77歳の名将が甲子園で得たものは

77歳の名将が甲子園で得たものは
高校球児、指導者なら誰もが憧れる甲子園。その甲子園で昭和、平成、令和の3つの元号で初めて勝利した監督となった岐阜・大垣日大高校の阪口慶三。

「出場は100%ない」と考えていたこの春のセンバツ大会で77歳の名将が得たものは?

《岐阜局 瀬戸光 ネットワーク報道部 松本裕樹》

センバツからの再スタート

「そんな打撃していたらセンバツと同じように負けるぞ」

阪口は夏に向けて動き出した選手たちに厳しいことばをかけていた。

「選ばれたからにはふさわしい野球を見せる」と臨んだこの春のセンバツは2回戦で敗退。

甲子園から戻ってきた阪口はより強く全国大会を意識するようになっていた。

「また、あの舞台に行けるのか」

1月28日。

学校から8キロ離れた野球部のグラウンドで、阪口はいつものように練習を見守っていた。

午後3時すぎ、自身の携帯電話に野球部長から「センバツ出場が決まりました」と1報が入った。
阪口監督
「聞いた時はうそと思いました。出場は100%ないものと思っていたので、冗談かという気持ちがありました。驚きと喜びで思わず涙してしまいました」
阪口は厳しい指導もあって愛知の高校で全国制覇を達成。

かつて鬼の阪口と呼ばれた。

鬼だった指揮官が涙するほどの意外な選出だったのだ。

大垣日大は去年秋の東海大会でベスト4だったが、『個人個人の力量が勝っている』などとして、この地区の2枠に入りセンバツ出場を手にした。

また、あの舞台に行けるのか

徐々にうれしさが込み上げてきたものの、気持ちの整理に少し時間がかかり、すぐに選手に報告できなかった。

それでも翌日、グラウンドに入る時には「センバツでどう勝つかということしか考えていなかった」と勝負師の姿に戻り、春の甲子園に向けて選手たちと向き合う日々が始まった。

勝つためには自分の意識改革から

阪口にとって春夏合わせて33回目となる甲子園。

チームにまだ全国大会で勝つ力がないと考え、これまでの自分のチーム作りの方針を見直した。

今はけがを防ぐためにも複数のピッチャーを育て、継投で勝ち進むことを目指すチームが多くなった。

阪口もその流れには賛成だが、エースピッチャーをしっかり据え、守りからリズムを作り試合を進めたいと考えている。

冬の練習では秋にエースナンバーを背負った五島幹士を含むタイプが異なる4人のピッチャーを競わせた。

投手力全体の底上げを考えたのだ。
阪口監督
「エースを軸に多い時でも投手は3人というのがこれまでの考えでした。この春は相手がやりにくくするため目先を変えようと考えていました」

センバツで先発させたのは…

阪口は3月に入って行った練習試合でも先発させるピッチャーを固定しなかった。

そして迎えたセンバツ初戦の只見高校戦には背番号1の五島を先発で起用した。
五島投手
「試合の3日前、甲子園に来て最初の練習で先発を言い渡されました。正直、自分が先発だと思っていなかったので驚きました」
阪口は長いキャリアの中で、甲子園の初戦はメンタルの強いピッチャーを先発で起用してきた。

その方針を踏まえ五島を初戦で先発させたという。
阪口監督
「(センバツまでの練習試合などで)何よりマウンドで落ち着いていました。冬を越えストレートの球威も上がっていましたし、そこにかけましたね」
五島はストレートの球速が130キロ台前半だが、きっちりコースに投げ込んで相手打線を寄せつけなかった。それでも継投が頭によぎっていた。

ところが試合終盤、阪口監督がかけたことばは…

「最後まで行くぞ」
思いに応えた五島はヒット2本に抑えて完投勝利。

公式戦で自己最多となる18個の三振を奪った。
完投させた意図を阪口が説明してくれた。
阪口監督
「エースが奮起するとチームに勢いがつきます。まして全国大会の初戦はチームに勢いをつけるのが大事だと思っています。五島に自信をつけさせたかった部分もありました。ピッチングを見ていて最後まで投げさせる決断をしました」
続く星稜高校との2回戦も五島を先発させたが、持ち味のコントロールが乱れてホームランを打たれるなど3回3失点。

リリーフしたピッチャーも失点し大垣日大は敗れた。
五島投手
「今までならホームランにされないと思っていたボールが打たれました。今のコントロールでは全国に通用しないことを感じることができました。レベルアップして夏に帰ってきたいです」
阪口監督
「投手陣が今の力では通用しないことを肌で感じたと思うので、考えが変わってくれたらうれしいですけどね。今のままでは県大会は勝てたとしても夏も全国では勝てないと思います」

