アジア最後の成長市場が突然リスクに ~翻弄される日本企業~

アジア最後の成長市場が突然リスクに ~翻弄される日本企業~
東南アジアの新興市場として期待され、企業がこぞって進出した国「ミャンマー」。ところが、成長を続けてきた経済は、去年のクーデター後、大幅なマイナス成長に陥りました。軍が実権を握り、ビジネスの公正さを失った今、ミャンマーに投資をした企業は、一転して経営上のリスクに直面しています。
(経済部記者 保井美聡 アジア総局記者 影圭太)

苦渋の撤退

「市民に銃を向けている。そのような軍と関わる人たちと一緒に仕事はできない」
記者の取材にこう打ち明けた、キリンホールディングスの磯崎功典社長。

2月14日、ミャンマー軍と関係する現地企業との合弁を解消し、ミャンマー市場から撤退すると会見で発表しました。
ミャンマー国内でおよそ8割のシェアを持つ1大ビール会社を手放すという、苦渋の決断でした。

日本企業も進出相次いだ“フロンティア”

ミャンマーはクーデター前、「アジア最後のフロンティア」とも呼ばれていました。

2011年以降、民主化の進展に伴い経済改革やインフラの整備を進めてきたことで外国からの投資が増加。

人口の増加も見込まれるとして、日本からは400社以上が進出しました。
最大都市ヤンゴン近郊にある「ティラワ経済特区」は、日本の大手商社が参画して開発した大型の工業団地で、自動車メーカーのトヨタ自動車やスズキなど多くの日系企業が工場を構えています。

2010年代半ばには小売業や金融業なども次々と進出を発表し、ミャンマーブームとも言える状況になっていました。

日本をはじめ外国企業にとってミャンマーは、順調な経済成長が続く有望な新興市場になるはずだと広く信じられていたのです。

時計の針が逆戻り

キリンもまた、ブームのさなかの2015年に、軍関係者の年金の運用などを行う複合企業「ミャンマー・エコノミック・ホールディングス」と合弁でビール会社の運営に乗り出しました。
キリン 磯崎社長
「世界中のトップのビールメーカーから『良い会社を手に入れたね』『うちに譲ってくれないか』とまで言われていた。何度も現地に赴き、ありとあらゆるデューデリジェンス(資産査定)を行い、もうこれで大丈夫だと思えるところまでやり尽くした上での参入だった」
ところが、順調だった事業は突如、暗転。
きっかけは、2021年2月1日のミャンマー軍によるクーデターです。

軍は、国家顧問として民主的な政権を率いていたアウン・サン・スー・チー氏を拘束し、クーデターに反対する市民の抗議活動を弾圧しました。

ビール事業であげた利益が仮に合弁相手を通じて軍に流れていったとなれば、結果的に軍を支援しているとも指摘されかねません。

このためキリンは、軍の関係先とこれ以上関係を維持するわけにはいかないとして、4日後には提携を解消する方針を決定。

ただ当初は、市場は引き続き成長が見込めるとして、事業自体は継続したいと考えました。
しかし、合弁相手との肝心の交渉が難航します。

交渉が長引く中で、海外の投資家や人権団体からは、軍の関係先との提携関係に厳しい目が向けられました。

「会社を手放すことはないという先方の強い意思を改めて確認した」(磯崎社長)

企業価値の低下というリスクに直面した会社にとって、事態を打開できる唯一の選択肢が「ミャンマー市場からの撤退」だったのです。
合弁設立時からミャンマービジネスに関わったという、海外事業の責任者・西村慶介副社長は「まさか時計の針が逆に戻るようなことがあるとは全く考えていなかった」と当時を振り返ります。

急ブレーキ それでも続いた期待感

クーデターのあと、ミャンマー経済は一変しました。

政情不安を背景に通貨「チャット」が主要通貨に対して売られ、ガソリンなど輸入品の価格が高騰。市民の暮らしは苦しさを増しています。
さらに、成長のエンジン役だった外国からの投資も冷え込んでいます。

世界銀行はミャンマーの経済成長率が、去年9月末までの1年間はマイナス18%まで落ち込んだ上、ことし9月末までの1年間もプラス1%にとどまると予想しています。

ミャンマー経済は、長期停滞のおそれが出ているのです。

それでも日本企業の間には、ミャンマーの将来にある種の期待をかけ続けていた傾向が見て取れます。
JETRO=日本貿易振興機構が去年8月から9月にかけて、進出する日系企業に「今後1~2年のミャンマーでの事業展開」について尋ねたところ、
「第三国への移転・撤退」と回答したのは6%、
「縮小」は27%だった一方で、
「現状維持」が52%、
「拡大」と回答した企業も13%ありました。
(回答数178)

キリンのように「撤退」を決断した例はまだ少数で、大手企業のうちトヨタは新工場の稼働開始を「延期」しているほか、建設会社のフジタ、東京建物などがヤンゴンに建設中の複合施設について工事を「中断」している状況です。
中には、自動車メーカーのスズキのように、現地から販売再開を期待する声が寄せられたとして、一時、停止していた工場での車の生産を少量ながら「再開」する動きも出ています。

ついに撤退ラッシュか?

それでも、軍が実権を握り続ける状況が1年以上続いていることで、今後は、撤退を考える企業が増えていくのではないかと分析する専門家もいます。
上智大学 根本敬教授
「企業の中には、クーデター後もこれまでの経済政策が継続されれば、再び以前のようなビジネス環境が戻ってくるのではないかという期待もあったと思う。しかし実際には人々の抵抗が長期化し悪影響が社会全般に及んでいて、これまでのようには事業を継続できていない。事業の縮小や撤退を考えざるをえない状況になっている」
事実、外国企業に目を向けると、フランスのエネルギー大手トタルは、ことし1月、ミャンマー軍の資金源になっていると指摘されていた現地での天然ガス事業から撤退する方針を発表しました。
ノルウェーの通信大手テレノールも現地での携帯通信事業についてレバノンの投資ファンドに売却し、撤退する方針を発表しています。

試練はこれから

しかし、いざ撤退を決断しても、一筋縄ではいかないのが今のミャンマーです。

テレノールの事業売却は発表から8か月たった3月になってようやく、現地当局が撤退を認可しました。

しかも認可にあたり「携帯通信事業は、レバノンの投資会社が買収したあと、軍に近いとされる現地企業を経営に入れること」という条件が加えられました。

軍の意向に沿う企業が通信会社の経営に入ることで、情報が市民の監視に使われるのではないかという懸念が高まっています。

一方のキリンは、6月までにミャンマー事業に関する株式をすべて売却し撤退したいとしていますが、今のミャンマーで軍の息のかかっていない企業に予定どおり売却が進むのか、不透明さは残ります。
国際社会の批判をよそに実権を握り続けるミャンマー軍と、それに翻弄される企業…新興市場のビジネス環境が、想定外の事態で一変してしまったという点では、ウクライナに軍事侵攻し、欧米や日本から経済制裁を受けるロシアへの進出企業もまた、同じ悩みを抱えているといえます。

民主主義のあり方が大きく揺れる今の国際社会。

コロナ禍での世界的な物流網の混乱などに加え、各国の政治情勢の急速な変化も、企業の海外戦略にとって無視できないリスクとなっているようです。
経済部 記者
保井美聡
2014年入局 仙台局、長崎局を経て、流通業界などを担当
アジア総局 記者
影圭太
2005年入局 経済部で金融や財政の取材を担当しおととし夏からアジア総局