きれいな海、それだけでいいですか? 沖縄を考える子どもたち

きれいな海、それだけでいいですか? 沖縄を考える子どもたち
さんさんと降り注ぐ太陽の光。
透き通るような青い海。
おいしい料理やお酒と、底抜けに明るい人々の笑顔。

沖縄はいつも、私たちを魅了してやみません。
その沖縄について、こんなことを言った子どもがいます。

「海がきれいで、おいしいものがたくさんある。でも、住んでいる人にとっての沖縄は、それだけじゃない。いろんなことがあると思うから、それを知りたいと、私は思います」

発言の主は、東京の小学校に通う6年生の女子児童。
彼女が通う小学校、そして、沖縄を考える子どもたちの話です。

(社会部記者 西牟田慧)

沖縄に向き合い続ける

その小学校は、世田谷区の閑静な住宅街にあります。

敷地に入ると、すぐに目に飛び込んでくるのが、このシーサー。
沖縄との関係の深さがうかがえます。

私立、和光小学校。

35年前の1987年から、沖縄について学ぶ授業を続けています。
参加するのは6年生で、1年をかけて沖縄の歴史や文化を学びます。
秋には沖縄に足を運び、卒業前には、学習の成果を1冊のノートにまとめて、学んだことを5年生に伝えるのです。
5月13日、6年生の教室を訪ねると、沖縄の本土復帰について学ぶ授業が行われていました。
2日後には、復帰から50年となる沖縄。

子どもたちは、当時の新聞記事や写真などを見ながら、沖縄の人たちが復帰をどう受け止めたと思うか、想像をめぐらせ、意見を出し合っていました。

先生たちが込めた思い

この時、教室の後方で、授業を見守る男性がいました。藤田康郎さん。

去年春まで32年間、この学校で教べんをとり、6年生の担任として、9回の沖縄学習に携わりました。

30年以上続けられてきた沖縄学習を体系的に調べ直したいと、退職を機に、当時の資料を見直したり、関係者から話を聴いたりしています。
その1人が、元校長の行田稔彦さん。
1983年に和光小学校の教員となり、沖縄学習の「始まり」を知る1人です。
3年生で蚕を育て、4年生では多摩川の生き物に触れるなど、実体験に基づく学び、「総合学習」を重視している、この小学校。
6年生の総合学習はそれまで、被爆地・広島がテーマでしたが、行田さんたち当時の教員が、沖縄に変えることを提案しました。

なぜ、沖縄を選んだのか。

行田さんは藤田さんに、当時の教員たちには、信念があったと語りました。
「沖縄を見つめることが、日本のいまを考えることにつながる」という信念が。
元校長 行田稔彦さん
「沖縄には常に、日本にとっての今日的な問題が表出している。『沖縄を見ると、今の日本が見える』ということです。沖縄を学んでいるんだけれども、それと同時に、自分たちの住んでいる日本という国の社会のあり方に対して、小学生なりに問題意識を持つ、そういう学習をつくってきたんです」

沖縄の“今”を学ぶ意味

沖縄を見つめることが、日本を見つめることになる。藤田さんが調べ直した沖縄学習の歴史を見てみると、そのことばの意味がよくわかります。

その時々の沖縄が置かれた状況が、色濃く反映されてきたのです。
沖縄学習が始まって8年がたった、1995年。沖縄で、アメリカ兵による少女暴行事件が起きました。事件に抗議する県民大会には、8万人を超える人が集まったとされています。

基地があるがゆえに起きた、あまりに痛ましい事件。
沖縄の基地負担が、改めて社会的関心事になりました。

それまで、沖縄戦を中心に、歴史や平和について学ぶ側面が強かった沖縄学習は、これをきっかけに、沖縄の戦後史、とりわけアメリカ軍基地をめぐる問題を重点的に取り上げるようになっていました。

子どもたちの学びの軸足が、いまの沖縄を考えることに置かれるようになった、転換点でした。
そして、2001年。

アメリカで起きた同時多発テロを受け、アメリカ軍基地が集まる沖縄はテロの標的になるおそれがあるとして、多くの学校が修学旅行を取りやめました。

和光小学校でも、テロの翌月に予定されていた沖縄への学習旅行を予定通り行うか、議論になりました。
それぞれのクラスでも、職員会議でも、そして保護者との間でも、徹底した話し合いが行われたそうです。
そして出した結論は、「例年通り、沖縄に行く」。
「いまこそ、基地の危険と隣り合う沖縄の現実を学ぶべきだ」という学校側の判断を、保護者たちも後押ししたといいます。

この時の議論を振り返った当時の6年生のノートには、こう書かれています。
「いまだからこそ、学べることがあると思います」
「沖縄を学べば、いまの日本が見えると思います」
行田さんたちが沖縄学習に込めた思いは、子どもたちにも、保護者にも、しっかりと伝わっていたのです。

受け継がれる思い

沖縄学習が、みずからの土台になっているという人にも出会いました。
前田恵太さん。31年前の6年生です。
1年間学んだことをまとめたノートを、いまも大切に保管していました。
沖縄戦当時、住民が避難した「ガマ」を訪れたときに感じた、驚くほどの暗さ。
「1分間だけ」と電気を消したら、怖さのあまり、泣き出した女子児童がいたこと。
嘉数の高台から見た、普天間基地から飛び立つ軍用機のあまりの多さ。
その音が、友達の話し声すら聞こえないほど、うるさかったこと。
ノートを見ると、当時の記憶が鮮明によみがえってくるといいます。

