日本が水素で負けるのか?

日本が水素で負けるのか?
次世代エネルギーの「本命」とも言われる水素。脱炭素社会実現に向けた切り札です。日本は2017年、世界に先駆けて水素基本戦略を策定しました。しかし、その後、世界各国も「本命」を手に入れようと力を入れ始め、今は激しい争奪戦となっています。スマホや半導体のように欧米にまたもや先を越されてしまうのか。厳しい現状と日本の勝ち筋を探ります。(経済部記者 佐々木悠介)

経産省内の危機感

日本のエネルギー政策の司令塔である経済産業省。ある幹部が私に深刻な表情でこう打ち明けました。

「日本が脱炭素燃料でも世界に負けてしまいかねない事態だ」

日本が世界に負けてしまう?

この幹部が危機感を募らせていたのは水素のことです。水素は水からも作ることができ、燃やしても二酸化炭素を出さない、理想的な次世代エネルギーと期待されています。

日本がトップを走る

日本は水素開発の分野で世界のトップを走ってきました。早くから関連技術の開発に着手し、トヨタ自動車や日産自動車、パナソニックなど大手企業が数多くの特許を保有しています。
2014年、トヨタは水素を燃料として使う量産型としては世界初の燃料電池自動車「MIRAI」をデビューさせ、世界をあっと言わせました。

2017年には政府は世界に先駆けて水素の国家戦略を打ち出しました。

2030年ごろに水素を燃料とする発電を商用化して原子力発電所1基分に相当する100万キロワット規模の発電を目指すことや、効率的な輸送を可能にする技術の確立などをいち早く宣言したのです。

猛追するドイツ、オランダ、アメリカ

ところが水素の実用化に向けて海外が猛追してきています。
代表格はドイツです。日本から遅れること3年、ドイツは2020年に国家水素戦略を策定しました。国内の水素技術の創出や海外との連携におよそ90億ユーロ、日本円で1兆円を超える強力な支援を決めました。

そして、再生可能エネルギーから水素をつくる装置の設備投資に多額の補助金を拠出します。この装置を水素の製造コストが安い中東やアフリカなどに輸出し、現地で製造した水素をドイツに輸入する戦略を動かし始めています。
同じEU=ヨーロッパ連合のオランダは輸送に焦点をあてています。

世界有数の石油などの輸入港であるロッテルダム港で、水素の輸入を通じて、ドイツなどのヨーロッパ各国にエネルギーを供給することをねらっています。

ロッテルダム港湾局を中心に研究機関や企業とコンソーシアムを組み、EUの補助金を活用した調査を実施しています。2050年に水素搬入量2000万トンという目標を掲げて、早ければ来年からパイプラインによる水素輸送や海外からの大規模輸入を検討しています。

またアメリカもおよそ1兆円の政府補助金を拠出し、国内の4地点以上に水素の製造、貯蔵、そして輸送を行う大規模な拠点を整備する予定です。

研究開発だけでなく、インフラ整備や実用化まで政府が手厚く支援しているのです。

国際標準化で出遅れ

水素は環境にやさしいつくり方かどうかで主に3つに分類されます。
グレー水素
天然ガスなど化石燃料でつくる(何もしない)

ブルー水素
天然ガスなど化石燃料でつくり、製造時に発生する二酸化炭素を地下に埋める

グリーン水素
再生可能エネルギーで水を電気分解してつくる
今、世界中の水素は99%がグレー水素だと言われています。

欧米は製造時の二酸化炭素の削減基準を示し、ブルー水素の基準を厳しくしています。まだこの分野で明確な国際基準がないなか、先行して基準を示すことで水素の国際標準を主導したいという思惑があるものとみられています。

日本は国として基準を示せていません。

半導体での苦い思い

冒頭、経済産業省の幹部が語った「世界に負けてしまいかねない」との危機感。

実は日本は最初は先頭を走っていたのに気が付いたら抜かれてしまったという苦い経験をいくつも重ねていることが背景にあります。思い起こされるのは、半導体や液晶パネル、携帯電話や太陽電池などです。
このうち半導体は1980年代後半には日本の世界シェアは5割以上。シェアトップ10には、日本のメーカーが6社も入るなど、2位のアメリカを大きく引き離す状況でした。

しかし、工場を持たずに設計に専念するファブレスの時代に乗り遅れ、90年代の深刻な金融危機と景気悪化に企業は苦しみ、研究開発への投資ができなくなりました。政府も明確な半導体戦略を描く余裕もなく、思い切った資金支援もないまま、競争力を失っていったのです。

現在(2019年)は日本の半導体の世界シェアは1割を切っています。

勝つために:運搬技術

日本が水素でリードを維持するためにはどうしたらいいのか。強みを磨き続けることが重要だと指摘されています。

その1つが水素の運搬技術です。
川崎重工業は世界で唯一、液化した水素を船で運搬する技術をもっています。世界初の液化水素を運ぶ専用船「すいそ ふろんてぃあ」。

高い密閉性と耐久性が求められるため、最新の真空断熱技術などが用いられています。水素をマイナス253度に冷やして液化し、体積を800分の1にしてより多くの水素を効率よく運ぶことができるのです。

この液化水素運搬船は一回の航行で燃料電池車1万5000台分の水素を運ぶことができるということで、今後技術開発が進めば水素の供給コスト低下につながると期待されています。

ことし2月にはオーストラリアで取り出した水素を初めて神戸港に運搬することに成功し、会社では2030年ごろの商用化を目指しています。

勝つために:巨額投資負担する仕組み

水素を一般に普及させていくためには供給側と需要側の双方を同時に立ち上げなければなりません。製造側が「ニーズがない」、使う側が「コストが高い」と言っているようではいつまでも普及しません。

研究開発から実用化まで一気通貫した支援にはばく大なコストがかかります。

専門家は開発する企業が投資判断を予見しやすい制度の設計を急ぐ必要があると指摘します。
九州大学 佐々木センター長
「かつてもともとコストが高いLNGを商用化できたのも国民に広く負担する仕組みづくりがあったからだが現在はそうしたスキームがなくなっている状況だ。脱炭素燃料への投資環境が進まないと、いずれ脱炭素燃料が手に入らなくなり、最終的に国民が損をする事態になってしまう」
ドイツは国外から輸入した水素を10年間固定価格で官民で作った財団が買い取る新たな仕組みを導入する予定です。

日本でも導入されている再生可能エネルギーの固定価格買取制度の“水素版‘’のような制度で、ドイツは2年後の2024年から輸入を開始する計画です。

またイギリスでは、政府が基準価格を設定し、市場価格との差を補償する事業者への補助金のような制度を検討しています。

専門家はイギリスやドイツのように水素の基準価格と市場価格との差を補償する制度の検討を急ぐべきだとしています。

期間を限定して事業者に補償する制度や、二酸化炭素の排出量に応じて企業にコストを負担してもらう「カーボンプライシング」を財源として事業者を支援する制度など、国民負担を考慮した施策も考えられるとしています。

待ったなしの温暖化対策

地球温暖化は平均気温の上昇、干ばつや大雨、海面上昇などさまざまな悪影響を私たちの暮らしにもたらすとされています。

残念ながら日本は発電の70%以上をいまだ化石燃料に頼り、温暖化対策は道半ばです。

政府は2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする目標を掲げていますが、太陽光などの再生可能エネルギーだけで実現するのは厳しく、原子力発電の利用拡大も国民の反発から困難が伴います。

せっかく技術でリードしている水素をいかに活用し、普及させていくのか。ここからが正念場となりそうです。
経済部記者
佐々木 悠介
2014年入局
静岡局を経て経済部で経済産業省を担当