「ロシアで学びたかった」 夢追う若者の深まる葛藤

「ロシアで学びたかった」 夢追う若者の深まる葛藤
憧れの舞台でポーズをとる女性。

プロを目指して単身ロシアに渡り、世界でも唯一無二といわれる名門学校でバレエを学んでいた日本の高校生です。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の影響で、ことし3月、帰国を余儀なくされました。

しかし…
「やっぱりロシアでしか学べないものがある」

彼女は、日本に帰国して時間がたつほど、その思いをさらに強くし、自分の将来をどう切り開けばよいのか、悩み苦しんでいます。

(大阪放送局 記者 北森ひかり)

憧れのロシアでバレエダンサーになりたい

戸畑心結(とばた・みゆ)さん。16歳。

2か月前、留学先のロシアから帰国し、いまは千葉県船橋市の実家にいます。

戸畑さんが留学したのは「本場ロシアの舞台で踊りたい」という夢があったから。

2歳のころに始めたクラシックバレエ。

最初はきれいな衣装やトウシューズを身につけて舞台に立つことを目標にしていました。
小学生のとき、日本で「ロシア国立ワガノワバレエアカデミー」の教師から指導を受ける機会があり、そこで褒められたのをきっかけに、本場ロシアで学びたいと思うようになりました。

ロシアはバレエ界では特別な存在です。世界中で踊られているバレエの音楽や振り付けはロシアで数多く生まれました。

あの有名な「白鳥の湖」もロシアが初演だと言われています。

そのロシアの中でも、「国立ワガノワバレエアカデミー」は世界的ダンサーを輩出してきた名門です。
このバレエ学校では体の成長段階にあわせてバレエの基礎を身に着ける体系的な指導法が確立されていて、世界でも唯一無二だと言われています。

世界中のバレエ団で主役を踊ってきたディアナ・ヴィシニョーワさんや映画界でも活躍したミハイル・バリシニコフさん、日本のKバレエカンパニーで主役を踊る日高世菜さんも、ロシア国立ワガノワバレエアカデミーで学んだ一人です。

戸畑さんは、世界トップレベルの環境でバレエを学ぶため、この学校に入ることを目指しました。

そして、睡眠や栄養にも気を遣いながらレッスンを重ね、オーディションを通過。

最終合格者は戸畑さんを含めてわずか3人でした。
戸畑心結さん
「YouTubeやテレビでワガノワバレエアカデミーの動画を何度も見てずっと憧れていました。初めてワガノワのレオタードに腕を通したときは嬉しい気持ちでいっぱいでした。通っている子たちは筋肉のつき方も全然違って、もうプロみたいな。ついていけるか不安もあったけど、自分の将来の夢のために頑張ろうという気持ちでした」

夢のようなバレエ漬けの日々

オーディションに合格した戸畑さんは、去年9月からバレエ学校のあるサンクトペテルブルクで生活を始めました。
世界中のバレエ少女たちの憧れで、ワガノワバレエアカデミーの制服でもあるレオタードを身にまとった戸畑さん。

夢に一歩近づくことができたと、胸を弾ませていました。

日曜日以外の週6日は朝から晩までカリキュラムが組まれ、まさにバレエ漬けの日々。

クラシックバレエのほか、演技の表現を学ぶクラスなど、プロになるために専門的に学ぶことができる環境です。

寮では体型を維持するための食事管理も徹底されていました。

授業で指導してくれるのは、厳しい国家試験を突破した教師たち。

戸畑さんは偶然にも日本で指導を受け、留学のきっかけになった教師が担当するクラスに入りました。

ロシア国内に加え、ヨーロッパ各国やアメリカから集まった学生たちはみんな技術が高く、時には周囲と自分を比べてしまい、涙を流したこともありました。

それでも、互いに励ましあいながら充実した日々を過ごしていました。

軍事侵攻で一変した留学生活

ところが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻で戸畑さんの留学生活は一変します。

侵攻が始まった翌日、日本でニュースを見て心配した母親からメッセージが届いていました。
各国がロシアに制裁を行うなか、クレジットカードが使えなくなる懸念がありました。

戸畑さんは生活費をクレジットカードで支払っていました。

カードが使えないと生活がままならない。

急きょ日本から送金してもらい、現金を確保しました。

さらに、美術館や劇場が建ち並ぶ美しい街は警察官の姿であふれました。

軍事侵攻に反対する人たちを防弾チョッキなどで重装備した警察官やパトカーが取り囲んでいました。

イギリス、スペイン、ベルギーといったヨーロッパ各国のほか、アメリカから来ていた学生たちは続々と帰国を決めていました。
戸畑心結さん
「間近で目にしたときは不安でしたし、怖いと感じました。街が変わって、留学生も帰国し始めて、私も日本に帰国しなければならないかもしれないと考えはじめました」
SNSもつながりにくくなっていました。

