「本土復帰50年」 沖縄と歩んだ戦後の皇室

「本土復帰50年」 沖縄と歩んだ戦後の皇室
5月に本土復帰から50年を迎える沖縄。

太平洋戦争中、激しい地上戦で20万人以上が犠牲になり、戦後もアメリカの統治下におかれ、苦難の道を歩みました。

戦後、皇室に対して複雑な感情が残っていた沖縄と皇室の歴史を見つめます。
(社会部記者 橋本佳名美)

念願の沖縄訪問 かなわなかった昭和天皇

50年前、政府が東京で開催した沖縄の本土復帰記念式典には、昭和天皇の姿がありました。
昭和天皇は、太平洋戦争で多くの人が犠牲になった沖縄を訪問することを強く望んでいました。

そして、本土復帰から15年がたった昭和62年、秋の国民体育大会にあわせて、昭和天皇が沖縄を訪問することが決まりました。

その年の誕生日の記者会見では、「念願の沖縄訪問が実現することになりましたならば、戦没者の霊を慰め、長年県民が味わってきた苦労をねぎらいたいと思っています」と述べていました。

しかし、訪問の前に、昭和天皇は体調を崩し、訪問はかないませんでした。

復帰後、皇室初の訪問に“火炎びん”

戦後、昭和天皇の訪問がなかなか実現しなかった背景には、過激派によるテロなどへの懸念があったとみられます。

本土復帰後初めてとなった皇室の訪問で、火炎びんが投げつけられる事件が起きていたからです。

それは、復帰から3年後の昭和50年7月、当時皇太子夫妻として訪問された上皇ご夫妻に向けられました。
沖縄戦最後の激戦地、糸満市にある女学生たちの慰霊碑「ひめゆりの塔」に向かわれた上皇ご夫妻。

花束を供え、黙とうをささげられたあとのことです。

地下壕に潜んでいた過激派の青年らに火炎びんを投げつけられたのです。
それでも、ご夫妻は、予定を変えることなく、いくつもの慰霊碑を回り、たっての願いだった沖縄戦の遺族との面会も果たされました。

火炎びん事件 実行犯の“義兄弟”

この“火炎びん事件”、当時の沖縄では、肯定的に受けとめる雰囲気もあったと証言する人がいます。

読谷村の彫刻家、金城実さん(83)です。
事件のおよそ2週間前、当時住んでいた大阪・八尾市の自宅に、事件の実行犯となる青年らを泊めていました。

金城さんは事件を知って驚くとともに、沖縄のたどった歴史や復帰後の状況を改めて考えるようになりました。

金城さん自身、軍に志願した父親を戦争で亡くしていました。

太平洋戦争は、昭和天皇の名のもとに行われました。

このため皇室への複雑な感情はぬぐえず、戦後も本土から切り離された沖縄が、アメリカ統治下で不当な扱いを受けてきたと感じていました。

金城さんは、火炎びんを投げた青年たちを支援しようと、収監先の沖縄県内の刑務所に向かいました。

そこで予期せぬことが起きました。

受付で「続柄」を記入する際、「義兄弟」と書くと、刑務官は笑いながら、何もとがめずに通してくれたというのです。
金城実さん
「沖縄の人間は、本土復帰によって、米軍による人権問題が変わると期待して復帰運動に突き進んでいた。

だが、蓋を開けると、沖縄の人たちが望んだ形の復帰とは必ずしも言えなかった。青年たちと面会した時、彼らに『よくやった』とも、『お前らひどい』とも言えなかったが、ただ顔を見て、沖縄の先輩が訪ねてきたと伝えたかった。

その後、青年の1人から『刑務所では、沖縄出身の刑務官が夜な夜なサンドイッチとコーヒーを持ってきた』と明かされた。沖縄の人の中には事件を肯定する部分もあったのかと驚いた」

沖縄と寄り添う上皇ご夫妻

上皇ご夫妻は、“火炎びん事件”の半年後、再び沖縄を訪ねられます。

北部の激戦地の1つ、伊江島です。

この島では、戦争で住民の2人に1人が犠牲になっていました。
村の総務課長としてご夫妻を迎えた内間亀吉さん(84)は、上皇ご夫妻の前では「戦争の話題に触れない」と、村で取り決めたと振り返ります。
内間亀吉さん
「皇太子さま(上皇さま)の訪問には、本土に復帰したことのありがたみを実感しました。しかし、一部にはまだ『許せない』という方もいたと思うので、戦争のことに触れてもしかたがないということでした」
上皇ご夫妻は、戦争の犠牲者をまつった塔を訪れ、さとうきび畑を視察するなどして、半日の滞在で島を発たれました。

しかし、訪問から数週間後、内間さんたちを驚かせる出来事がありました。

上皇さまから沖縄の伝統的な歌、「琉歌」が、村に贈られたのです。
広がゆる畑 立ちゆる城山 肝のしのばらぬ 戦世の事
それは、「畑も山も島の風景は平穏そのものだが、ここでの戦争のことを想うと心が張り裂けんばかりだ」という意味の歌でした。

