「はだしのゲン」作者が描いた沖縄

「はだしのゲン」作者が描いた沖縄
50年以上前、ある漫画家が、アメリカの統治下におかれていた沖縄に向かった。のちに「はだしのゲン」の作者として知られるようになる中沢啓治さんだ。

そこで目の当たりにした現実を、漫画で表現していたことはほとんど知られていない。

5月で本土復帰から50年となる沖縄。復帰前の沖縄で中沢さんは何を見て、何を伝えようとしたのか。
(佐賀放送局記者 国枝拓)

本土復帰前の沖縄を舞台に

漫画の舞台は、本土復帰4年前の1968年の那覇市。沖縄がアメリカ軍の出撃拠点にもなった、ベトナム戦争のまっただ中だ。
主人公は基地とともにある暮らしが当たり前の環境に育った青年「三郎」。

三郎は、自宅近くで起きたB52爆撃機の墜落事故や、兵士の飲酒運転による母の死などを経験。戦後の沖縄が抱える不条理に怒りを燃やし、基地ぬきの本土復帰運動に身を投じていく。登場人物たちの感情がほとばしる描写は、戦争や原爆への怒りをエネルギーにしている「はだしのゲン」そのものだ。
漫画はハッピーエンドではない。

最後のカットは、基地のない沖縄を望んで声を上げる住民たちの上を、黒煙を吹きながら悠然と飛んでいくB52が描かれ、読む者をやるせない気持ちにさせる。

「ジャンプ」連載の異色作

広島出身の漫画家で、被爆した経験を持つ中沢啓治さん。

代表作「はだしのゲン」をはじめ、戦争と平和をテーマに数々の作品を残してきた。その中沢さんが、沖縄の基地問題を真正面から描いた唯一の作品が、この「オキナワ」だ。

作品は本土復帰2年前の1970年に「週刊少年ジャンプ」に7回にわたって連載された。
当時のジャンプの表紙には“番長マンガ”の先駆けとなった本宮ひろ志さんの「男一匹ガキ大将」や、過激な表現が物議をかもした永井豪さんのギャグ漫画「ハレンチ学園」のイラストが目を引く。水木しげるさんや赤塚不二夫さんら人気漫画家の作品も、ずらりと並んでいる。

そんな中で「オキナワ」はひときわ異彩を放っている。

それが売りでもあったのだろう。キャッチコピーには「野心作」「異色作」などの文字がおどっている。

本土と沖縄との間に、大きな隔たりがあった時代。本土の読者は漫画を、沖縄の現実として驚きをもって受け止めていたようだ。
“そこに書かれてある事々―沖縄の現状―は本当にあの様なのでしょうか
私にはどうしても信じられないからです”

“ぼくが最近見たジャンプに「オキナワ」がのっていた
B52がたえまなく飛んでいておちついて生活できない
同じ日本人なのにどうしてこんなに違うんだろう”
(1971年出版の単行本に掲載された読者の声)
一方、沖縄の読者からは、2年後に控えた返還のあり方に疑問を投げかける声も寄せられている。
“前略、沖縄出身の一青年です。

漫画を通して、沖縄の現実を訴えるという中沢先生の意気込みを期待するものです
B52の昼夜を問わずのベトナム発進など―果たして72年返還が、安保条約とからみ、真の祖国復帰であるかどうか疑問です”
(1971年出版の単行本に掲載された読者の声)

現地取材も一時は漫画化を断念

漫画の物語は、中沢さんが沖縄で実際に見聞きしたものがベースとなっている。執筆のため、本土復帰前の沖縄を訪れているのだ。

事前に沖縄に関する本を読みあさってひととおりの知識をつけ、外国への旅行に必要なビザの取得も済ませて、那覇空港に降り立った。

中沢さんの自伝には、そこでアメリカ軍基地を目の当たりにした時の衝撃が、赤裸々につづられている。
「道路の両側は基地の金網が果てしなく続き、ベトナムに向かう最新鋭機が飛び立ち、港は艦船が埋めていた。沿道は兵器の展示場であった
まったく想像を絶する米軍基地の巨大さには驚き呆れた。それはまさに、基地のなかの一点に沖縄市民が生活しているようだった」
取材中に遭遇した出来事や、住民たちの暮らしぶりは「オキナワ」を創作する上で、重要な手がかりとなっていく。
「嘉手納基地でB52の飛び立つ写真を撮ろうとカメラを構えると、パトロールカーが赤いライトを点滅させ、警備員がカービン銃を構えて追いかけてきた。改めて、この沖縄はアメリカなんだと確認した」

「(基地との境界の)金網ギリギリまで土地を耕し作物を植えている農民。ものすごい爆音の下で勉強している子どもたち
この沖縄は、いま戦場としてさらされ、一触即発で沖縄本島が一瞬にして吹き飛んでしまうのではないかと身震いした」
(教育史料出版会『はだしのゲン』自伝 より)
自伝には、本土に戻ったあとに思い悩んだことも記されている。滞在中には沖縄戦の戦跡も訪ねて回っていて、自身の被爆体験がよみがえり、息苦しくなったというのだ。