五感で感じた「自分なりの沖縄」。

それがあるからこそ、沖縄をめぐるさまざまな問題について、自分なりの考えを持てるようになったと、前田さんは感じています。
前田恵太さん
「こういう学習をしていなければ、『何で厚木はいいのに、沖縄では騒いでるんだろう』というぐらいの感覚で、沖縄の基地問題を考えていたと思うんです。人間ってどうしても、自分事にならないと関心が薄くなると思うんですけど、すべてが他人事じゃないと感じるようになりました。沖縄学習で色んな体験をする中で、自分の中に根づいていったのかなと感じます」
「実体験に基づく学び」の大切さを感じ、前田さんは、長男の蒼太さんにも、和光小学校に通うことを勧めました。

蒼太さんは、ことし、6年生。

本土復帰50年目、節目の年の沖縄学習に参加しています。

前田さんは、蒼太さんにとっても、この1年の学びが、かけがえのない経験になることを願っています。

復帰50年目の沖縄に 子どもたちが思うこと

5月13日に行われた、復帰50年にあわせた特別授業。

本土に復帰するとは、戦後のアメリカによる統治が終わり、沖縄が日本に戻ること。

通貨はドルから円になり、車は右側通行から左側通行になったこと。

子どもたちは、基本的なことを教わったうえで、本土復帰が、沖縄の人たちにとって、どんな出来事だったと思うかを聞かれ、こんな意見を出しました。
「戦争でたくさんの人が犠牲になったんだから、アメリカに支配されつづけるのはいやだと思う。日本に戻ることができて、うれしかったと思います」

「アメリカの統治下で生まれ育った人にとってはそれが普通の生活で、急に復帰と言われても、ピンとこなかったんじゃないかな」
このあと、担任の先生は、復帰を地元の新聞がどう伝えたのか、子どもたちに紹介しました。

「沖縄、日本に復帰」
「米統治に幕」
大きな見出しがつけられた記事。

記事は、復帰を記念する式典で、当時の屋良朝苗知事が「必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実だ」と述べたと伝えていました。

アメリカ軍基地の全面返還がかなわないままでの、本土復帰。

子どもたちは、心から喜ぶことができなかった当時の沖縄の人たち、そして、いまに続く基地問題に、思いをはせました。

このあと出てきたのが、冒頭でご紹介した、女子児童のことばです。
「海がきれいで、おいしいものがたくさんある。でも、住んでいる人にとっての沖縄は、それだけじゃない。いろんなことがあると思うから、それを知りたいと、私は思います」
いまも、国内のアメリカ軍専用施設の70%が集中する沖縄。

本土に住む私たちは、沖縄のきれいな海を見て、おいしい料理を食べるだけで、本当にいいのだろうか。

そんな思いが、子どもたちに芽生えたように見えました。

復帰50年目の沖縄学習で、彼らは何を見て、何を考えるのか。

この先も、見続けていきたいと思います。

最後に、授業を見守った、藤田さんに聴きました。
和光小学校元教員 藤田康郎さん
「35年積み重ねられてきたのは、沖縄を鏡として、自分たちが生きる社会の足元を見つめ直すという学びです。沖縄と東京は距離があり、歴史的にも違うところはあるかもしれないけれど、とても大きな意味があります。これからも子どもと一緒に、先生たちが格闘していってほしい」

ある卒業生のその後

2001年、同時多発テロの1か月後に実施された沖縄への学習旅行。

本文でご紹介したノートの記述は、実は、私の同僚、安藤文音記者のものです。

この記事の締めくくりは、卒業生である彼女に、筆を譲りたいと思います。
真っ暗なガマの中で聴いた、壮絶な看護の実態。
資料館で見た、ひめゆり学徒隊の少女たちの顔写真。
20年たった今も、決して頭から離れない記憶です。

中でも、最も印象に残っているのは、地元の高校生との交流会です。
最後に質問の機会があり、私は、「どうしたら沖縄から基地をなくせると思いますか」と尋ねました。
基地の危険と隣り合わせの生活を送っている沖縄の人たち。
きっと、迷惑に感じていると思っていました。
でも、高校生の答えは、私の想像とは違いました。

「基地はない方がいいのかもしれない。でも、僕のお父さんとお母さんは基地関係の仕事をしていて、それで生活が成り立っている。だから、今すぐ無くなるのは困る。そういう沖縄の人もいるということを知って欲しい」

基地問題の複雑さを知った、私にとって、とても貴重な経験でした。

私はいま、記者という仕事をしています。

支えになっているのは、「立場によって意見が異なる問題を、多くの人と考えていきたい」という思いです。
その原点には、あの沖縄での経験があると感じています。
同時多発テロの後、沖縄に行くべきかどうか、クラスで話し合いました。

遠く離れた場所から、「危ないんじゃないの?」と言うだけで、実際に足を運ばないという選択肢は、私たちにはない。

そう、みんなで合意したのを覚えています。

「いまだからこそ、学べることがあると思います」

あのとき、ノートに書いたことばは、6年2組、みんなの思いです。

2001年度 和光小学校卒業生
NHK社会部記者 安藤 文音
社会部記者
西牟田 慧
2011年入局、千葉県出身で沖縄が初任地。記者としての原点は沖縄にあります。
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