内間さん自身、戦争で父や姉など12人の親族を亡くしていて、上皇さまの歌に感じ入るものがあったといいます。
内間亀吉さん
「訪問時、ご夫妻とは戦争の話をしませんでしたが、事前に島の歴史を調べられて、山野に散らばった戦争の爪痕をしのばれ、この歌を詠まれのだと思いました。私たちを含めて、戦争の責任は昭和天皇にあるかのように思っていました。

しかし、実際はそうじゃない。上皇さまが詠んだこの歌のようなお考えなのだと思いました」

上皇ご夫妻は“優しいお父さま、お母さま”

上皇ご夫妻は、本土復帰前の昭和38年から沖縄の子どもたちとふれあう機会も持たれてきました。

夏休みに東京などに派遣され、記者の仕事を体験する沖縄の子どもたち、通称「沖縄豆記者」との交流です。
毎年のように、「豆記者」をお住まいなどに招いて、沖縄の人の暮らしぶりや伝統芸能などについて、熱心に話を聞かれました。
40年余りにわたって「豆記者」の活動に携わってきた糸満市の川満茂雄さん(75)は、活動を通じて上皇ご夫妻の沖縄への強い思いを感じたといいます。
沖縄県豆記者交歓会顧問 川満茂雄さん
「上皇ご夫妻は、専門家も舌を巻くほど、沖縄の歴史や文化を勉強されていました。4人に1人が犠牲になった沖縄戦の厳しい現実にも目を背けず、忘れないで寄り添ってくださいました。

ご夫妻は『どの教科が好きですか』など、子どもたちが答えやすい質問をしていらっしゃいました。子どもたちは『優しいお母さま、お父さまのようだ』と言っていました」

受け継がれる「沖縄豆記者」との交流

「豆記者」として東京にやってくる沖縄の子どもたちとの交流は、平成に入ると、皇太子夫妻となった天皇皇后両陛下に受け継がれました。

平成28年8月には、両陛下と「豆記者」の子どもたちが、当時のお住まいの東宮御所で懇談し、サプライズで一緒にバレーボールをする場面もありました。

当時、中学生だった愛子さまも輪に加わられました。
令和に入ると、「豆記者」との交流は、秋篠宮ご夫妻に引き継がれました。

3年前に「豆記者」として、秋篠宮ご夫妻と交流した、名護市の高校1年生の友寄なつきさん(15)は、同い年の悠仁さまとも話ができたことが印象に残っているといいます。

悠仁さまから「この体験の中で友だちはできましたか」と尋ねられ、はっきりと「できました」と答えることができました。

また、別の「豆記者」が、悠仁さまに好きなフルーツを尋ねると、「パッションフルーツ」と答えられるなど、和やかな時間になったと話します。
友寄なつきさん
「遠い存在だった皇室の方でしたが、自分たちに興味を持ってくれてうれしかったです。復帰50年の今でも、沖縄にはたくさんの基地があり、私の住む名護にも、辺野古移設など課題があります。

皇室の方が沖縄に目を向けてくれることで、国民そして沖縄の県民が考えることにつながると思うので、皇室の方々には、これからも沖縄に目を向け続けてほしい」

沖縄と歩んできた戦後の皇室

長年、「豆記者」の活動に携わってきた川満さんは、4年前(平成30年)、上皇ご夫妻が沖縄を訪問された際、宿泊先のホテルでご夫妻を出迎えると、上皇后さまから「豆記者をよろしくね」と優しく話しかけられたといいます。
沖縄県豆記者交歓会顧問 川満茂雄さん
「本土と沖縄の架け橋として始まった『豆記者』が、時代が変わっても受け継がれ、そして、上皇ご夫妻の平和への思いも引き継がれていると思います。沖縄と皇室の絆が、これからもつながっていくことを願います」
昭和天皇が果たせなかった沖縄への訪問。

上皇ご夫妻の沖縄への訪問は11回に及び、戦没者の慰霊や遺族との面会を重ねられました。

初めて沖縄を訪問した“火炎びん事件”があった日の夜、上皇さまは、談話を発表されています。
「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
そのことば通り、上皇ご夫妻は、苦難の道を歩んだ沖縄に、長い年月をかけて心を寄せ続けられました。

そうした姿は、多くの沖縄の人の心に響き、次の世代との交流にもつながっていると感じました。

そして、5月15日に開催される、沖縄の本土復帰50年の記念式典には、天皇皇后両陛下がオンラインで出席されることになっています。

戦後、沖縄の人たちに寄り添い続けてきた皇室のこれからの歩みを見つめていきたいと思います。
社会部記者
橋本佳名美
2010年入局
国税、司法担当を経て去年11月から宮内庁担当