出場辞退 それでもデフリンピックを知ってほしい

出場辞退 それでもデフリンピックを知ってほしい
“僕の5年間の挑戦はこれで終わりです”
“今は心にぽっかり穴が開いてしまったようです”

先月ブラジルで行われた、聴覚障害のあるアスリートのスポーツの祭典・デフリンピック。
日本選手は、新型コロナの影響で、大会途中で辞退を余儀なくされました。
大会前から取材をしていたデフリンピック陸上競技の日本の第一人者・高田裕士選手は辞退が決まったあと、メールで気持ちを教えてくれました。
“デフリンピックをパラリンピックのようにみんなに知ってもらえる大会にしたい”
そう話していた高田選手のデフリンピックへの思いを読み解きます。(おはよう日本スポーツキャスター 堀菜保子)

“日本の状況を変えるため” デフアスリートで初めてプロに

4年に1度開かれる、聴覚障害のあるアスリート(デフアスリート)によるスポーツの祭典・デフリンピック。

国際パラリンピック委員会が発足した当時は国際ろう者スポーツ委員会も加盟していましたが、その後、デフリンピックの独創性を追求するためとして組織を離れたため、パラリンピックに聴覚障害のクラスはなく、デフアスリートにとってはデフリンピックが世界最大の大会となっています。

第1回のデフリンピックが開かれたのは、1924年。

パラリンピックより長い歴史を持つ大会です。

ことし5月、新型コロナの影響で1年延期された第24回夏季大会がブラジルで開かれました。(第1回パラリンピックは1960年のローマ大会 2021年に開催された東京パラリンピックは第16回夏季大会)

今回、4回目の出場となった高田裕士選手(37)。
400mハードルの日本記録を持つ高田選手。

実は、日本のデフアスリートで初めてプロになった選手です。

初出場だった2009年のデフリンピック。

大会で出会った海外の選手が、競技に専念できるプロとして活動していることに衝撃を受けました。
高田裕士選手
「日本では『デフリンピックって何?』と言われることもあった。
仕事をしながら陸上をする、頑張る、それが当たり前だと思い込んでいたんですね。
それが違った。海外では、デフアスリートの中にも、オリンピックとかパラリンピックと同じようにプロとして活動している選手がいると知って、ショックというか衝撃的でした。
日本の状況も変えないといけないと感じました。
デフリンピックをより多くの人に知ってもらって、応援されるものにしたい」
帰国後、500以上の企業に自らメールで売り込みます。

反応があったのは数社のみでしたが、高田選手は、自分の力でプロ契約をつかみとりました。

パラリンピアンの妻の存在が思いを強くした

「自分がもし失敗したらこの先が続かない。
自分が成功して、後輩たちもプロになって競技に専念できる環境を作っていきたい」
第一人者として強い責任感を持つ高田選手。

学校や公共のグラウンドを渡り歩いてトレーニングを重ねると同時に、講演会やイベントを積極的に開いたり、ろう学校で部活動や体育の指導をしたりするなど、認知度の向上とすそ野の拡大にも努めてきました。
しかし、デフリンピック、そして自身の置かれた状況を痛感させられた出来事がありました。

東京でのパラリンピックの開催決定です。

実は、妻は、陸上・視覚障害のクラスで、東京パラリンピックにも出場した高田千明選手。
2013年に東京パラリンピックの開催が決まり、2016年のリオパラリンピックへの千明選手の出場が決まると、「すべてがひっくり返ったようだった」と話します。

千明選手は、その状況に“違和感”を感じていました。
妻の高田千明選手
「最初に日本代表になって世界に出ていたのは夫で、以前は、講演会なども、『奥さんもパラリンピックを目指して頑張っているんですね、じゃあ一緒にどうですか』と言われて、私がついていっていたのに、東京パラリンピックが決まってからは、後から代表になった私の方にメディアや講演会の依頼が集中するようになりました。
ちょっと申し訳ないなっていうか…同じ“障害”なのに、パラリンピックだけが注目されるっていうのは違和感を感じますし、寂しいですよね」
それでも、高田選手は、もどかしさを感じながらも前を向いてきました。
高田裕士選手
「パラリンピックの認知度が高まっていくのを隣で感じて、すごいなって思いましたし、なかなかデフリンピックが知られないことにもどかしさもありました。
でも、もっと頑張りたい、いい目標ができた、と捉えていました」

自分の望みとは違う形で高まった認知度

日本は、次回、2025年のデフリンピック夏季大会の招致に取り組んでいます。

そのためにも、高田選手は今大会でしっかり結果を残すことで、日本でデフリンピックが応援される機運を高めたいと考えていました。
また、37歳で迎える今回のデフリンピックは、自身の競技人生の集大成とも考えていた大会でした。

アジア大会やろう者の世界選手権でメダルをとっても37歳まで競技を続けてきたのは、「デフリンピックでまだメダルをとっていないから」と口にしていました。

今大会、日本は大会途中の時点で史上最多の30個のメダルを獲得していました。

高田選手もリレー種目に出場したあと、本命と位置づけていた400mハードルが控えていました。

そこに突然、出場辞退の決定が通知されたのです。

日本選手団のうち11人が、5月10日までに新型コロナウイルスに感染したことが確認され、全日本ろうあ連盟では感染源が各会場にある可能性が高いと判断し、大会途中ですべての競技への出場辞退を決めました。

大会前に取材で知った、高田選手のこれまでの歩み、今大会にかける思いの強さを考えると、無念の大きさは想像もできません。

ことしで38歳になる高田選手、「今は心にぽっかり穴が開いてしまったようで、今後のことは何も考えられない」と言いながらも、次のように話してくれました。
高田裕士選手
「良いことも悪いこともありましたが、全てひっくるめて幸せな時間だったと思います。
辞退のニュースが大きく取り上げられ、自分が望んでいた形とは違う形でデフリンピックが広まりました。
出場辞退が決まるまでのメダルラッシュについては残念ながら取り上げられていませんでした。
東京パラリンピック前後のように、これからは注目の競技、注目の選手、メダル獲得選手などがメディアを通して広まってほしいと思っています」

取材後記

「デフリンピックがまもなく開幕!注目の高田選手です!」と、担当する「おはよう日本」でお伝えしてからおよそ1週間後。

「日本選手が辞退を余儀なくされた」という情報が入ってきました。

取材中に見聞きして感じた高田選手の思いを想像すると、本当にやりきれない思いでした。

ただ、取材の中で印象的だったのは、高田選手が指導するろう学校の生徒たちの存在です。
「高田先生のようにデフリンピックに出たい」と目をきらきら輝かせて陸上に打ち込む生徒の姿に、確実にバトンが受け渡されているのを感じました。

高田選手は、将来、聴覚に障害のある子どもたちが自由にスポーツを楽しめるように専用のスポーツクラブを作りたいとも考えています。

高田選手の今後の活動、そして、バトンを受け継ぐ生徒たちの未来…これからも、取材を続けていきます。
おはよう日本スポーツキャスター
堀 菜保子
2017年入局
佐賀局、札幌局を経ておはよう日本スポーツ担当2年目