“新たなピーターラビットを” 芥川賞作家 川上未映子の挑戦

“新たなピーターラビットを” 芥川賞作家 川上未映子の挑戦
長い長い時間を経ても人気が衰えないものが、ときどきありますよね。
その1つが「ピーターラビット」。
実はイギリスで絵本が出版されて、ことしで120年なんです。

その節目に刊行されることになったのが新訳版。
翻訳に挑むのは芥川賞作家で、その後も国内外の文壇で活躍し続ける川上未映子さんです。

「全然専門外だし、大変だろうなと。でもやりたいと思っちゃったんですよね」


そんなふうに話す川上さんに、ピーターの魅力をひもといてもらいました。
(科学文化部 記者 富田良)

川上さん初めての挑戦

川上未映子さん
「おうちに絵本があってもなくても、ピーターラビットっていうキャラクターのことは知っている人が多いと思うんですよね。私もその1人なんです。かわいいんだけれども、ちゃんとリアリティーがある。ただかわいいだけの動物の世界を描いた作品じゃないなっていう印象をずっと持っていました」
それほど熱心な読者ではなかったという川上さん。
今回、出版社から翻訳の依頼を受けたとき、改めて23冊のシリーズを原文で読み直したそうです。
川上さん
「依頼があったときはびっくりしました。ただ、作品の中でたくさん出てくる歌の響きが美しくて魅力的で。そしてみんなイタズラをする。いろんなキャラクターが出てくるんですよね。みんなユニーク極まりなくて、ちょっとひと言では説明できないくらいの世界観なんです」

ピーターラビットの生みの親

ピーターラビットの作者は、ビアトリクス・ポター。
裕福で厳格な家庭に生まれたポターは、学校には行かせてもらえずに家庭教師と自宅で学習し、さらにほかの子どもと遊ぶことさえも許されませんでした。
孤独な日々のなかで支えになったのが、身の回りにいた動物をスケッチすることだったといいます。
川上さん
「今よりも女性に対する抑圧が強くて、学校に行って友達と遊ぶことさえ許されない環境で育ったそうです。そばにいる動物たちとポターの関係は、きっと単にかわいがる対象ではなかった。動物と人間は、それぞれが食べて生きていかなければならない。そうしたエッセンスをしっかりとつかんでいると思うんです」

「ピーターラビットのおはなし」

作品には社会の現実がシニカルに描かれていると川上さんは指摘。
そのことはシリーズの第1巻「ピーターラビットのおはなし」を読んでも分かります。

ピーターのお父さんは、近くに住む農家・マグレガーさんの妻に「にくのパイ」にされてしまっています。
お母さんは気をつけるように言うのですが、ピーターは言いつけを守らずにマグレガーさんの畑に忍び込んで野菜を盗み食い。
案の定、マグレガーさんに見つかったピーターは、追いかけられて命からがら逃げ回り、お気に入りの青い上着や靴をなくしてしまうのです。
そこには昔も今も変わらない動物と人間のあいだの緊張関係が描かれています。

川上さんはこんなことも。
川上さん
「例えば、シリーズに『赤りすナトキンのおはなし』という1冊があります。湖の真ん中の島に住む地主のフクロウじい様と、島の木の実をもらうリスたちの様子が描かれているんですが、そのやり取り1つをとっても今日性・普遍性があると思うんです。そこには“地主”対“労働階級”のせめぎ合いがあるんです」

ピーター誕生秘話

ピーターラビット誕生の背景には、次のようなエピソードがあります。

ポターが27歳のとき、かつての家庭教師の息子が病気になりました。
その子を励まそうと、ポターは飼っていたウサギのピーターを主人公にした絵手紙を送りました。
イタズラっ子でドジなピーターのお話に、男の子はとても喜んだといいます。
それがきっかけとなって、「ピーターラビットのおはなし」を出版することになったのです。
それが徐々に評判を呼び、世界110か国で翻訳。
発行部数は累計2億5000万部を超える大ヒットとなりました。

日本では、「熊のプーさん」や「トムソーヤーの冒険」などを手がけた児童文学作家の石井桃子さんによる翻訳が有名で、高く評価されてきました。

川上さんにとって新訳は、石井さんという大きな壁への挑戦にもなります。
どのように自分の個性を出そうとしているのでしょうか。

英語の魅力を日本語で表現するには

大切にしたのは、「ことばの持つリズム」です。
ポターが記した英語の「韻」を自分の翻訳に取り入れようと挑戦しています。

先ほども登場した『赤りすナトキンのおはなし』。
ナトキンがフクロウじい様に仕掛けるなぞなぞが、原文では次のように記されています。
“Riddle me,riddle me,rot-tot-tote!
A little wee man,in a red red coat!
A staff in his hand,and a stone in his throat;
If you’ll tell me this riddle,I’ll give you a groat.”
ポターは韻をふんだんに盛り込み、読み上げると小気味いいリズムを感じることができます。

この原文を、川上さんはどんなふうに翻訳したのでしょうか。
ご覧ください。
「なぞなぞ、なぞなぞ、とけるかな!
 赤より真っ赤なコートをきてる、小さなおとこがおりました!
 つえを手にして、のどには小石、
 もしなぞなぞがとけたなら あなたに銀貨、さしあげます!」
日本語で韻を踏んでリズム感を出しました。
さらに、日本人の好む「五七調」も取り入れています。
川上さん
「登場人物たちが、思ってることを歌にして、それに歌で返すみたいな駆け引きがあって、それが作品全体につながってるんですよね。そのつながりや踏んでいる韻を日本語で拾うのがすごく難しくて、でもラッパーの気持ちで、できるかぎり拾うようにしました。韻の部分をどう日本語に置き換えれば楽しさが出るかを考え、本当にそこで歌でコミュニケーション取ってる感じが伝わるように表現したつもりです。その部分を楽しんでもらえたらいいな」

「翻訳」の役割とは

試行錯誤の毎日だという川上さん。
「翻訳」という仕事に取り組む意味を、次のように説明してくれました。
川上さん
「ポターの書いた原文は、その時点から変わることはありません。でも、翻訳はその時代を生きている人のことばになります。今回も、私のことばで文章を選んでいくことになるので、そういう意味では、ことばっていうのは生きてるんだと思います。翻訳は、原文とはどうしても同じになりません。私自身、日本語に翻訳された文学作品をたくさん読んできたけれど、“本当にいいものはいい”っていう実感があるんですよね。その感じをしっかり信じて、これしかないっていう私なりのことばに置き換えていく作業をずっとずっと繰り返しています」

「ぜいたくな瞬間を味わって」

小学生の息子がいる川上さん。
子どもと絵本との出会いは、そのときでしか経験できないかけがえのない時間だと考えています。
川上未映子さん
「絵本を読み聞かせてもらっているときって、いろんなことをまだことばにできないし、感情もはっきりしてないんだけれど、だからこそ、その感覚が残っていると思うんです。それから何年も時間がたってその絵本を見たときに、一瞬、まだ自分が何も知らなかった子ども時代に戻ることができます。本当にぜいたくな瞬間で、その感覚をたくさん味わってもらえたら、すてきなことだと思いますね。そして大事な1冊に出会えたら、物語と絵がお守りのように力になってくれるし、励みになってくれると思います。ぜひ、そういう1冊に出会ってほしいなと思います」
人生でお守りとなるような1冊。
川上さんは、そんな1冊を届けようと、ピーターの物語の翻訳を続けています。
(インタビューの模様は4月27日(水)の「おはよう日本」で放送します)
科学文化部 記者
富田良
平成25年入局
金沢局、長崎局を経て現所属
文芸や学術などを担当