「特攻に異議」信念を貫いた芙蓉部隊 今に伝えるメッセージ

「特攻に異議」信念を貫いた芙蓉部隊 今に伝えるメッセージ
「精神力一点ばかりのカラ念仏では心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい」

太平洋戦争の末期。全機特攻の方針が示された作戦会議で、末席から異議を唱えた将校がいました。

「芙蓉(ふよう)部隊」と呼ばれる航空隊の隊長、美濃部正少佐。当時29歳でした。

芙蓉部隊とはどんな部隊だったのか?
そして部隊を率いた美濃部はどのような人物だったのでしょうか?
(鹿児島放送局記者 西崎奈央)

地元でも知られていなかった秘密部隊

取材を始めたきっかけは、鹿児島県曽於市の岩川地区に「芙蓉部隊」の展示室が完成したというニュースを見たことでした。

軍の命令に逆らうことが困難だった太平洋戦争末期に、特攻に異議を唱えた部隊だというのです。

その存在を初めて知って驚いた私は、すぐに芙蓉部隊の歴史を語り継ぐ活動を行っている「芙蓉会」に電話をしていました。
芙蓉会のメンバーの前田孝子さん(76)さんは、当時記者2年目だった私を孫のように温かく迎え入れてくれました。

開口一番に「芙蓉部隊のことを知ってくれてうれしい。もっと広めてほしい」と話すと、芙蓉部隊の歴史とこれまでの活動を熱く語り始めました。

もともと曽於市の出身の前田さんですが、芙蓉部隊のことは33歳になるまで知らなかったといいます。
中学教師として働いていたことがある岩川地区に「芙蓉之塔」と刻まれた慰霊碑が建てられたことで初めて芙蓉部隊の存在を知りました。

慰霊碑が建てられた場所は滑走路だったのです。
前田孝子さん
「私も30何年生きてきて全くその存在を知らなかったんですよね。ひとことも聞いたことがなかったんです。地元なのに多くの人がみんな知らない。なんでなんだろうと不思議に思いました」
地元で知られていなかったことには理由があります。

芙蓉部隊の拠点はもともと静岡県の藤枝市。

岩川地区に置かれたのは、沖縄戦にひそかに加わるために作られた秘密飛行場でした。

部隊は機体からガソリンを抜き、林の中に隠すなどした上で、牛を飼って牧場に見せかけるようカモフラージュ。

暗闇にまぎれて出撃するだけでなく、訓練飛行も薄暮や夜間に行うなど、徹底して秘密を貫いていました。

当時、アメリカ軍は、航空写真で日本各地の軍事拠点を丸裸にしていましたが、岩川地区の秘密飛行場は空襲を受けませんでした。

芙蓉部隊とは~隊長が残した手記~

芙蓉部隊について調べ始めた前田さんにとって貴重な資料になったのが、隊長の美濃部正少佐が残した手記でした。
およそ1000人の隊員を率いていた当時29歳の美濃部。

昭和20年2月末、沖縄戦での特攻作戦が決まった木更津基地での海軍の会議で並み居る幹部に対し、経験の浅いパイロットを次々と特攻に出しても勝算はなく、隊員に厳しい訓練を積ませて夜間攻撃を行ったほうが有効と主張。

末席から異議を唱えたと記しています。
「今の若い搭乗員の中に死を恐れるものは居りません。只、精神力一点ばかりのカラ念仏では心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を建てて戴きたい」
(美濃部正「大正っ子の太平洋戦争記」)
戦争末期の厳しい状況で、なぜ美濃部の主張が認められたのか。

理由のひとつは厳しい訓練を積んでいたことでした。
夜間の飛行に適応するため、午後6時に起きて午前10時に眠りにつく昼夜逆転の毎日。

さらに、開戦前は1年間で400時間行うとされていた飛行訓練を、新人は6か月、他機種からの転換者は3か月の短期間で行うよう課しました。

美濃部の手記によると、特攻部隊の3倍の厳しい訓練だったということです。

こうした厳しい訓練を軍の幹部たちが視察。

さらに偵察でアメリカ軍の情報を入手していることなどが認められ、部隊を特攻の編成から除外する異例の変更が行われました。

訓練と戦果、そして戦術的な合理性にもとづく主張が、芙蓉部隊の運命を変えました。

手記を読んで感銘を受けたという前田さん。

7年前に地元の仲間と「芙蓉会」を結成し、調査を本格化させました。

まるで“美濃部スピリット”に突き動かされるようだったと振り返ります。
前田孝子さん
「当時は上の命令は絶対ですから。特攻に反対することは非常に勇気が必要だったと思うんです。人として上官として、リーダーとしてすばらしい。美濃部精神を伝えていきたいなと思ったんです。私ももう70代ですから、そんなにいつまでも元気に動き回れるわけでもないですし。だから今だなと思って、今1日1日が勝負だなって」

難航した遺族や体験者への調査

前田さんは元隊員や遺族への連絡を試みるようになりました。

連絡がついたのは北海道や東京、愛知など全国の50人。

遺影や遺品などが寄せられ、中には部隊が使用していた爆撃機「彗星」の部品や、爆撃に飛び立つ前に家族へあてた手紙もありました。
遠く離れた家族の身の上を案じる手紙には「生あらば後便りにて 便り楽しみに待つ」という一節も。