日本にいる家族との連絡手段すら絶たれる可能性があり、戸畑さんは帰国を決断しました。

日本に帰国 あふれる感情とにじむ悔しさ

帰国してすぐ、戸畑さんが取材に応じてくれました。

自宅を訪ねると、リビングの大半のスペースは、バレエのレッスンができるよう確保されていました。
自宅でも努力を重ねていることがうかがえました。

ロシアから持ち帰った大きなスーツケースには、バレエ学校で着ていたレオタードやトウシューズが詰められていました。

学生証や憧れのダンサーにもらったサインも入っていました。

帰国までに起きた出来事について、冷静に、淡々と語ってくれた戸畑さん。

それでも、留学を中断せざるを得なかったことについて尋ねたとき、感情があふれました。

目に涙を浮かべ、悔しさをにじませていました。
戸畑心結さん
「ずっと続けてきて、バレエは私の一部のようなものです。プロダンサーになる夢があるし、ワガノワで学べることは特別なことだったので、帰ることが決まったあとも、心の中で何度も帰りたくないと思っていました。進級も難しい学校なので、卒業に影響するのではないかという不安もあります。今回の帰国は自分の努力でどうしようもないことなのでとても悔しかったです」
帰国しなければいけないことを、頭では理解していても、すぐには決断できなかったと言います。

一度帰国するとロシアに戻ることができないのではないか。

夢への道が途絶えるかもしれない。

せっかくつかんだチャンスを手放したくない。

レッスンのあと、毎晩、日本にいる母親と話し合いを重ね、泣く泣く決断したのです。

そして、帰国の日。
“絶対にまた戻ってくる”という思いを胸に、みんなで一緒に、バレエ学校の前で写真を撮りました。

日本で伝えられるロシアのニュースを見て…

帰国後、戸畑さんは日本でニュースを見て、ロシアでは触れられることのなかった軍事侵攻の深刻な状況にショックを受けました。

ロシアの人たちに対する心ない言葉にも胸を痛めています。

切磋琢磨したクラスメイト、時に優しく時に厳しく教えてくれたロシアの教師たちの姿を思い浮かべ、複雑な気持ちを抱いています。

いまは、自宅から1時間半ほどかけて東京のバレエ教室に通っています。

周囲からは「ほかの国で学べばいいじゃないか」とも言われました。

しかし、ワガノワバレエアカデミーのような確立された指導法のもとで学べるところは世界でほかにはないと言います。

帰国した戸畑さんは、いま改めて”ロシアでしか学べないことがある”と強く感じています。

留学できない 若者たちの悩み

将来に大きな影響が出かねない事態になっているのは、戸畑さんだけではありません。

コンクールなどを通じて将来性が認められ、難関のロシアのバレエ学校に留学する資格を持ちながらも、実現していない若者が何人もいます。

日本国際バレエ協会の代表で、神奈川県川崎市でプロのダンサーの卵たちを指導する、針山祐美さん。

針山さんの教室にも、同じように留学できない生徒が6人います。
針山さんはこれまで、ロシアを中心に海外からバレエの指導者を招くなど、若者に留学のチャンスを作ってきました。

今回取材した戸畑さんも、そこでチャンスをつかんだ1人です。

毎年、夏にはロシアのダンサーやワガノワバレエアカデミーの教師を招いてきましたが、ことしは若者が本場ロシアのバレエに接する機会を提供するのは難しいといいます。

自分自身もロシア留学の経験があり、海外に行くことの大切さを痛感しています。

プロのダンサーを目指す若者にとって、10代後半は、本場で学び、入団オーディンションを受ける、大切な時期。

若者の夢に影響が出ている現状に心を痛めています。
針山祐美さん
「みんなが不幸せになっていて、なぜこのようなことになってしまったのか。全くバレエと関係ないことで、しかも誰も想定してなかったことが起きてしまっている。こういうことをきっかけに歯車が合わなくなってしまう人もいて、毎日の積み重ねで将来ができていくので、彼らの夢が閉ざされてしまうこともあるかもしれない。子どもたちは本当にまっすぐで繊細なので、今回のことで心を痛めてしまいバレエを続けていいんだろうかって思ってしまう子もいる。どうかみんな前向きに物事を捉えてほしいなと思いますし、彼らの将来に影響が出ないことを祈るしかない」

夢とのはざまで深まる葛藤

取材した私(記者)自身も学生時代にバレエを習っていました。

プロのバレエダンサーを目指す若者にとって、ロシアのバレエ学校は唯一無二の存在で、そこで学ぶことがどれだけ限られたチャンスか、理解ができます。

それだけに、そのチャンスを奪われてしまいかねない事態になっていることに胸が痛みます。

数々の素晴らしい作品を生み出し、有名ダンサーを輩出してきたロシアに対し、バレエを愛する人たちは尊敬と憧れの感情を抱いてきました。

私もその一人でした。

しかし、いまロシアが行っている軍事侵攻を目の当たりにして、心がかき乱されています。

ウクライナでは、子どもを含む多くの市民が犠牲になり、暮らしていた町を追われています。

いかなる主張をしようとも、決して許されるものではありません。

軍事侵攻のさらなる長期化が懸念される中、幼いころからずっと追い続けてきた夢とのはざまで戸畑さんの葛藤は深まっています。
大阪放送局 記者
北森ひかり
平成27年入局
主に事件取材を担当
学生時代にバレエ
好きな演目
「ロミオとジュリエット」