信機器関連会社に漏らしたとして書類送検。2021年に有罪判決を受ける
○2021年
・JAXA=宇宙航空研究開発機構などおよそ200の研究機関や会社が大規模なサイバー攻撃を受ける。捜査関係者によると、中国人民解放軍の指示を受けたハッカー集団によるものとみられることが判明
なぜ今、日本の先端技術が狙われるのか。

背景にあると考えられているのが、ハイテク技術をめぐるアメリカと中国の激しい対立だ。
トランプ政権の誕生後、アメリカが中国の通信機器大手、ファーウェイの製品を締め出す措置を取るなど、米中の覇権争いが激化。

これを受けて、各国は経済安全保障の観点から、半導体などの重要物資の確保や先端技術の管理といった対応を強化している。

先端技術のいわば“争奪戦”とも言える状況の中で、日本の技術が違法なスパイ活動などによって流出する懸念がこれまで以上に高まっていると指摘されているのだ。

SNSが流出の入り口に…

こうした中、最近目立っているのが、SNSを通じて海外の企業が接触を図るケースだ。

去年、大阪に本社がある積水化学工業の元社員が、スマートフォンの画面に関する研究内容を中国企業に漏らしたとして有罪判決を受けた事件。
きっかけは、ビジネス向け交流サイトを通じて会社側からコンタクトがあったことだった。

世界で7億人を超えるユーザーがいるとされるこのSNS。
プロフィール欄に職歴や資格などを詳細に記入することができ、転職などで活用する人も多い。

元社員も、担当する研究などについて書き込んでいた。

警察によると、中国企業は積水化学工業ともともと取り引きがある会社を装い、「あなたが研究している技術について教えてほしい」と接触してきたという。

その後、元社員は中国を訪れるなどしてやりとりした上で、機密情報をメールで伝えていた。

中国企業からは「技術顧問に迎える」などと持ちかけられていたそうだ。

元社員は任意の事情聴取に対し、当時、次のように話していた。
元社員
「自分の研究が評価されていなかった。情報を渡す代わりに中国企業の情報を入手して新たな技術を開発し、上司や会社を見返したかった」
しかし、元社員が中国企業側から情報を得た形跡は確認されていないという。

研究者「流出リスクなくならない」

SNSを通じて海外の企業からたびたびアプローチを受けているという、先端技術の研究者に話を聞くことができた。

都内の研究機関に勤める30代の男性。
AI=人工知能をものづくりの分野に活用する研究が専門で、研究機関のほか、メーカーに勤めていたこともあるそうだ。

この男性も元社員と同じビジネス向け交流サイトを利用し、みずからの職歴や専門分野などを公開している。
男性のもとには、3年ほど前から中国のエージェントや「アジアを拠点とする企業から依頼を受けた」という会社などからメッセージが届くようになった。

このうちの1つは、中国の通信機器大手への転職のオファーだった。
当時は、先端技術をめぐる米中の対立が激化した頃。

男性は「半導体などの技術に詳しい人材を自国で獲得する必要が出てきたので、オファーをたくさん出していたのだと思う」と話す。

中国で働くことに魅力を感じなかった男性は、そのオファーを断った。
さらに、男性のもとには、報酬と引き換えに専門分野の技術について電話インタビューをしたい、という内容のメッセージも次々に届いている。

時間は1時間程度で、報酬は3万円から4万円ほど。
中には「金額はご自身でご自由に設定いただけます」とするものもあった。

これまで依頼に応じたことはないという男性だが、転職のオファーだけでなく、こうしたメッセージも機密情報の流出につながるおそれがあると感じている。

その背景として挙げたのが、日本の技術者や研究者の待遇が海外の企業に比べて低い傾向にあることだ。
研究者の男性
「待遇面の弱みにつけ込まれ、報酬と引き換えに情報を渡してしまうことは十分に起こりうると思います。1時間に4万円ほどの額だと小遣い稼ぎとしてはかなり割がよく、私も正直言って魅力的だなと思ったことはあります。一度応じてしまえば、さらに高い報酬を得たいと感じ、人によってはどんどん重要な情報を漏らしてしまうおそれもある。特に、みずからの能力に比べて報酬が足りないという不満を日常的に抱いている人なら、こうした行為を正当化しやすいのではないでしょうか」
また、男性は、SNSを通じたやりとりは依頼する側にとっても人材を獲得したり、情報を入手したりするのに非常に効率的な手段だとした上で、次のように話している。
研究者の男性
「深い情報を得ようと思うのであれば、個人と直接コンタクトをとった方が早い。しかも個人の場合、コンプライアンスをどこまで守るべきか、その基準は人によってさまざまです。日本の企業が情報セキュリティーを高めたとしても、こうした依頼が魅力的だと感じる状況が続く限り、流出のリスクはなくならないと思います」

