私は広場恐怖症 それでも、好きな野球を続ける

私は広場恐怖症 それでも、好きな野球を続ける
「広い空間にいると不安になる」
「飛行機や新幹線に乗るのが怖い」

このような症状は「広場恐怖症」の1つです。

すぐに逃げ出せない場所や助けが求められない場所で呼吸が苦しくなるなどの症状が出ます。

プロ野球・ロッテで現役時代にこの病気を公表した永野将司さん(29)は去年、戦力外を通告されました。

それでも会社員として働きながら社会人のクラブチームで野球を続ける決心をしました。

(ネットワーク報道部 鈴木彩里)

広場恐怖症と闘いながらの4年間のプロ生活

永野さん
会社の仕事に関して今は病気の影響は全くないです。どっちかというと快適にできています。プロ野球では移動の制限がある中、使ってもらったのに結果が残せなくて悔しいですね。あんな刺激のある経験はなかなかないと思います。
永野さんは2018年に社会人野球のホンダからドラフト6位でロッテに入団。

左投げのリリーフピッチャーとして4年間、プレーしました。

去年秋に戦力外となり、現役続行を目指して12球団合同のトライアウトに参加。

持ち味の150キロ近いストレートを投げ込みましたが、声はかかりませんでした。

そして東京にある社会人のクラブチーム全府中野球倶楽部でプレーすることを決めました。

永野さんに取材を始めてまず聞いたのが、広場恐怖症の自身の症状でした。
永野さん
ちょっと過呼吸のような発作になって、けん怠感が出て疲れちゃうというか。「また乗り物に乗れんかった」ってナーバスな気持ちになります。体はどうきのような心臓がドクドクして汗が出ますね。

広場恐怖症とは

公共交通機関に乗っている時や人混みの中、閉ざされた空間や広々とした空間にいる時に「逃げられない」などという気持ちになって避けたくなる症状が出ます。

その症状が出る場面は人によってさまざま。

永野さんは各駅停車以外の電車や新幹線、飛行機といった公共交通機関で移動するのが難しいものの、自分で車を運転するのは問題ありません。

ただ、高速道路は絶対に大丈夫というわけではないということです。

小学生の時に最初の違和感が

大分県出身の永野さんはいつから広場恐怖症と向き合ってきたのでしょうか。

最初に違和感を感じたのは小学2年生か3年生。

校歌の練習を音楽室で何度もしていた時でした。
永野さん
誰かがふざけたりしてやり直しをさせられ「いつになったら終わるんだろう」って考え始めて。そしたら怖くなって、音楽室から逃げ出しちゃったんですよ。それから遠足でバスに乗っている時も「いつまでこのバスに乗らないといけないんだろう。いつになったら着くんだろう」って考え始めて「今すぐ降りたい」となってしまいました。
少年野球チームの練習に向かうため、両親が運転する車に乗っているのも苦痛を感じたといいます。
永野さん
練習に行く時には、そのたびに父や母が「あと10分くらいで着く」と教えてくれました。終わりが分かればなんとか落ち着きを取り戻せました。

中学・高校は無事に卒業 大学で再び症状が

中学と高校は実家から地元の学校に通いました。

その時は道路の状況がわかっている範囲の移動がほとんどで怖さがなくなり、大きな体の不調はありませんでした。

高校では県外の修学旅行にも参加できました。

それが福岡県の九州国際大学に進学し、生活の拠点が変わると体に不調が出ました。

きっかけは野球部のグラウンドに向かうバスでの移動でした。
永野さん
乗っていたら状態が悪くなって、バスから何回も降りました。大学の監督に相談したら免許を取っていいと言われて自分の車で移動するようになりました。それで道を覚えるとバスにも乗れるようになったんです。
大学3年生の時に落ち着いていた体に再び不調が出て、初めて医師の診断を受けた結果、広場恐怖症だと分かりました。

それでも高校時代はエースではなく、甲子園に縁のなかった永野さんが大学では主力として活躍しました。

じん帯を修復する「トミー・ジョン手術」を受けた影響で1年間の浪人時代がありましたが、150キロ近いストレートが評価されて社会人野球の強豪、ホンダに入社することが決まりました。

球速がさらにアップしプロの世界へ

ホンダには甲子園で活躍した選手などがいて最初から主力ではありませんでした。

黙々と走り込んで体作りを行い、ストレートが最速153キロにアップ。

全国大会の都市対抗野球のマウンドも経験して、プロ野球のスカウトから注目される存在になりました。

しかし調査票を送ってきた全12球団に広場恐怖症のことを伝えたところ、最後まで獲得の意向を示したのはロッテともう1球団になってしまいました。
永野さん
ホンダの監督と話して病気のことをきちんと言おうと。入団後に知られることになったら大ごとだからということで。病院で診断書をもらって“僕はこういう症状があります”って書いて。

