リュック1つで避難 ウクライナ学生 祖国をいつも胸に

リュック1つで避難 ウクライナ学生 祖国をいつも胸に
家族と別れ、1人で日本に避難してきたウクライナ人の21歳の女性。持ち出すことができたのはリュック1つ。中に詰めたのは、数着の服と化粧品、そして家族との記憶が詰まったぬいぐるみでした。
「いつか祖国に貢献したい」
彼女は、この春、日本の大学で新たな生活を始めました。(社会部記者 小泉知世)

大学での新生活

広さ8畳ほどのワンルーム。
部屋は、大学生の女性が住んでいると思えないほど、がらんとしていました。
ヴィラ・パルチクさん(21)。
3月、ウクライナから日本に避難してきました。

4月から福岡県にある日本経済大学で留学生として学び始めています。

首都キーウ(キエフ)の大学で日本語を専攻していただけあって「これからの生活が楽しみです」と流ちょうな日本語で語ってくれたヴィラさん。
しかし、大学が用意してくれた寮の1室を訪ねると、クローゼットには3、4枚の服があるだけ。
棚に置かれているのは、化粧品がいくつか。
ヴィラさんは、オレンジ色のリュックサックを見せてくれました。
ヴィラ・パルチクさん
「これに入るものだけ持ってきました。半分は食べ物で、あとは服とか薬、それに野外で食事するときのためのナイフやフォーク。生活に必要なものだけです。詰めているときは、これを使う日が来るとは思っていませんでした」
限られた荷物の中で一番大切なものはなにか、聞きました。

すると、「ちょっと恥ずかしいけど」といって、枕のそばからオオカミのぬいぐるみを見せてくれました。
小さい頃から大切にしていた家族との思い出の品でした。

始まりは爆撃の音

ヴィラさんの生活が一変したのは、2月24日の朝。
両親と暮らしていたキーウの自宅にいたときでした。

「ロシアの軍隊がウクライナに来ている」

母親に連絡が入りました。

事態の深刻さは、すぐに身近に感じることになります。
いつもどおり近くの森に犬の散歩に出かけた時、戦闘機が上空を通過したのです。
ヴィラさん
「すごい音で、怖すぎて動けなくなりました。自分は弱い存在で、死んでしまうんじゃないかと思いました」
急いで自宅に戻り、近所の人たちとマンションの地下にあるシェルターに避難したといいます。

その後も爆撃は続きました。

食事の時以外はシェルターで過ごし、寒さをしのぐため床の上ではなく机の上で眠る日々。
戦闘が激しくなる夜は、電気をつけないようにという国の呼びかけに従い、母親は小さなライトで手元を照らして夕飯を作ってくれました。

侵攻開始から4日目。
母親と一緒に向かったスーパーでも恐怖に直面しました。
食料を求める人の列に並ぶこと2時間。

やっと自分の番という瞬間、近くで爆撃がありました。
2人は何も買わずに逃げました。
ヴィラさん
「毎日爆撃が続くとだんだん、私たちもその音に慣れていくんです。一緒に避難した子どもたちもゲームを始めていました。シェルターの中は普通の生活に戻っているという感じです。でも外に出たらまた戦争。精神的に自分をコントロ-ルするのが難しかった」

国外へ避難

悪化する一方の戦況。
爆撃は、すぐ隣の村まで及びつつありました。
侵攻から1週間後、両親と相談し、ヴィラさんは避難することになりました。
持って行けるのは限られた荷物だけ。
このとき持ち出したのが、あのオレンジ色のリュックでした。

出発するキーウの駅は、避難を急ぐ大勢の人たちで、あふれかえっていました。
列車に乗れるかも分からない、どこに向かえば安全なのかも分からない、罵声や子どもの泣く声で、パニックが起きていました。

現地にとどまる父親と別れ、ヴィラさんと母親が駅から列車に乗った1時間後。
駅にロケットが着弾したようだという情報が駆け巡りました。
「同じように駅で列車を待っていたあの人たちはどうなったのか。すごく怖かった」
乗り換えの駅でも、国外を目指す人たちが列を作っていました。
ダウンコートと帽子で寒さをしのぎながら、列車を待ちました。

