【秘話】尾崎豊さん没後30年「卒業」が生まれた夜

【秘話】尾崎豊さん没後30年「卒業」が生まれた夜
「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」の歌詞で80年代に社会現象となった「卒業」。

この曲をつくったのはロック歌手の尾崎豊さん。4月25日で亡くなってから30年がたちました。
高校生で歌手デビュー。若者の心の叫びを表現する数多くのヒット曲を生み出し、今もその色あせない魅力に多くの支持を集めています。

代表曲「卒業」はどのようにして生まれたのか。
尾崎さんの高校時代を最も知る同級生が、その“秘話”を初めて語ってくれました。

(社会番組部(ニュース7)チーフディレクター 中川丈士)

高校時代の尾崎さんを最も知る同級生

尾崎さんの高校時代の同級生、岸田真介さん(56)です。
没後30年を機に今回初めてメディアの取材に応じてくれました。

岸田さんと訪れたのは東京 渋谷にある尾崎さんの記念碑です。
ヒット曲「十七歳の地図」の歌詞が刻まれた記念碑の周りには、今も訪れるファンのメッセージが記されています。
岸田真介さん
「最近の若いファンの方が多いですね。今もたくさんの人が尾崎を聴いてくれているなんて驚きです」
岸田さんと尾崎さんの出会いは東京の私立高校1年の時。
同じクラスになった尾崎さんの第一印象は強烈なものでした。
岸田さん
「学ランにリーゼント、白いエナメルの靴で現れて最初のあいさつでは、いすに足をバーンって乗せて、よろしく!ですよ」
しかし、2人はすぐに意気投合します。
「最初は全然、友達になると思っていなかったんですけど、結構話すと無邪気で、ちょっとコメディーチックなところもあるし、もう1、2週間の間にはすごく仲よくなっていました」
尾崎さんは高校では音楽と剣道に打ち込み、特に音楽では一目置かれる存在でした。
一方、教師の矛盾した態度には、敏感に反応する面があったといいます。
「先生に対していつも怒っていたのは、態度が人によって違うとか、成績のつけ方、何の根拠があってこんなのをつけるんだということをよく言ってました」
尾崎さんは高校時代から持ち前のカリスマ性と存在感を発揮していて、共に過ごした青春時代は、渋谷を舞台にした「十七歳の地図」の歌詞そのものだったと岸田さんは言います。
「十七歳の地図」
バカ騒ぎしてる 街角の俺達の
かたくなな心と黒い瞳には寂しい影が
喧嘩にナンパ 愚痴でもこぼせば皆同じさ
うずうずした気持ちで踊り続け 汗まみれになれ
くわえ煙草のSeventeen‘s map
岸田さん
「当時、うちの高校の制服は裏返せばスーツに見えるんです。放課後は制服を裏返して大人のふりをして遊び回っていました」

高校中退、そして仲間だけの “お別れ会”

目立つ存在となった尾崎さんたちに対し、教師たちの目が厳しくなっていきました。
高校3年生の時、尾崎さんは学校内でたばこを吸っていたところを見つかり、無期停学処分に。
一緒にいた岸田さんも、たばこを吸っていませんでしたが、同じ無期停学の処分を受けました。

重すぎる処分に周囲への見せしめだと感じた岸田さんは、このころ「DROPOUTERS」というグループを立ち上げ、中退も辞さない覚悟で学校に対抗しました。

そして、高校生活3年目の冬。2人はそれぞれの理由で高校を中退することを決めたのです。

中退届を提出した尾崎さんはその足で岸田さんの自宅にやってきました。
「DROPOUTERS」のメンバーたちが、尾崎さんのためにお別れ会を開いたのです。
岸田さんはその時の様子を録音していました。

そこには、尾崎さんが「街の風景」や「僕が僕であるために」などを演奏し、感情が高まって泣き声になる様子などが記録されていました。

“尾崎の部屋” ヒット曲はここで生まれた

お別れ会が開かれた、都内にあるかつての岸田さんの自宅。今は改装されてレストランになっています。

実は尾崎さんは1か月以上続けて泊まったことがあるほど、高校生活の大半を岸田さんの自宅で過ごしていました。

そして、“尾崎の部屋”と呼ばれる専用の部屋もあったといいます。
部屋にはピアノとギターがあり、尾崎さんは放課後に飲食店でのアルバイトを終えると、埼玉県の自宅には帰らずに泊まり込み、曲作りに励んでいたといいます。
岸田さん
「曲ができると、部屋から出てきて『この曲どう思う?』と感想を求めてきました。『もうちょっとこうしたら?』と意見をすると、真剣に耳を傾けてくれました。そうしてできた曲は何曲かありますね」
岸田さんによると「街の風景」「僕が僕であるために」「十七歳の地図」「ハイスクールRock‘n‘Roll」など、のちのヒット曲の原曲の多くが“尾崎の部屋”で作られたと言います。

