72歳で大学を卒業 亡き娘とともに歩んだ11年

72歳で大学を卒業 亡き娘とともに歩んだ11年
ことしも各地で行われた卒業式。

東京の私立大学では多くの晴れ着姿の若者たちとともに、72歳で門出を迎えた人がいました。

諦めずに学び続ける原動力となったのは、同じ大学に在学中、23歳で亡くなった娘への思いでした。
(仙台放送局記者 杉本織江)

72歳で手にした卒業証書

「立派なものをいただきましたよ。やりました!」

そう声をかけてくれたのは、宮城県石巻市から出席した加藤幸子さん(72)です。

卒業証書に当たる学位記を、うれしそうに広げて見せてくれました。

3月18日に東京で行われた大学の卒業式に夫と息子の3人で出席し、喜びを分かち合っていました。
もう1人、心の中で連れてきた人がいました。

幸子さんは、かばんの中から大切な写真を取り出しました。

映っていたのは、娘の綾子さんです。
「式の最中も『立派な式だね、よかったね』と綾子に話しかけていたんです」

23歳 志半ばで旅立った娘

綾子さんは子どもの頃から演劇に打ち込み、人を楽しませるのが好きでした。

困っている人を見ると放っておけない優しい性格だったといいます。

大学の通信課程で言語教育を学び、卒業後は俳優や声優になりたいと話していました。

そんな綾子さんを、母親の幸子さんはいつもそばで応援していました。
2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。

大学4年生で自宅にいた綾子さんは、祖母とともに避難所に向かう途中、津波に襲われました。

目撃した人の話では、水位が上がっても最後まで祖母をかばおうとしていたそうです。

12日後、綾子さんの遺体が見つかりました。

当時23歳でした。

娘ができなかったことを私がー

娘を失った悲しみのなか、幸子さんは決意しました。
「綾子はせっかく学びの心を出して取り組んでいたのに、ずっと大学生のままになった。それなら、私が後継者になると決めました。綾子とおばあちゃんの死をそのまま終わらせたくない。何かつくり出さなければという思いでした」
震災直後、幸子さんは娘が通っていた大学の通信課程に願書を提出しました。

書類選考を経て61歳で入学を果たしました。

娘がかなえられなかった卒業を代わりにやり遂げたいと思ったといいます。
選んだのは法学部です。

震災の影響で多くの人が生活の再建に悩んでいたので、法律の知識を身につければ人助けにつながると思いました。

自宅は震災で1階の天井近くまで浸水しましたが、幸子さんは修理して住み続けました。

綾子さんとの思い出が詰まった家を離れたくありませんでした。

娘も好きだった自宅で、幸子さんが勉強に励む日々が始まりました。

想像以上の困難

学びの道は予想以上に困難でした。

老眼で法律書の細かい字が見えにくいため、幸子さんはルーペをかざしながら繰り返し声に出して読みました。
本棚にびっしりと並んだ教科書や法律書には、何枚も付箋が貼られました。

さらに苦戦したのがパソコンの操作です。

コロナ禍でオンラインの授業や試験が増えたため、パソコンを使うことが多くなりました。

キーボードの扱いに慣れていない加藤さんにとって思わぬハードルとなりました。

『お母さんがんばって』と聞こえてくるようで

それでも幸子さんは学び続けました。

最短4年で卒業できるところ、10年以上かけてこつこつと必要な単位を取っていきました。

がんばり続けられたのは、いつもそばに綾子さんの存在を感じていたからだといいます。
「『お母さんがんばって』と聞こえてくるようで、諦めようとは思いませんでした。綾子ができなかったことをお母さんがやると約束しましたから」
ことし1月、幸子さんは卒業に必要な最後の2つの科目の試験を受けました。

朝、手書きのメモを片手に仙台市の会場に現れ、「きのうもきょうも寝不足です」と笑顔で言いながら会場に入って行きました。

卒業 真っ先に報告したい人は

桃の節句が近づいた2月、大学から通知が届きました。

「審査の結果、2022年3月卒業と決定しました」

通知書を読んだ幸子さんは、毎年飾っているひな人形の前に向かいました。

津波で流され、綾子さんを思って買い直したものです。

ひな人形に向かって、幸子さんは涙を浮かべながら優しく語りかけました。
「やっと卒業できます。綾ちゃんも、おめでとうございます。お母さん、袴をはくのはちょっと大変だから、新しいスーツをつくって行こうと思っています。綾子がお世話になった先生たちにも、ちゃんとお礼を言ってくるから、安心してちょうだい」

娘に支えられた11年間

「卒業が決まったら、したいことがある」と幸子さんは以前から話していました。

それは、綾子さんが入学式の日に写真を撮った銅像の前で、家族で記念写真を撮ることです。

卒業式の日にその夢が叶いました。

銅像の前に立つ幸子さんの両手には、少し緊張した表情で同じ場所に立った綾子さんの写真がしっかりと握られていました。
「ここに帰ってくることができてよかった。綾子に会えるような気がします」
娘ができなかったことをやり遂げようと、がんばり続けてきた幸子さん。

娘に支えられ、ともに歩んできた11年間だったといいます。

今後は大学で学んだ経験を生かして、生活に困る地域の人たちや、家庭環境が難しい子どもたちの役に立ちたいと考えています。
「綾子との約束を果たそうって必死になってきたので、今は心にぽっかりと穴が空いたような気分です。私をここまでがんばらせてくれてありがたいな。意味のあった11年だったなと思っています」
仙台放送局記者
杉本織江
2007年入局
震災当時は仙台局勤務
国際部、アジア総局を経て再び仙台局で震災の犠牲に向き合おうとしている