戦争末期ながら、どこか未来への希望も感じられ、苦しい戦況に前向きに立ち向かおうとする美濃部の精神が隊員に浸透していた様子が感じられました。

ただ、調査は簡単には進みませんでした。

戦後、特攻が大きく取り上げられるようになったことで、“特攻をしなかった”芙蓉部隊に所属していたことを言い出しにくくなった人もいたのです。

前田さんには、部隊の存在を知らなかった遺族から「芙蓉部隊ということを家族は知らず本当に残念です」といったメッセージが寄せられました。
前田孝子さん
「今残っている遺族に電話をしても、『そんな人は知りません』という答えが返ってきますから、電話を切られないように心がけながら、『実はお宅のおじさんはこうこうして』と説明するんです。その辺の世代になったら芙蓉部隊を全然知らないんですよ」
さらに難航したのが体験者の話の聞き取りでした。

芙蓉部隊はもともと静岡県に拠点を置いていたこともあって、鹿児島県内で健在の元隊員はいませんでした。

前田さんは調査が広がればと期待し、自らの取り組みをまとめたDVDを作成して連絡がついた遺族に送りました。

そうした地道な活動が実り、去年、曽於市で行われる慰霊祭に数年ぶりに元隊員が参加することになったのです。

元隊員が語る指揮官、美濃部正

通信士だった渋谷一男さん(95)と、整備士だった山本卓さん(93)です。

90代とは思えないほど背筋が伸び、記憶は鮮明なままでした。

渋谷さんは、美濃部が部下への信頼を感じさせる出来事もあったと振り返りました。

戦局が悪化して燃料が少なくなってきていることを包み隠さず説明。

当時の指揮官としては異例のふるまいです。

そして、部下の無事を案じる美濃部の姿も目にしていました。
渋谷一男さん
「美濃部さんは、搭乗員が1人でも帰ってこないと非常に肩を落としますよね。必ず滑走路の一番最後のとこに軍服を着て、戦闘態勢の中だから椅子に腰かけて、全機帰ってくるのを待っているわけですよ。その表情たるやね…。普段はおとなしいんだけどね、いざとなると強烈な発言をする人でした。ほかの兵隊がとてもじゃないけど太刀打ちできないくらいの能力を持っておる指揮官で、非常に人情の強い方だった」
一方、16歳の整備士だった山本さんは、当時は任務をこなすことに精いっぱいで、戦術について深く考える余裕はありませんでした。

戦後になってから美濃部が軍の会議で特攻に異議を唱えていたことを知りましたが、こうした美濃部の生き方は、いまの世の中にも教訓を投げかけていると話しました。
山本卓さん
「特攻全盛の時代で、指揮官が自分の意志を貫いて秘密基地で普通の攻撃を行った。こんな人は日本で1人しかいないでしょう。伝えたいことは、やっぱり信じたことを突き通すこと。立派なことだと思いますね」

後世に語り継ごうと新たな動きも

前田さんの元にも様々な連絡や意見が寄せられ、芙蓉会も新たな動きを踏み出しました。

芙蓉会結成時からの目標、「平和資料館」の設置です。

これまでの活動で、遺影や資料はおよそ100点まで蓄積されました。

いまは、郷土資料などと一緒に曽於市の埋蔵文化財センターに保管されていますが、資料館を設置して広く公開することで、歴史を伝え、子どもたちへの平和教育にも活用してほしいと考えているのです。
ことし2月、前田さんは芙蓉会のメンバーとともに、曽於市の五位塚剛市長に要望書を提出。

そこには、「芙蓉部隊は夜襲戦法を行い、そのため徹底した努力をしてきました。しかし、芙蓉部隊でも悲しいことに105人の若い隊員の戦死者が出ました。不条理な戦争をこの世からなくすためにも、戦争の実態や悲惨さを語り継いでいきたい」と書かれていました。
前田孝子さん
「遺族や元隊員も高齢化する中で、戦争を知らない世代にしっかりと伝えなければいけないと危機感を覚えています。平和資料館を通して芙蓉部隊のこと、“美濃部スピリット”を知ってもらいたい。大きな意見に流されない、子ども達には美濃部さんが伝えようとした教訓をひとりひとり感じ取ってもらいたいですね」

取材後記

美濃部は戦後、航空自衛隊に入隊し、最終的に空将まで務めました。

遺稿となった平成11年の手記『大正っ子の太平洋戦争記』の中では、未来への願いとして「平成っ子達よ、君たちは別の意味の太平洋戦争を繰り返そうとしている!!」と結んでいます。
「空気を読む」ということばがあります。

そのことに違和感を覚えつつも周囲に流されてきたことのある自分自身について、私は省みざるをえませんでした。
この「空気」は時に間違った方向に世の中を動かす危険性があるのではないでしょうか。
自分の意志を貫いた美濃部が私たちに残した警鐘。

重く受け止めなければならないと改めて感じています。
鹿児島放送局記者
西崎奈央
令和元年入局
警察担当を経て薩摩川内支局
戦争体験者を取材し
今に伝えるメッセージを
考えていきたい