念願のプロ入りも広場恐怖症の症状に苦しむ

入社2年目のドラフト会議で永野さんはロッテから6位で指名され、念願だったプロ野球選手になりました。
よくとしの2月に沖縄の石垣島で行われた春のキャンプには、薬を服用して飛行機で無事に行くことができました。

首脳陣へのアピールにも成功しオープン戦での登板機会が増加。

その中で何度も飛行機で移動することになり、高知から宮崎に向かう小型飛行機で経験したことのないどうきやめまいがして、意識を失ってしまいました。

それでもシーズン終盤に1軍に昇格。

10月4日の西武戦でプロ初登板を果たし1回を無失点に抑えました。

1年目は4試合に登板し得点を許しませんでした。

勝負の2年目はキャンプに参加できず

プロでやっていく手応えをつかみ迎えた2年目のキャンプ。

永野さんは球団スタッフと関西空港から石垣島に向かうことになりました。

羽田空港でないのは、飛行機に乗っている時間を可能なかぎり減らすためです。

ところが1回目は搭乗ゲートの前で引き返してしまいました。
翌日は機内まで行けましたが、通路を歩いているうちに激しいどうきに見舞われました。

「やっぱり無理だ」


絶望感に襲われ、取った行動が『脱走』でした。

空港近くのホテルから抜け出し、各駅停車の電車と新幹線のこだまを乗り継いで埼玉県内の自宅に戻ってしまいました。

球団からの連絡が怖くて携帯電話の電源を切ったままで。
永野さん
飛行機に乗れなくてキャンプに行けないなら、もうプロでやっていくのは無理だと。自分から辞めると言おうという思いでした。
その後、球団と話し合いの場を持ち野球に集中するため、自家用車で移動することをお願いして認められました。
永野さん
好きにやれじゃないですけど、キャンプに行かなくても(2軍施設がある)浦和で練習をすれば量はちょっと落ちちゃうけど、自分なりに調整してやっていいからと言ってもらいました。本当に感謝しています。
こうして2年目はキャンプに参加せず、1人でコンディション調整。

チームのキャンプが終わった3月に「広場恐怖症」であることを公表しました。

またパフォーマンスに影響すると感じていた治療薬の服用をやめました。

その代わりに「自分は大丈夫だと」と暗示をかける催眠療法。

断食をして空腹に気持ちを向かわせる方法。

飛行機や電車に乗った時の様子を映し出すVR=バーチャル・リアリティー。

効果があると聞けば何でも試しましたが、症状が改善することはありませんでした。

ファンや同じ病気の人たちの後押しで

先行きに不安を感じるなか、病気を公表した永野さんのもとにはロッテや野球のファンだけではなく、同じ病気で悩む人からも励ましの手紙が全国から寄せられました。

中には症状を落ち着かせる成分が入っているとしてサバの缶詰が大量に送られてきたこともありました。

永野さんは今も大切に手紙を保管しています。
永野さん
自分がマウンドで投げると「勇気をもらいました。ありがとうございました」と言ってもらえたことがプロで頑張ろうという原動力になりました。いいピッチングをすることで、同じ病気の人がいい思いをしてもらえるなら、めちゃめちゃいいと思って頑張りました。
2年目のシーズンは自分で車を運転して練習と試合の会場に向かいました。

大阪や宮城で行われた試合には楽しいことだけを考えてハンドルを握っていたといいます。

そして3年目には自己最多の13試合でマウンドに上がりました。
永野さん
この病気は理解してもらうのが難しいと思っているので、自分だけ常に車で移動というのは、うらやましがられていたかもしれません。球団からは結果を出せば、周りは何も言わないと言われ、頑張ろうという気持ちでした。

無念の戦力外通告 トライアウト参加も

さらなる飛躍を誓った4年目の昨シーズン。

永野さんはキャンプ前の自主トレーニングで左肩を痛めてしまいました。

けがが思うように回復せず、1軍での登板はゼロ。

2軍でも結果を残せず、戦力外通告を受けました。

その後、肩の痛みがなくなったため、12球団合同のトライアウトに参加。

150キロに迫るストレートで好投しましたが、獲得に名乗りをあげる球団はありませんでした。

そうした中、声をかけてくれたのが社会人のクラブチーム全府中野球倶楽部のコーチで巨人のスカウトだった香坂英典さんでした。
香坂さん
リストアップした中で彼はナンバーワンでした。病気のことがあって不完全燃焼だったでしょうし、その悔しさをぶつけてもらいたいと。
永野さんは生活を安定させるため、仕事をしたうえで野球を続ける決断をしました。
永野さん
独立リーグの3チームから声がかかっていました。しかし独立リーグの厳しさも知っているし、そこまでプロ野球には未練はなかったので。