センバツ出場で見えた選手の成長

今回、甲子園という大舞台を経験できたことで、阪口は選手たちが精神的に強くなったと感じている。

その代表がキャプテンで4番、キャッチャーの西脇昂暉だ。
阪口は西脇について「55年間、監督をやってきた中で、キャプテンとして上位8人に入る」と話し、去年秋の時点からとりわけチームを束ねる力に絶大な信頼を寄せていた。

西脇は秋の県大会で足を痛め、回復に時間がかかっていた。

冬はランニングすらできず、グラウンドの隅でボール拾いをする日々が続いた。
西脇主将
「練習したくてもけがした足を動かすことが怖くなっていました。監督には夏までにじっくり直せばいいと言われましたが、チームに何も貢献できず申し訳ない気持ちでいました」
その西脇の気持ちを前向きにさせたのがセンバツ出場の決定。

けがの再発を必要以上に意識しないと心に決め、翌日から全体ランニングで先頭を走った。

さまざまな意見にも心を乱さず

西脇はグラウンドの外でもキャプテンとしての統率力を発揮した。

大垣日大のセンバツ出場の選考を巡ってさまざまな意見が出る中、センバツ決定直後の1月末、練習が終わった後に選手だけのミーティングを開き、チームメートにこう伝えた。
「苦しいことだったり、これから自分たちの思うようにいかないことがあったりしてもネガティブに捉えず、ポジティブにやろう」
甲子園での戦いだけに集中することを呼びかけた。
今回の取材で西脇はチームを後押しするサプライズがあったことを明かしてくれた。

西脇の中学時代の担任教諭が中心となって作ったおよそ200人の寄せ書きの存在だ。
西脇主将
「自分たちが思っている以上に応援してくれている人がいるんだと感じることができてすごく励みになりました」

けがの再発乗り越えつかんだ甲子園

しかし大会直前、西脇に試練が起きた。

甲子園に向かう1週間前、けがが再発したのだ。

必死にコンディションを整える姿をまじかで見ていた阪口。

岐阜を離れる直前に試合で起用する考えを伝えた。
阪口監督
「野球に対する真摯(しんし)な態度と人一倍努力する姿を見て、使ってやりたいと思わせる何かがありました」
西脇は1回戦の3日前にようやくバットが振れるまでに回復した。

試合では痛み止めを服用して最後までプレーし、タイムリーヒットも打ったが、終盤は走るのもきつい状態だった。
西脇主将
「けがの恐怖はありましたが、甲子園でこれまでの人生でいちばん楽しい時を過ごせました」
阪口は試合中、あえて西脇に体の状態を確認しなかった。
阪口監督
「もし痛いかと聞けば、彼は『大丈夫です』と答えたと思います。でも痛みのことを聞いた瞬間に、張り詰めたものが切れてしまうおそれもあると思っていました。けがをしたことで周りに対する気遣いやプレーの視野も広がったし、彼は選手として主将として一回り大きく成長しました」

センバツを経てチームは一回り成長

センバツ後、最初の公式戦となった4月16日の春の岐阜県大会。

阪口は甲子園を経て選手が急成長したことを実感した。

甲子園出場経験のある岐阜城北高校との試合。

中盤に同点とされた直後のピンチに五島がマウンドへ。

ここで五島が好投して得点を与えず、チームも終盤に勝ち越し点をあげて快勝。

夏の甲子園につながる岐阜大会のシード権を獲得した。
阪口監督
「五島は甲子園を経験してマウンド度胸がさらについたようです。甲子園というところは本当に飛躍的に選手を成長させる場所だと改めて感じています」

衰えない野球への情熱

今回の甲子園で得たものは何だったのか?最後に阪口に聞いた。

少し考えたあと、こう答えた。
阪口監督
「明確な目標が定まったあと、子どもたちの練習に対する姿勢が明らかに変わりました。それが突然の決定だとしても、子どもたちは甲子園で勝利するため、必死に白球を追い続けました。この2か月間の選手の成長は指導者としての喜びです。また、子どもたちから目標を持つことの大切さを改めて学ぶことができました」
そして、阪口は節目の甲子園40勝まであと1勝として夏を迎えることになる。

5月で78歳となる名将、野球への情熱が衰えることはない。
阪口監督
「私のモットーでね『グラウンドは戦場だ』というのがあります。だから毎日が必死。このグラウンドが甲子園につながるんだと。野球は授業なんです、私にとって。まばたきすら忘れて白球を追う環境下で野球をする。ずっと勉強、負けたら負けたで勉強です」
岐阜放送局アナウンサー
瀬戸光
2017年入局
高校時代は白球を追った球児、当時から声を出すことが得意で、ベンチのムードメーカーでした。今は岐阜県の草野球チームで白球を追いかけています。
ネットワーク報道部記者
松本裕樹 
2005年入局
全国各地でスポーツの取材を続けてきました。
高校野球を含めスポーツが持つ力を信じています。