WEB特集

大阪に日本一の一方通行を作った男

大阪のメインストリート“御堂筋”。
欧陽菲菲、ドリカム、関ジャニ…
世代を超えて歌い継がれてきました。

この御堂筋、6車線もありますが、すべての車線が実は南向き。
一方通行の道路としては国内最大級です。

いったいなぜ一方通行なのか。
そこには一方通行に執念をかけた男の知られざるドラマがありました。

日本最大級の一方通行 御堂筋 なんでなん?

小ぬか雨降る“御堂筋” (雨の御堂筋/欧陽菲菲)
“御堂筋”はこんな日も一車線しか動かない (大阪LOVER/DREAMS COME TRUE)
恋をするなら“御堂筋”から始まるのさ(大阪ロマネスク/関ジャニ∞)
大阪の中心部を幅44メートル、長さは4キロ余りにわたって南北に貫く御堂筋。
その名は多くの名曲で歌われ、大阪以外の人にも広く知られています。

しかし、なぜ一方通行なのか街の人に尋ねてみると…
30代買い物客
「なんでなん?とは思っていましたけど、そんなもんかなって思っていました」
60代タクシー運転手
「よく知りません」
80代会社経営者
「だいぶ昔ですやん。一方通行になったの。知らんですわ」
残念ながら、地元の人でも詳しく知らないようです。

最初は一方通行じゃなかった

そこで私たちが訪れたのは、大阪市史編纂所。
当時の資料から御堂筋の成り立ちを探りました。
御堂筋の原形を作ったのは、大正から昭和にかけて大阪市長をつとめた関一。大阪を近代都市へと発展させた政治家で、物流を支える幹線道路として御堂筋に目をつけました。

当時、道幅6メートルだった御堂筋を44メートルまで拡張するという他に類を見ない大工事を行いました。
大阪市史料調査会 小田直寿 調査員
「当時は『飛行場でも作る気か?』と言われるぐらい、こんなもの作ってどうするんだという反対意見があったようです。そうした中で、自動車の普及を見据え、日本経済の中心を目指す大阪の中央道路として恥じない道路を作らなければならないという考えでした」
こうして、梅田となんばを結ぶ大阪の「大動脈」として1937年に開通した御堂筋。
しかし、当時の映像を見ると…
車は左車線を向かい合って走行しています。
一方通行ではありませんでした。
大阪市史料調査会 小田直寿 調査員
「1970年の大阪万博のちょっと前くらいに一方通行になったようです。交通量が増えたためということらしいですが…」
御堂筋が一方通行になったのは、万博直前の1970年1月ということまでは分かりましたが、詳しい経緯は歴史の専門家に聞いても分かりませんでした。

“古里さん”を探せ!

そこで、今度は大阪府警へと向かいます。
交通規制の担当者に当時のいきさつを聞きました。
しかし、返ってきた答えは。

「昔のことなので詳しくはわからない。一方通行化に関わった当時の担当者は、“古里(ふるさと)さん”という人らしい」

分かったのは名字のみ。
そこで、NHKに保存されている過去の映像を調べました。
すると…今から39年前のニュース映像で「古里清吉さん」という警察官がインタビューに答えていました。交通規制の担当者でした。

古里さんに話を聞くことができれば、御堂筋が一方通行になった詳しい経緯が分かるかもしれない。

しかし、連絡先が分かりません。
奈良県生駒市に住んでいたらしいという情報をもとに、地図と足を使って古里さんの家を探します。

そして見つけた「古里」という表札の家。
インターホンを押すと…

「古里清吉さんという方を探しているんですけど…」
「私の父ですけども」
古里さんの息子の瑞生さんが出迎えてくれました。
残念ながら、古里さん本人は、9年前に83歳で亡くなっていました。
1983年 NHKのインタビューに答える古里さん
御堂筋の一方通行について取材していると伝えると、瑞生さんは「そういえば…」と言って自宅の奥へ。

腕一杯に抱えて持ってきたのは、古里さんが遺品として残していた当時の資料でした。
生前、「一方通行に携わった」という話を聞いていて、大切に保管していたそうです。
そこには、1960年代の大阪が直面していた深刻な課題が記されていました。

一方通行で渋滞や事故を防げ

当時は高度経済成長のまっただ中。
空前のマイカーブームで、交通量が大幅に増加していました。
1962年 大阪市内の渋滞
大阪のメインストリート、御堂筋も例外でなく、渋滞や事故が頻発していたといいます。

さらに、1970年には大阪万博も控え、その対策が急務でした。

そこで「一方通行」を提案したのが、当時30代で係長をつとめていた古里さんでした。
古里さんの考えは、こうです。

対面通行の場合、右折したい車は、対向車がいなくなったタイミングでないと曲がることができないため、渋滞が起こりやすくなります。
それをもし、すべての車線を一方通行にすることができれば、右折したいときにすぐに曲がることができ、車線もスムーズに流れます。
しかし、幹線道路を一方通行にしてしまうと、市内の交通が滞ってしまうのではないか。