「沖縄の問題はあまりにも大きくて、一漫画家が扱えるテーマではない」と、一時は漫画化を断念。編集者の説得でなんとかペンを執り「眼で見たことを素直に描くしかない」と思い直したと振り返っている。

被爆の痛み=戦場としての沖縄

中沢さんはなぜ、そんな思いをしてまで沖縄にフォーカスしたのか。

当時の彼をよく知る人がいる。漫画評論家の石子順さん(86)。30代のころから交流があり、「はだしのゲン」の単行本出版にも携わった。「オキナワ」の単行本化にあたっては、書評も担当している。
「オキナワ」について取材を受けるのは、今回が初めてだという石子さん。数十年ぶりに手にした作品を、じっくりと見つめながら語った。
「懐かしさよりも、むしろ痛みを感じますね。中沢の当時の胸の内がひしひしと伝わってきて、今読んでも痛いです」
石子さんによると、中沢さんは昭和40年代の半ばごろ、のちの「ゲン」につながる戦争漫画をどう描くか模索していたという。自分はなぜ被爆したのか、ひいては戦争とは何かという大きなテーマを突き詰めた結果、基地に囲まれた、戦争と隣り合わせの実態を見ずにはいられないと、その足が自然と沖縄に向かったという。
漫画評論家 石子順さん(86)
「日本から沖縄がもぎ取られている痛み。その痛みは被爆した痛みと重なっている。“異国の中の祖国”で生きている沖縄の人たちの痛みに重ねていくということを中沢はやりたかった。中沢以外の漫画家が沖縄の問題をテーマにしても被爆の経験と重ね合わせて描くこと、二重、三重に痛みを掘り下げるようなことはできなかったんじゃないかと思う。自身を見つめ、それをやり切ったのが彼のすごいところで、中沢だからできた漫画だと思います」
中沢さんを近くで見てきた石子さんは、苦しみながら「オキナワ」を描ききった経験が、その後の「ゲン」の執筆につながったとみている。

今も放たれるメッセージ

漫画を、自身の体験と重ねて読んだという人もいる。

本土復帰間もない沖縄で学生時代を過ごした佐賀県唐津市の西山実さん(64)。特に印象深いというのが、漫画の中で何度も描かれるB52だ。
西山さんが進学した頃にはベトナム戦争は終わっていたが、グアムから一時的に沖縄に移動してきた機体を目撃したことがあるという。
西山実さん
「国道58号線を車で走っていると嘉手納基地の壁の内側に真っ黒い大きな尾翼がそびえ立っているのが見えたんです。このとてつもなくでっかい飛行機は何だと地元の友人に聞くと『これがあのB52だ』と。漫画ではB52が不気味に描かれていますが、そのときの私の驚きの感覚と同じです」
そして、基地を離着陸する軍用機の騒音。漫画を読むと、当時の記憶がはっきりよみがえってきたという。
西山実さん
「漫画の中で、音楽の授業中に小学校の上をB52が飛んでいき、その音で子どもたちの歌声やピアノの音がかき消されて聞こえなくなってしまうシーンがあります。私が普天間飛行場近くの小学校で教育実習をしたとき、近くを飛ぶヘリコプターのバリバリという音でなんども授業が中断しました。ヘリコプターはホバリングしますし、何機も一緒になって飛ぶので、中断した時間は漫画よりも長かったかもしれません。その間は、私がいくら大きな声を出しても子どもたちには届きませんでした」
大学を卒業してからも何度も沖縄を訪ね、伝統楽器・三線(さんしん)の愛好会で活動を続けるなど、沖縄と関わりを持ち続けてきた西山さん。「オキナワ」を読み、在日アメリカ軍の施設のおよそ70%が集中し、漫画が描かれた当時と大きく変わっていない沖縄の状況に、あらためて気付かされたという。そして、本土復帰50年のいま、漫画を通してその実情を社会に問いかけた中沢さんの思いをくみ取ろうとしている。
西山実さん
「今に続く沖縄の歩みを知ることができる貴重な作品だと思います。今もあの小さな島に広大な基地が広がっている。そんな現実を知ることから始めてほしい、沖縄の人がどういうことを願っているのか、思っているのかを感じてほしい。中沢さんは50年前もこのことを知ってほしかった。その思いは今も漫画の中で生きています」
漫画はいまも昔も、基地と隣り合わせの沖縄の現実を発信し続けている。
佐賀放送局記者
国枝拓
新聞記者を経て平成21年入局。松山局を経て、平成26年から5年間、科学文化部で福島第一原発事故の検証を中心とした原子力取材のほか、将棋・音楽・歴史などの文化取材を担当。現在は佐賀局で文化、原発などジャンルを超えた取材を担当。