56円の訴え 亡き運転士が託した思い

56円の訴え 亡き運転士が託した思い
ミスを理由に賃金をカットされたJR西日本の運転士。
その金額は、わずか56円。

それでも裁判に訴えたのには理由がありました。
「あの事故を繰り返さない」
判決の直前に亡くなった、1人の運転士が託した思いです。

(岡山放送局記者 冨士恵里佳、内田知樹)

運転士として30年

JR西日本の運転士、和田博文さん。昭和56年に入社し、岡山支社で30年以上勤務してきました。

勤務態度はいたって真面目。性格も控えめでしたが、仲間が困っていたら率先して助ける人だったといいます。
そんな和田さんの人生を変えたのが、おととし6月の1つの“ミス”でした。

朝、点呼を済ませたあと、岡山駅で車庫に移動させる回送列車に乗務するはずが、誤って別のホームで待機してしまったのです。
列車が到着する直前に気付いて、すぐに正しいホームに向かったものの、会社の指示より2分遅れて乗車。車庫への移動は予定より1分遅れました。

ただ、ダイヤへの影響はありませんでした。

“無価値労働”

しかし、会社から言い渡されたのは「無価値労働」という厳しい言葉でした。そして乗車が遅れた2分間ぶんの賃金85円を給料からカットされたのです。

実はこうした懲罰的なしきたりは、「定時運行を守るため」としてJR西日本で以前から行われていたといいます。
和田さんと同期入社の運転士、寺居等さんが説明してくれました。
寺居等さん
「和田君と同じようなミスが理由の賃金カットは、ほかの社員にも行われ“当たり前”となっていた。おかしいと思っても、金額がわずかなため泣き寝入りしていた」

たった1人で行動に

まっすぐな性格の和田さんは納得しませんでした。

「サボっていたわけではなく、確かに働いていた。それなのに賃金をカットされるのはおかしい」

労働基準監督署に相談したところ「賃金は原則、全額を労働者に支払わなければいけない」と定めた労働基準法に違反するとして、会社に是正勧告が出されました。

それでも会社は、車庫への移動が遅れた1分間ぶんの賃金56円をカットする方針に改めただけでした。

あの事故を繰り返さない

和田さんは諦めません。未払いの賃金56円と慰謝料を求めて、去年3月、会社を訴えたのです。

背景には、17年前に107人が死亡したJR福知山線の脱線事故がありました。
国の事故調査委員会は、直前の駅でオーバーランをした運転士が、「日勤教育」と呼ばれる懲罰的な指導を受けさせられることを懸念し、運転に集中していなかったのではないかと指摘しました。

これを受けて、JR西日本は速度超過や信号機の見落としなど運行上のミスは懲戒の対象から外すことに。しかし、作業時間の間違いなど運行時以外の人為的なミスは依然として懲戒の対象としたままだったのです。
「会社の体質を変えたい」

和田さんは提訴の際の会見で思いを語りました。
和田博文さん
「脱線事故の当事者であるJR西日本がいまだこのような懲罰的な賃金カットを行うということは理解できません。裁判の当事者になるなんて生まれて初めてのことで足が震えていますが、後輩たちのために安心して働ける職場になるよう精いっぱい頑張りたい」
この勇気ある一歩は、徐々に周囲を動かしました。同期の寺居さんたちが所属する労働組合は一丸となって支援。

大勢の組合員が裁判の傍聴に足を運び、和田さんと思いを1つにしていました。
寺居等さん
「ダイヤを公表して自分たちがそれを動かしている以上、時間に厳しくしないといけないのは自覚している。だけれども、運転士が萎縮するようなことをしていたらミスを取り戻そうとスピードアップしてまた事故が起きる」
そしてついに、JR西日本も。

提訴から1年後のことし3月、人為的なミスを懲戒の対象から外すことを決めたのです。この方針転換についてJR西日本は「以前から検討していた」として、裁判との関連は否定しました。
それでも和田さんのもとには、社員から多くの感謝のメッセージが寄せられました。
「和田さんのおかげに決まっている」
「当たり前と思い込まされていたことに気付いた」
「新しい一歩をありがとう」
その後、JRは和解案を提示。

説明やコミュニケーションが不足していたことについて反省し、賃金を支払うという内容でしたが、和田さんは「違法性を認めておらず謝罪もない」として受け入れませんでした。

聞くことができなかった判決

最後まで戦うと決めた和田さん。

しかし、判決まで2週間となったことし4月上旬。以前から療養していた病気のため、59歳で亡くなりました。
4月19日。原告のいない法廷で判決が言い渡されました。
岡山地方裁判所・奥野寿則裁判長
「乗務員がいかに会社の指示に従って業務を進めようとしても、人間が行うからにはミスは生じるものだ。遅れは出たものの、会社が指示した業務の実現に向けた労働をしていて、その分の賃金を請求できる」
賃金カットの違法性を認め、未払いの賃金の支払いをJRに命じたのです。一方、慰謝料の請求は退けました。

これについてJR西日本岡山支社の須々木淳副支社長は「真摯(しんし)
に受け止める。すでに懲戒基準の見直しを行っており、今後裁判で争うことはしない」として控訴しない考えを示しました。

遺志を継いで

勝ち取った56円。判決を見守った同期の寺居さんは、涙を流して和田さんの遺影に呼びかけました。

寺居さん
「和田君やったぞ。よく頑張った」
その6日後、福知山線の脱線事故から17年となる4月25日。寺居さんは労働組合のメンバーとともに県内の寺を参拝。事故の犠牲者を追悼するとともに、和田さんに「次は自分たちの番だ」と誓いました。
寺居等さん
「当たり前だと思っていても、実はおかしい制度はほかにもあると思う。和田君の遺志を引き継いで、これからも改善を進めて安全な鉄道を目指したい」

“当たり前”を疑うこと

和田さんは生前、「罰を与えることによってミスが減るという認識を変えたい」と記者に話してくれました。

その時のまっすぐな目が深く印象に残っています。

わずか56円。そのささいな理不尽さにも目をつぶらず、「安全運行」という使命のために信念を貫いた1人の運転士。

その姿を私たちも受け止め、世の中の「当たり前」が本当に正しいのか、見つめ続ける姿勢を持ちたいと思いました。
岡山放送局記者
冨士 恵里佳
令和2年入局
警察・司法を担当
性的マイノリティーやヤングケアラーなども取材。
岡山放送局記者
内田 知樹
令和3年入局
警察・司法を担当
大学時代に法学部で刑法や家族法を学んだことを生かし、裁判をわかりやすく伝えたい