沖縄復帰50年 アメリカ軍基地と奄美出身者 語られぬ歴史

沖縄復帰50年 アメリカ軍基地と奄美出身者 語られぬ歴史
沖縄で本土復帰から50年たっても続く、アメリカ軍基地の負担。
実はこの基地建設に、かつては同じ琉球王国として共通のルーツを持つ奄美群島の出身者が深く関わっていました。そのことで、いまも複雑な思いを抱き続けている、ある男性を取材しました。
(鹿児島局記者 庭本小季)

2つのルーツ 複雑な思い

鹿児島県の最南端にある奄美群島の与論島。

海の向こうには沖縄島の島影をのぞむことができます。
沖縄県浦添市の青山惠昭さん(78)は、父親が与論島、母親が沖縄県国頭村の出身。

20キロほどしか離れていない2つの島の双方にルーツを持っています。

沖縄の本土復帰から50年となるいま、青山さんはこの2つのルーツがあることで複雑な思いを抱き続けてきたと振り返ります。
青山さん
「私は半分奄美ですから。ハーフですから奄美のね。
そのことで、いろいろな問題に苦しんだ時期もありましたけれど、それでもやっぱりウチナーンチュとして、日本人として、誇りみたいなものがありますから。それでなんとか生きながらえてきました」

「228事件」で亡くした父親

青山さんは4歳の時、父親の行方が分からなくなりました。
後に、台湾で「228事件」に巻きこまれていたことが分かります。

「228事件」とは、太平洋戦争後の昭和22年に、中国大陸から台湾に渡った国民党政権が住民の抗議行動を武力で弾圧したもので、1万8000人以上が殺害されたと推定されています。

台湾には当時、日本人が仕事などのため3300人以上滞在していたと考えられていて、青山さんの父親もその1人でした。

ただ当時は、なぜ父親が行方不明になったかさえ分かりませんでした。

生活が立ち行かなくなった青山さんたちは、鹿児島から母親の実家がある沖縄へ移り住むことになりました。

母親や親せきは在沖米軍基地へ

青山さんの複雑な思いは、この沖縄移住後の子ども時代の記憶に起因します。

母親の仕事はアメリカ軍基地でのメイド。

そして奄美の親せきの中には、基地建設の仕事に就いた人も多くいたのです。

青山さんの今の浦添市の自宅近くにはアメリカ軍の牧港補給地区が広がっています。

青山さんは、この基地も与論島から渡ってきた人たちが建設に関わったと話します。
なぜ基地建設に奄美群島出身者が関わっていたのか。

沖縄戦では、日米両軍による激しい地上戦に巻き込まれ、沖縄県民の4人に1人となる12万人あまりが犠牲になりました。
そして昭和20年代の終わりごろ、アメリカ軍は基地建設を進めるため「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる手法で、強制的に住民の土地を接収。

住民からは激しい反対運動が起きていました。
アメリカ軍が基地建設のための労働力を求める一方、奄美では産業基盤の弱さから多くの人が仕事を探していました。

そこで、出稼ぎのために沖縄へ渡る人たちが相次いだのです。

「想像以上に多かった」奄美出身者

今回の取材で、当時、建設作業にあたった労働者のうち4割を、奄美出身者が占めていた可能性があることが分かりました。

琉球大学島嶼地域科学研究所の土井智義研究員の調査によると、沖縄を統治していたアメリカの行政機関・USCARの資料に記録されていた、沖縄全体での建設業の労働者数は昭和28年の時点で1万2436人。

一方、基地建設のため雇用された奄美出身者の数はおよそ5000人と記されていたのです。

これまで、基地建設に奄美からの出稼ぎ労働者が関わっていたことは知られていたものの、具体的な数字は分かっていませんでした。

土井研究員は、この4割という数字について「想像以上に多い」と指摘します。

そして青山さんは、奄美の人たちの中には、生活のためとはいえ、かつて基地建設に関わったことを語ろうとしない人が多いと話します。
青山さん
「アメリカ軍の飛行場や基地の建設は、本土のさまざまな大きな企業が、アメリカから請けて取った仕事なんですよね。
ここに奄美出身者が関わっていたということも含めて、沖縄ではタブーのような扱いですから、こういう事実を伝えるのは難しいんです。大人さえ分からない事実、忘れ去られた事実ですから。子や孫にどう伝えていくか工夫しないといけないですね」

続く基地負担 悩みはより深く

沖縄の本土復帰から50年。

青山さんの悩みはより深くなっているといいます。

本土並みに基地のない状態での復帰を目指した50年前。

27年前には、海兵隊の兵士らによる小学生の少女に対する暴行事件が発生。
18年前には、沖縄国際大学に普天間基地を飛び立ったヘリコプターが墜落しました。
そして、いまは名護市辺野古沖で普天間基地の移設工事が行われています。
沖縄でアメリカ軍基地の過重な負担が依然として続く現実と、語られてこなかった奄美出身者の歴史。

青山さんは、基地があることで生活できたという自らの過去と、沖縄にこれ以上基地は必要ないという思いを重ね合わせながら、今の沖縄を見つめています。
青山さん
「辺野古で働いている人たちは悩みながらやっているのではないでしょうか。やりたくないけれど、そうしないと飯は食えませんからね。
基地のない沖縄、核も基地もない平和な沖縄というのを目指して沖縄県民が島ぐるみの戦いをやってきて、結局基地を置いたまま復帰したんですよね。この50年間は何だったのかと思いますね」
鹿児島放送局記者
庭本 小季
2020年入局
事件事故や災害を担当
特攻や米軍基地問題、調査報道など幅広い分野を取材している