対策強化に乗り出した警察当局

経済安全保障室での打ち合わせ
さまざまな形で広がる、先端技術の流出リスク。
こうした現状を受けて、警察当局は新たな対策に乗り出した。

警察庁は、今年度から「経済安全保障室」を設置。

SNSなどを通じた合法的なアプローチも活発化する中、事件の捜査だけでは流出を防げないと、企業や研究機関に対策を助言する活動を本格化させている。
活動の柱は、担当者が企業などに直接出向いて助言する「アウトリーチ活動」だ。

実際の事件をもとに、海外の産業スパイやサイバー攻撃の手口を解説したり、機密情報を管理する方法を紹介したりして、対策の徹底を呼びかけている。

また、全国の警察本部も専門の部署を設置するなどして情報収集を進める。

最近では、▽海外の企業から突然、SNSで報酬を提示され技術指導を求められた、▽大学が経済安全保障上の懸念がある国の企業から共同研究を持ちかけられ、不審に感じているといった情報が相次いで寄せられているという。

軍事転用のリスクも

警察当局が最も警戒しているのは、日本の技術が海外で軍事転用されるリスクだ。
例えば、AI=人工知能は戦車やドローンなどの兵器に活用できるし、釣りざおなどに使われる炭素繊維はミサイルの材料にもなる。

私たちにとって身近な技術が次々に高度化する中、そのリスクはかつてより格段に高まっているという。

特に、ウクライナ情勢などで国際的な緊張が高まる中、警察庁は軍事転用されれば安全保障上の大きな脅威になるとして、取り組みを強化していく方針だ。
警察庁経済安全保障室 藤原麻衣子室長
藤原室長
「先端技術は大きな企業だけでなく、中小規模で、かつ都市部を離れているような企業でも等しく狙われています。自分の会社には狙われる技術はないなどと楽観せず、巧妙かつ多様な方法で技術が盗まれる可能性があるということに危機感を持ってほしい」

100社以上で機密情報が流出?

先端技術の流出を防ぐにはどうすればいいのか。

日本の企業の中には、▽機密情報へのアクセス記録を保存する、▽社員と「秘密保持契約」を結んで守秘義務を課すといった動きも出ている。

ただ、抜本的な対策は難しく、多くの企業が頭を悩ませているのが実情だ。

独立行政法人「情報処理推進機構=IPA」が企業を対象に行ったアンケート調査(2020年)によると、「機密情報の漏えいがあった可能性が高い」と答えたのは、回答があった2175社のうち、5%にあたる113社に上っていた。

しかも、流出ルートは「中途退職者」と「金銭目的などの動機を持った現職従業員」があわせて47%。

流出を防ぐことがいかに難しいかをうかがわせるデータだ。

経済安全保障に詳しい専門家は、最近はSNSなどによって流出のリスクがさらに高まっているとした上で、次のように指摘している。
東京大学先端科学技術研究センター 玉井克哉教授
玉井教授
「機密情報を漏らしてしまう技術者などは、社内での評価や待遇に不満を持っているケースが多い。流出を防ぐには、情報の管理を強化するだけでなく、国が必要な戦略分野を認定し、それに従事する技術者などを思いきって優遇したり、安心して研究に取り組める環境を整備したりすることも重要だ。日本では、技術の流出がビジネスだけでなく安全保障にも影響するという意識がまだまだ低く、業種にかかわらずその意識を変えていく必要がある」

日本の「国益」をどう守る

冒頭で紹介した、アメリカのFBI=連邦捜査局が作成した動画。

次のようなニュースの音声で締めくくられる。
「セキュリティーの専門家は、企業スパイ活動と企業秘密の盗難によるアメリカ経済の損失額は毎年4000億ドルに及ぶと推定している。しかし、数多くの事件が明るみに出ず、また報告されないため、損失額が毎年1兆ドル(およそ130兆円)にも上ると推定する人もいる」
日本には、最先端の技術を持つ企業や大学、研究機関が数多く存在する。
アメリカと同じように、機密情報の流出が明らかになるケースは氷山の一角にすぎないのかもしれない。

今年5月、経済安全保障推進法が成立し、国を挙げて経済安全保障に取り組む枠組みが整いつつある。

一方で、人を介した流出への備えはまだ不十分だという指摘があるのも事実だ。

国際的な緊張が高まる中、「国益」である日本の先端技術をどう守るのか。
課題に直面する現場を今後も取材し、解決の糸口を探っていきたい。
社会部記者
永田知之
2010年入局
甲府局を経て2015年から社会部
司法や警察を担当し、現在はサイバー犯罪などを主に取材

社会部記者
永田恒
2012年入局
奈良、仙台局を経て2019年から社会部
皇室取材を担当した後、警視庁クラブで警備部・公安部を取材

社会部記者
堀結花
2010年入局
福井、大阪局を経て2019年から社会部
警視庁や司法取材を担当


経済部記者
渡邊功
2012年入局
和歌山局を経て2017年から経済部
国交省、外務省、銀行業界、経済安全保障の取材を担当


おはよう日本ディレクター
磯貝健人
2016年入局
大阪局を経て2021年から社会番組部
経済安全保障について企業や大学を取材

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