ヒット曲「卒業」が生まれた夜

尾崎さんが高校を中退してから1年後にリリースされた「卒業」。
今回、岸田さんがこの曲が生まれた日のことについて語ってくれました。

高校生活3年目の冬。
中退を決意した岸田さんは同級生2人とうっぷんを晴らしに、夜の校舎に向かいました。

ところが警備員に見つかり、逃げようとしましたが、足が遅い友人がいて捕まりそうになります。

そこで、警備員の気をそらすために校舎に向かって石を投げ、なんとか逃げきることができました。

自宅に帰って、その話で盛り上がっていると、寝ていた尾崎さんがいつの間にか話の輪に加わり、黙って聞いていたといいます。

そして、尾崎さんはギターとピアノで曲を作り始めました。

翌朝、岸田さんが起きると「こんな曲ができたんだけど聴いてくれないか?」と尾崎さんが聴かせてくれたのが「卒業」のイントロでした。
岸田さん
「パンパ、パンパンっていう歌の始まりのところはもうできていて、びっくりしましたね。その時は天才だと思いました」
できたばかりの「卒業」には先生の実名がそのまま入っているなど、高校への不満がつづられていました。
岸田さん
「それはまずいでしょ、先生の実名は。歌詞直したほうがいいよ、と言うと、こういうのはどう?って、どんどん歌詞のアイデアを出してきたんです」
そして「卒業」はほぼ現在の形にできあがっていきました。
「卒業」
行儀よくまじめなんて 出来やしなかった
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった
信じられぬ大人との争いの中で
許しあい いったい何 解りあえただろう
うんざりしながら それでも過ごした
ひとつだけ 解っていたこと
この支配からの 卒業

関係悪化、再会、そして突然の死

ギター片手に大音量で演奏する尾崎さんをオープンカーに乗せて渋谷のスクランブル交差点を疾走。
高校の卒業式の日にぶつけて行われた、尾崎さんの初めてのライブのポスターを学校の廊下に貼りめぐらせる。
岸田さんたち同級生との交友関係は、尾崎さんが歌手として売れても続いていきました。

ところが尾崎さんは22歳の時、薬物のスキャンダルなどもあって活動が低迷。
岸田さんとはこのころ、ささいなケンカがきっかけで交流が途絶えてしまいました。

2人の関係が修復したのは4年後、尾崎さんが亡くなる5日ほど前のことでした。
突然、岸田さんの自宅にやってきて、できたばかりのアルバム「放熱への証」を差し出したのです。
岸田さん
「『お久しぶりです』と自宅に普通に入ってきて『こんなアルバムできたから岸田、お前にプレゼントするよ』って。事務所を立ち上げた話や『もうボロボロだよ』と4年間を振り返っていた。苦労話をする尾崎に、もう一度頑張ろうと励ましました。歌を歌ってくれたり、朝まで語っても足りないぐらい、エキサイティングな夜だった」
そして、1992年4月25日。
尾崎豊さんは26歳で亡くなりました。
岸田さん
「急にスターになって大人に囲まれた世界では、寄り添いながら向き合ってくれる友人がいなかったのでしょうね。『放熱への証』のジャケット写真。十字架が何か意味していたのか。今となっては思うことがありますね」
最後に岸田さんに“もし尾崎さんが生きていたら”という質問を投げかけました。
岸田真介さん
「きっと政治家になっていたんではないですか。よく政治を変えたいと高校時代に話していました。もしくは、ジョン・レノンの『イマジン』のような曲を作っていたと思いますね」
社会番組部(ニュース7)
チーフディレクター
中川丈士
1993年入局
ニュース番組を長く担当
趣味は釣り 好物は焼き鳥
好きな尾崎豊の曲は「坂の下に見えたあの街に」