沖縄と自衛隊 ~急患空輸 本土復帰から50年続く現場から

沖縄と自衛隊 ~急患空輸 本土復帰から50年続く現場から
1972年、沖縄の本土復帰に伴い沖縄には自衛隊が配備された。復帰後もアメリカ軍は沖縄に駐留を続けたが、多くの任務が自衛隊に引き継がれた。その一つが離島からの救急患者の空輸だ。
(沖縄放送局 記者 阿部良二)

本土復帰以降の50年 24時間態勢で任務を担う

急患空輸は夜間や悪天候などでドクターヘリの飛行が難しい場合に、県の災害派遣要請を受けて行われている。沖縄県内だけでなく鹿児島県の奄美大島以南の広い範囲をカバー。

沖縄の陸上自衛隊は本土復帰以降の50年にわたり、この任務を24時間態勢で担ってきた。
「レスキュー仮通報 レスキュー仮通報
 渡名喜ヘリポートから那覇 渡名喜ヘリポートから那覇」
CH47ヘリコプターが駐機する格納庫に、警告音とアナウンスが響き渡った。

隊員たちが一斉に動き出す。整備士が機体の最終点検に当たり、15分後にはヘリコプターの準備が完了。

しばらくして病院で待機していた医師が到着し、迷彩が施された大きな機体はゆっくりと機体を持ち上げ、夜の空へと飛び立っていった。

救われた命

救われた命は数知れない。

石垣島に住む櫻島薫さんは妊娠中だった9年前の5月の夜、体の不調を訴え医師にかかった。出産予定日は8月だったが、危険な状態だと診断され沖縄本島の病院にかかることになった。
櫻島薫さん
「主治医の先生に見ていただいて民間機で行きましょうということになり、私はもう入院していたので夫がチケットを手配しているところだったんです。その間にどんどん症状が悪化していったようで『あすでは間に合わないかもしれません。自衛隊のヘリコプターのほうを要請します』ということで手続きを進めてもらってたんですけど、また症状が急激に悪化してしまったみたいで、結局、小型飛行機を手配していただいたんです」
搬送中のことも覚えている。
櫻島薫さん
「『安全に迅速に運ぶので安心してください』というようなことをずっと言っていただいて『体調大丈夫ですか』とか『何か苦しいとこないですか』みたいな声掛けもしていただきました。皆さんができることをして運んでくれて、皆さんの力を借りて生まれてきてくれた子ですので、私がこの子のためにできることを頑張らないといけないと思っています」
櫻島さんは夜明け前に石垣から那覇に搬送され、緊急の帝王切開手術を受けた。

息子の航梛くんが取り出された時の体重はわずか500グラム。あと数時間遅れれば母子ともに危険な状態だったという。航梛くんは今9歳で、すくすく育っている。

必ずしも大きくなかった歓迎の声

離島県である沖縄にとって欠かせない、文字どおりライフラインとなっている陸上自衛隊の急患空輸。しかし急患空輸が始まった昭和47年当時、その活動を歓迎する声は必ずしも大きくなかった。
沖縄と自衛隊の関係は、ほかの都道府県のそれとは異なり複雑だ。

本土復帰でアメリカ軍基地の撤去を求めていた県民にとって、自衛隊の配備は基地の存在自体が続くこととも受け止められた。自衛隊の配備が新たな戦争につながり、再び沖縄が戦場になってしまうのではないかという不安も根強い。

何より国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄では、自衛隊は旧日本軍とつながっているものとみる向きもあった。沖縄戦では住民が避難していた壕から追い出されたり、スパイ容疑をかけられ殺害されたりしたケースもあった。体験者の中には“軍隊は住民を守らない”と語る人もいる。

抗議活動避けるため部隊配備の詳細は当日まで知らされず

熊本県益城町に住む植山洋一さんは復帰に伴って熊本から那覇に配属され、急患空輸を担当した陸自隊員の一人だ。植山さんは当時の雰囲気を鮮明に覚えている。
植山洋一さん
「沖縄は当時、知事も反対派だったんですね。当時、若夏国体もあったんだけど、やっぱり自衛隊の選手は除外しようという感じでした。豊見城の(自衛隊員が暮らす)アパートの周辺には(抗議の)デモが来て、夫が自衛隊に出勤して奥さんや家族だけ残っているところに『自衛隊帰れ』というシュプレヒコールがあったんですね」
こうした自衛隊への反対運動は、沖縄だけでなく熊本でも行われていた。

抗議活動を避けるため植山さんの所属部隊の沖縄への配備の詳細については、隊員たちですら那覇へ向かう当日の朝まで知らされなかったと話す。
植山洋一さん
「もうだいたいこの時期には行くよということだったんです。しかしはっきりと何月何日ということは示されない。その日、朝5時ごろに非常呼集がかかりました。出動するとヘリはすでにいつ出てもいいように準備オーケーという状況だったんですね。飛行機の点検をやって、そして7時にここを編隊で一気に離陸していった」

“沖縄の人々の理解や信頼を得るための重要任務”

こうして沖縄に配備された植山さんたちの部隊。さまざまな困難の中で主に急患空輸の任務を開始する。
しかし夜間や悪天候の中などの飛行は危険と隣り合わせだ。当時はヘリパッドのない離島も多い時代。植山さんたちは自分たちで着陸場所の目星をつけなければならなかった。

当然、十分な設備もなく、離島の住民にドラム缶で火をたいてもらい、それを頼りに着陸するなど試行錯誤の日々だったという。

自衛隊にとって急患空輸は、不発弾処理と並んで沖縄の人々の理解や信頼を得るための重要な任務でもあった。
植山洋一さん
「配属の際、患者空輸が主たる任務だということを言われました。とりあえずそれをしっかりやれれば、沖縄の人たちもわれわれを何と言うか信頼してくれるだろうということだったんですね。その任務をいかにしっかり遂行するかというのは、いちばんの課題だったと思うんです。沖縄に着いてからもその体制をとるためにみんなでいろんな意見を出し合って、階級の上下なくみんなでつくり上げていったように思っています」
急患空輸の50年の歴史では殉職者も出ている。

平成2年には宮古島沖で小型機が墜落し医師と隊員合わせて4人が死亡。平成19年には鹿児島県徳之島にヘリコプターが墜落し、隊員4人が命を落とした。今でも沖縄の陸自は、それぞれの事故の月命日に黙とうを行っている。

沖縄と自衛隊はこれから…

ことし4月、急患空輸の出動回数は1万回に達した。

第15ヘリコプター隊の後村幸治隊長は、その記録は本来、達成して喜ばしいものではないと話す。
第15ヘリコプター隊 後村幸治隊長
「いずれこの空輸がなくなるというのが本来の望ましい姿なので、そのために医療体制がよくなったり、患者さんがすぐ治るような薬が開発されたり、そういうことが沖縄県の皆さんにとってもいい環境だろうなと認識しています」
50年の活動を通して自衛隊は、沖縄での活動に対する県民の理解は広がっていると感じている。一方で「県民のために」ということを今もしばしば強調する姿勢からは、依然として複雑な関係への緊張感もにじむ。

沖縄の自衛隊は今、新たな変化の時代を迎えている。中国の海洋進出などを背景に、自衛隊は先島諸島に部隊を相次いで配備。米軍との一体化も進められている。

沖縄と自衛隊の関係はこれからどのように変わっていくのだろうか。
沖縄放送局 記者
阿部良二
2009年入局
北海道や名古屋などの放送局を経て沖縄局に赴任
経済や自衛隊などを取材