ウクライナは希望のはずだった 紛争に翻弄され続けた家族の声

ウクライナは希望のはずだった 紛争に翻弄され続けた家族の声
「子どもには戦争の恐怖を知ってほしくない」
ロシアの軍事侵攻を受けるウクライナから避難してきた子どもを持つ親たちの多くがそう語ります。そうした避難者のなかには、紛争から抜け出すために、ウクライナに移り住んでいた人もいました。これは「紛争」による負の連鎖を断ち切るはずが、再び巻き込まれてしまったある家族の話です。(エルサレム支局 曽我太一)

おじいちゃんと同じ経験

ウクライナから避難するため、ドイツを通過する列車内で撮影された写真です。
写っているのは、ヌズハ・バダウィさん(26・右)と、妹のヤスミンさん(16・左)です。

ヌズハさんは妹と4歳の息子アーダム君を連れ、1週間ほどかけて北欧のスウェーデンに避難しました。

ヌズハさんたちは、ウクライナ中部のポルタワで暮らしていました。
しかし、2月下旬、ロシアによる軍事侵攻が始まると、すぐに親せきの訃報を耳にしました。ロシア軍の攻撃で親せきのひとりが亡くなったと聞いたのです。

「これは危険だ」

ヌズハさんはすぐに避難を決意し、家族と列車に飛び乗りました。
ヌズハ・バダウィさん
「避難シェルターで使っていた荷物だけをもって、私たちはすぐに列車に乗りました。親せきにも弟にも別れを告げることができず、次に何が起きるか全くわかりませんでした。これは、まさに70年以上前に祖父が経験した状況と同じだったんだと思います

70年以上前の戦争で祖父は難民に

祖父と同じ経験とは一体、どういうことなのか。
背景には紛争が繰り返されるこの世界の現実があります。

ヌズハさんは、70年以上まえの戦争で戦火を逃れたパレスチナ人の子孫で、生まれながらに難民です。
祖父ハミースさんはかつて、目の前にオーシャンブルーの海が広がる地中海沿岸の町ヤッファで暮らしていました。

しかし、1948年、イスラエルがその土地で一方的に独立を宣言。
周辺のアラブ諸国との間で第1次中東戦争が勃発し、それまでその土地に暮らしていた70万人ものパレスチナ人が戦火を逃れて難民となりました。

ハミースさんもそのひとりだったのです。
そして、避難した先が「ガザ地区」でした。

ガザ地区には現在200万人が暮らし、周囲をフェンスや弊で囲まれていることから「天井のない監獄」とも呼ばれていて、そのうちの7割が当時避難してきた人たちやその子孫のパレスチナ難民です。

紛争を逃れるはずが…

ヌズハさんの父ムハンマドさんは医師です。

ムハンマドさんは旧ソビエト崩壊直後の1992年、ウクライナ中部ポルタワにある大学の医学部に留学。難民の家庭で生まれ育ち、決して豊かではありませんでしたが、必死に勉学に励み医師になったといいます。

そして、現地でウクライナ人のアリョーナさんと出会い、結婚。

ガザ地区に戻り、ヌズハさんら3人の子どもを育てたのです。

アリョーナさんは、ほぼ完璧なアラビア語を話すほどガザ地区での生活に慣れていきました。
しかし、2007年、ガザ地区をイスラム組織ハマスが実効支配するようになると、イスラエルとの紛争が繰り返されるようになります。

ガザ地区には、イスラエルの最新戦闘機による空爆や戦車による地上侵攻が行われ、ヌズハさんの自宅もたびたび被害を受けました。

そのため4年前、ヌズハさんは生まれ育ったガザ地区を離れ、両親やきょうだいとともに、母親のふるさとであるウクライナへの移住を決断。祖父の時代からの負の連鎖を断ち切りたいとの思いでした。

しかし、今度は紛争を逃れようと渡ったはずのウクライナで、再び紛争に巻き込まれてしまったのです。

ヌズハさんとともに祖国ウクライナに戻ることを決めた母アリョーナさんは、当時の思いを次のように語ります。
母アリョーナさん
「もう子どもに戦争を経験してほしくなかったのでウクライナに移り住みました。子どもたちに静かな環境で教育を受けたり、世界の多くの人のように人間的な生活を送ったりしてほしかったのです。しかし、そのウクライナで娘たちは紛争に巻き込まれてしまいました。いまだに現地で起きていることが信じられません」

息子には紛争を知らずに育ってほしかった

ヌズハさんは、ロシア系のウクライナ人である母とロシア語も話しながら育ちました。

スキルをいかし、ウクライナでは留学生にロシア語を教える仕事をしていました。

しかし、いまや一児の母親でもあり、自分の息子にだけは紛争のことを知ってほしくないと、ウクライナ国外へ逃れることに迷いはなかったと言います。
ヌズハさん
「私自身、何度もガザで紛争を経験してきましたが、今回はいままでで一番つらかったです。それは息子がいるからです。息子のアーダムはガザで紛争を経験していません。アーダムには紛争の恐怖というのを感じてほしくなかったのです。だからすぐにウクライナから避難しましたし、本人には何が起きたのか説明していません」

戦争が追いかけてくる…

ヌズハさんたちはいま、スウェーデンの親せきのところに身を寄せていますが、心配しているのが弟のハミースさん(20)です。(アラブ圏では祖父の名前を受け継ぐ伝統がある)
ハミースさんはウクライナに移り住んだあと、ポルタワにある大学に進学。
学費の免除を受けるほど成績が優秀で、将来はエンジニアになることを目指し工学部で勉強していました。

しかし、ハミースさんはウクライナ国籍を持っているため、徴兵されることはないものの、成人男性の出国制限で国外に避難することができません。

いまもポルタワに残り、避難生活を送っていますが、軍事侵攻のあとウクライナがどうなるのか不安も口にしていました。
ハミースさん
「ガザを逃れて戦争はもう終わったと思ったのに、今もガザにいるように感じます。まるで戦争が自分を追いかけてくるみたいです。ここでの人生を立て直すために多くの時間をかけてきたのでウクライナに残りたいと考えているが、安定した停戦が今後結ばれるのかわからないのが不安だ」

家族のその後

ロシアの軍事侵攻が始まったとき、ヌズハさんの両親、ムハンマドさんとアリョーナさんは、仕事の都合でガザ地区に戻っていたため、そこにとどまらざるをえませんでした。

その間、娘たちはスウェーデンに逃れ、息子はウクライナ国内で避難生活をしいられ、家族はバラバラになってしまいました。
私が両親にガザ地区で会ったのは3月下旬。
2人はその後、ガザ地区からエジプトに移動し、ポーランド行きのビザを取得。
そして、4月中旬、ポーランド経由でスウェーデンに到着し、ようやくヌズハさんたちとの再会を果たしました。
軍事侵攻が始まってから2か月近くが経ってからのことでした。

ただ、ハミースさんは今もウクライナに残ったまま。

今後はムハンマドさんだけが、息子のハミースさんに会うために近くウクライナに戻ることも考えています。

ヌズハさんたち一家は、紛争に巻き込まれるという負の連鎖から抜け出し、少しでも安定した生活を手にしたいという思いでウクライナに移り住んだだけでした。
しかし、ロシアの暴挙はそうした人生を再び狂わせ、家族のつながりをも引き裂いています。

ウクライナでの“戦争”は21世紀最初の戦争ではありません。

ヌズハさんたちが語る言葉のひとつひとつが、改めて紛争が繰り返されてきた世界の厳しい現実を私たちに突きつけています。
エルサレム支局長
曽我 太一
旭川局や国際部を経て2020年からエルサレム支局