乗車すると、安心したのもあったのか、みな疲れ切った表情で眠っていました。

そして日本へ

ヴィラさんたちは、いったん姉の住むドイツに向かいました。

今後のことをどうするか考えていたところ、日本から支援の話が寄せられました。
キーウの大学と協定を結んでいた日本経済大学が留学生として受け入れてくれるというのです。

住居を始めとする生活面の支援も受けられ、大学で勉強することもできます。

数日後、再びリュックひとつを持って、1人で日本へ向かいました。

3月下旬、日本に到着した彼女は、少し安堵した表情を浮かべていました。
ヴィラさん
「寮の窓から桜がよく見えるんです。なんだか全然違う世界で、ああ、ここは平和なんだと思いました」
そして、恐怖と隣り合わせだった現地での様子を改めて振り返りました。
「多分、人生ではじめて本物の恐怖とかストレスとかショックというネガティブな気持ちを経験しました。私たちは学校で人間の命は一番大事だとずっと習ってきたのに、戦争が始まったら人間の命は全然大事ではない。簡単に奪われるものになった。この21世紀で戦争を問題の解決として使うのは、意味がないということをみんなが理解してほしい」

家族で食卓を囲む日を

4月、大学での生活が始まり、ようやく恐怖の日々から解放されました。

やはり心配なのは離ればなれになった家族のことです。
75歳の父親は街を自分たちで守るとキーウに残りました。
母親は父を心配して、いつでも戻れるよう隣国のポーランドに。
ドイツに住む姉が時々、母親の様子を見に行っています。

バラバラになった家族を繋ぐのは携帯での会話だけ。
安否を知るためにも、日本時間の夜になると、毎日欠かさず連絡を取り合います。
ヴィラさん
「お父さんと電話をすると『私は全然大丈夫。心配しないで』って言うけど、一番危険なところにひとりでいて、精神的にも難しいし、みんなに置いていかれたみたいな気持ちにもならないだろうか。本当に、お父さんがいまどんな気持ちになっているか私も想像できないです。家族みんなでまた一緒にご飯が食べられる時がくるかどうかわからない。『いつ来るか』じゃなくて、本当に『いつかできるかどうか』ということです」
家族と離れて暮らすヴィラさんが心の支えにしているのが、リュックに入れて持ってきたオオカミのぬいぐるみです。

小さいころ、父親からもらったプレゼントでした。
ヴィラさん
「オオカミ、とても好きです。毎日一緒に抱きしめて寝るんです。家族が近くにいるような気持ちになるんです。だからこれは一番大事」

ウクライナのために

大学の受け入れ制度は1年間の予定です。

しかし、1年後にウクライナに戻れるのか、将来は全く見通せません。

日本での留学経験もあり、大学卒業後は日本での就職も考えていたヴィラさん。
避難する中で、気持ちに変化が生まれつつあるといいます。

傷ついた祖国の力になりたいという思いです。
ヴィラさん
「戦争が始まるまではウクライナに住んでいても、私はウクライナ人だという事実だけが頭の中にありました。でも戦争が始まってから、ウクライナは私にとって大事な国で、実家であり、そこにいる人たちは私にとってすごく大事なひと。別の国に行っても簡単には自分の国とは離れられないと感じました」
「戦争のあとは、ウクライナの経済とかもいろいろ問題が出ると思うので、自分もウクライナの人たちを手伝いたい、助けたい。ここで経営や経済の勉強をして、私たちがここで得た知識を少しでもウクライナのみんなのために生かしたい」

祖国はいつも心に

4月12日、大学で行われた入学式。

ヴィラさんと同じようにウクライナから避難してきた64人が出席しました。
終盤、学生たちを歓迎しようと、吹奏楽部によるウクライナ国歌の演奏が行われました。

ウクライナの学生たちは、全員、胸に手を置いて聞いていました。
ヴィラさん
「国歌が聞こえた瞬間、鳥肌がたって、隣に立っていたウクライナの友達もちょっと涙が出ていた。すごく心が痛くなりました」
こう語ったヴィラさん。
この日の様子を両親に報告したいと嬉しそうにしていました。

ある日、突然、日常が壊され、家族と離れて遠い国にやってきたウクライナの若者たち。

日本で新たな荷物と幸せな思い出を増やして、いつかウクライナでまた暮らせるようになってほしい。

そう願わずにはいられません。
社会部 記者
小泉知世
平成23年入局
青森局、仙台局を経て政治部では外務省などを担当
その後、社会部でウクライナからの避難者を取材