近くで支えた人の思いは

看護師として働く妻の紗央里さん(25)は永野さんの社会人野球時代に出会い、そばで支えてきました。

プロ入りが決まると公共交通機関での移動が必要となるため不安な思いを口にしていたことを覚えています。
妻の紗央里さん
家でも「乗れなかったらどうしよう」って言うことが増えました。乗り物のことばかり考えると好きな野球に集中できなくなってストレスになってしまうと思ったので、家ではリラックスして過ごしてもらおうと乗り物の話はあえて避けていました。
そしてプロ野球のあとの人生は永野さんに任せていたといいます。
妻の紗央里さん
野球を続けたいと言っていたので、自分がやりたいならやれるところまでやってほしいと思っていました。新しいチームで野球を続けられることになってよかったです。

会社員として新たな生活がスタート

トライアウトからおよそ1か月後のことし1月。

永野さんは貴金属を回収・精製する東京のリサイクル会社の営業社員になりました。

通勤には特別に自家用車の使用を認められ、栃木や茨城の営業先を社用車を運転して回ります。
入社して3か月あまり。今は先輩と2人一組で仕事の流れを覚えています。

知らない場所を走っていると広場恐怖症の症状が出そうになることがあるといいます。
永野さん
栃木と茨城をつなぐ新4号国道という道路があります。そこは信号が少なくて高速道路に近い感じなので、最初通ったときはちょっと嫌な感じが出たんです。そんな時にちょうどいいタイミングで先輩から何かあったらすぐ言えよと気を遣って声を掛けてもらい、だんだん和らぎました。
職場の先輩 鳥居大輔さん
病気のことは上司から事情を聞いていました。運転している時も細かく確認して大丈夫かどうか気にするようにしています。

久々の試合で見せた熱投

永野さんの野球との向き合い方は今、大きく変わっています。

クラブチームの練習と試合は週末だけ。

月曜日から金曜日までは仕事が終わった後に、1人でウエイトトレーニングやランニングなどしかできません。

そうした中で4月10日に全日本クラブ選手権の東京都予選の2回戦が行われ、永野さんが先発しました。
1回、フォアボールでランナーを出し、4番バッターのタイムリーヒットで先制点を与えてしまいます。

それでも力を入れたストレートは最速で147キロをマーク。

2回以降は立ち直り、危なげないピッチングを見せました。

香坂コーチが「永野の投球リズムがよかったから攻撃につながった」と言うように味方打線は中盤以降に得点をあげました。

永野さんは8回1失点で11個の三振を奪う好投。

そして高校の時以来、記憶にないという163球を要しましたが、勝ち投手になりました。
永野さん
チームにはこの日に合わせてと言われていたので、球数が多くなりましたが、勝ててよかったです。プロの時と比べて練習量がガクッと落ちているなかでは上出来だと思います。

新たなチームでも病気に負けない

インタビューの最後に永野さんは「最近、うれしいことがあった」と教えてくれました。

チームの本拠地・府中市民球場にファンレターを送ってくれた人がいたというのです。
《手紙の一部》
病気がありながらプロ入りして頑張っていた永野さんは本当にすごいです。マリーンズの選手ではなくなってしまいましたが、これからも応援させてください。
永野さん
ありがたいですね。本当に原動力になっています。あんまり1軍で投げられなかったですけど、こうして見てくれている人は見てくれているので、病気に負けずに頑張ろうと思いますね。一緒に頑張っていきたいですね。
プロの世界からは離れましたが、永野さんは好きな野球を続け、応援してくれる人に生きる力を与える存在でいたいと考えています。

永野さんのプロ野球での成績

2018年 4試合0勝0敗 防御率0.00
2019年 5試合0勝0敗3ホールド 防御率4.50
2020年 13試合0勝0敗 防御率5.40
2021年 登板なし
通算22試合 0勝1敗3ホールド 防御率4.30

広場恐怖症とは

広場恐怖症は英語でアゴラフォビア。「アゴラ」がギリシャ語で古代ギリシャの「広場」に由来することから日本語では「広場恐怖症」と訳されています。

心療内科を専門とする病院の理事長 貝谷久宣さんによりますと、広場恐怖症はすぐに逃げ出せない場所や助けが求められない場所を恐れ、その場面や状況を避けてしまう症状です。

怖いと感じる場面は人によって異なります。

電車や飛行機などの乗り物や人混み、反対に広い原っぱに1人だけの状態などでも症状が出ます。ストレスなどが原因と考えられていて、父親や母親が患者の家庭では子どもが発症することもあり、決して珍しい症状ではないということです。
また「広場恐怖症」と似た症状が出る「パニック症」は別の疾患と考えられています。永野さんのようにパニック症ではなく広場恐怖症と診断される人がいる一方で、パニック症を起こしてから広場恐怖症を発症する人もいます。

広場恐怖症の主な治療法は、薬物治療と認知行動療法で、2つを並行しながら行うこともあります。認知行動療法は、徐々に恐怖に慣れさせていくものです。永野さんが行ったVR=バーチャル・リアリティーを使用した方法も認知行動療法の1つです。