そこで考えられたのが、御堂筋を含む市内の幹線道路4本を、南向きと北向きの一方通行にしてしまおうという案でした。

「大阪市は黙っておりませんよ」

当時の日本国内では前代未聞のアイデア。
古里さんは周囲の反応についても記録に残していました。

警察内では上司からこんな言葉が…
古里さん
「ご承知のとおり、万博になったら大変やから、この際思い切ってこれこれの4つの幹線道路を一方通行にしたらいいと思うのですけど」
上司
「そやけどね、それやろうと思ったら、お前相当苦労するぞ
古里さん
「いいじゃないですか。そんなもんいといませんよ」
御堂筋は大阪市役所の前を通る道路です。市に初めて一方通行の計画を伝えたときの緊迫したやり取りも残っていました。
古里さん
「実は近い将来、御堂筋を含めた最低4本の幹線道路を一方通行にしようと思っておりますが、今後何かとご協力頂きますようお願いに来ました」
市役所の課長
とんでもないことですよ。府警さんがどれだけの力があるか知りませんけど、そんなことされたら大阪市は黙っておりませんよ
古里さんが残した記録
誰もが驚いた一方通行の計画。
まずは、周囲を説得する材料集めから始めなければなりませんでした。

そこで、古里さんはすでに一方通行を実施していた海外の都市の実例を調査します。

資料には調べた都市の名前が手書きで残されていました。
当時の手書き資料
“バルチモア” “オクラホマシテー” ”フイラデルフィア” “ホリウッド” 

当時はまだインターネットもなかった時代。
1件1件書類を取り寄せて分析していたことがうかがえます。
一方通行にすることで、たくさんの車がスムーズに流れるようになっていたことを海外の事例を集めて裏付けたのです。

その効果について行政や市民に繰り返し説明し、理解を求めました。
息子の瑞生さん
「私はまだ小学生だったと思いますが、父はなにせ家に帰ってきませんでした。こうだと思ったら、それをきちんと実現させるように努力するタイプでしたね」

二晩徹夜の大仕事

さらに取材を進めると、古里さんの後輩だった男性に話を聞くことができました。
元大阪府警警察官の中路一條さん(86)。

古里さんと同じ課で、道路標識や道路標示の管理を担当していました。

一方通行の開始を前に、それまで経験したことのない大規模な作業が始まったといいます。
元大阪府警 中路一條さん
「1、2週間前から、工事業者と作業に取りかかりました。特に大変だったのが、進行方向を示す矢印などの道路標示の塗り替えです。一方通行が始まる前日と前々日の二晩は、徹夜ですべての道路標示を塗り替えました。すべての作業が終わったのは、一方通行開始当日の早朝でした」

「やった、やりましたな」

万博開催の2か月前の1970年1月11日。
ついに、御堂筋の一方通行が実現しました。
一方通行初日の御堂筋
元大阪府警 中路一條さん
「当日は、どこかの脇道から車が入ってきて、反対方向に逆走するのではないかと、ずっとドキドキしていました。無事に一方通行が実施されたあとは、心の底から嬉しかったです」
一方通行となった御堂筋の先頭を走るのは当時の府警本部長を乗せた車。古里さんはそのすぐ後ろを車でついていったそうです。

古里さんは当日の心境をこう書き記していました。
古里清吉さんの記録より
「私は部下である主任が『やった、やりましたな』と、叫びながら運転してくれた車の中で、長い間の苦労と、『これは大阪のためになるのだ』という思いが駆け巡り、落ちる涙をどうしても止められなかった」
この年、御堂筋では、前の年より、事故の件数が4割減少。
渋滞の回数は3分の1に減少するなど、大きな効果を示しました。

その一方通行のアイデアは、もしかしたら雑談の中から生まれたのかもしれないと中路さんは振り返ります。
元大阪府警 中路一條さん
「御堂筋の事故や渋滞をどうしようかと古里さんと話し合っていた時に、『血液の流れは一方通行じゃないか。血の流れのように道路も一方通行にすれば詰まらないのではないか?』という話題になった記憶があります。もしかしたら、そんなささいな雑談も、御堂筋を一方通行にするというヒントにつながったのかもしれません。非常な勉強家で、頭の回転も速く、企画力、決断力、すべてが抜群でした」

車から歩行者へ 変わり続ける御堂筋

大阪万博に向け、御堂筋が一方通行になって半世紀余り。
3年後の2025年には「大阪・関西万博」の開催を控えています。

御堂筋はふたたび変わろうとしています。
両端の2車線が歩道や自転車用の道路になる予定です。

公共交通機関の発達や、若い世代の車離れなどで、車の量が減少。
そのため、“車中心”から“歩行者中心”の道路に変わろうとしているのです。

さらに、御堂筋の開通から100年を迎える2037年を目途に、すべての車線を歩行者空間にするアイデアも検討されています。
構想策定に関わった 大阪公立大学 嘉名光市 教授
「自動車の数が減少する中で歩行者にとっても、より居心地のよい空間として整備していく必要があると思います。パリのシャンゼリゼ通りなど、世界的に知名度の高い道路での取り組みを参考に、世界に誇る大阪のメインストリートとして、より魅力のある御堂筋を目指していきたい」
一人の警察官の熱意が作り上げた日本一の一方通行、御堂筋。
その原点にあったのは「道路を安全に気持ちよく利用してほしい」という素朴な願いでした。

これから先、御堂筋が変わり続けていく中でも、その思いは受け継いでいってほしいと強く感じました。

なんでなん?身近な疑問教えてください

「なんでこうなん?」「関西だけ?」
ネットで調べてもわからない疑問はありませんか。
下のリンク先の投稿フォームから皆さんの身近な疑問をお寄せください。
大阪放送局 記者
影山遥平
平成26年入局
さいたま局、福井局を経て大阪府警担当
趣味は御堂筋歩き
大阪放送局 ディレクター
田村進也
令和2年入局
初任で大阪局に
趣味はドライブ いまだに大阪市内の一方通行には慣れません

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