東日本大震災11年【時系列まとめ】各地で追悼と祈りの一日に

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から11日で11年です。年月の経過とともに教訓をどう語り継ぐかが課題になる中、各地で犠牲者を追悼する式典、記憶を伝える行事が行われました。

大切な人に思いを寄せ、命、そして日常の尊さに向き合う一日。各地の様子などを時系列でまとめました。

【以下 時系列まとめ】

17:30すぎ 宮城 石巻 大川小学校で竹灯籠に明かり

宮城県石巻市の大川小学校では、遺族たちが手作りした竹の灯籠に明かりをともし、鎮魂と防災への願いを込めて祈りをささげました。震災遺構となった校舎の近くの広場には、遺族たちが手作りした犠牲となった人数と同じ大小84本の竹の灯籠のほか「津波から命を守ることを語り継ごう」とか、「天国でお父さん、お母さんにあえますように」といったメッセージが書かれたキャンドルが並べられました。
そして午後5時半すぎ、灯籠に設置されたLEDが点灯されると竹にあけられた穴から光が漏れ、周囲は幻想的な雰囲気に包まれました。

17:00ごろ 福島 楢葉町 約2000本のろうそくともす

福島県の楢葉町と双葉町では合わせておよそ4000本のろうそくに明かりをともすイベントが行われ、このうち楢葉町のJヴィレッジでは日が暮れ始めた午後5時ごろからろうそくに火がともされました。福島県をかたどったおよそ2000本のろうそくの明かりが浮かび上がると、訪れた人たちは、じっと見つめたりスマートフォンで撮影したりしていました。ろうそくが入った容器には双葉郡の9つの小中学校の児童生徒およそ200人の願いや夢が描かれています。

14:46~15:37 宮城 石巻 大川小学校 遺族が祈りささげる

宮城県石巻市の大川小学校は11年前の津波で児童と教職員合わせて84人が犠牲となり、校舎とその周辺は去年7月、記憶と教訓を後世に伝えようと震災遺構として整備されました。11日は児童の遺族など大勢の人たちが訪れ、午後2時46分と、学校に津波が押し寄せた地震発生からおよそ50分後の午後3時37分に合わせて黙とうを行い、祈りをささげました。

当時3年生だった長女の未捺さんを亡くした只野英昭さんは「10年以上がたったからといって区切りがつくわけではなく、娘の命が奪われた真実を知りたいという気持ちは変わりません。同じような経験をする人たちを出したくないので、地震や津波の恐ろしさ、そして防災の大切さを伝えていかなければいけないと思います」と話していました。

当時5年生で11歳だった次女の千聖さんを亡くした紫桃隆洋さんは「娘と過ごした11年は短く、この11年はとても長く感じました。思い出も多いこの学校を命をどう守るか考える場所にするため、行政とも話し合っていきたい」と話していました。

また、当時6年生だった次女のみずほさんを亡くし語り部活動を続ける元中学校教員の佐藤敏郎さんは「サイレンが鳴ってからおよそ50分間、子どもたちが校庭で待機していたことを考えていました。この場所で多くの命が失われましたが、訪れる人には震災前にここにあった日常を知ったうえで防災への備えを考えてほしいです」と話していました。

【14:46 発生時刻に各地で黙とう】

岸田首相 福島県主催の追悼復興祈念式に出席

岸田総理大臣は11日、福島県を訪れて県が主催する追悼復興祈念式に出席し、東日本大震災が発生した時刻の午後2時46分に黙とうをささげ、犠牲者を悼みました。

そして岸田総理大臣は追悼の辞で「最愛のご家族やご親族、ご友人を失われた方々の気持ちを思うと今なお哀惜の念に堪えない。原子力災害からの復興に向けては、中長期的な対応が必要であり、引き続き、国が前面に立って、住民の帰還に向けた生活環境の整備や産業となりわいの再生支援を進める」と述べました。

そのうえで「大きな犠牲のもとに得られた貴重な教訓を決して風化させることなく、防災対策に役立てていくことはわれわれの責務だ。わが国は幾度となく国難と言えるような災害に見舞われてきたが、そのたびに勇気と希望をもって乗り越えてきた。今を生きる私たちも先人たちにならい、手を携えて前を向いて歩んでいく」と述べました。

東電 小早川社長「反省と教訓生かし福島への責任果たす」

11年前に事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所では小早川智明 社長などおよそ100人が集まって、地震が起きた午後2時46分に1分間の黙とうを行いました。このあと小早川社長は社員に対して訓示し「2度とあのような事故を起こしてはいけないとかたく誓い、その反省と教訓を生かして福島への責任を果たしていく。廃炉作業が安全かつ着実に行われることが復興の基礎となることを肝に銘じる」などと述べました。

宮城 村井知事「長いスパンで心のケア行うことが責務」

宮城県の村井知事は献花台が設置された七ヶ浜町の公園墓地蓮沼苑を訪れ、地震発生時刻の午後2時46分に黙とうをささげたあと花を手向け、犠牲者に哀悼の意を示しました。献花を終えた村井知事は「被災者の心の傷が癒やされるには30年ほどかかると思うので、それくらいの長いスパンで心のケアなど行うことが責務だと思っている。ハード事業にめどがついたことで慢心することなく、ソフト事業にこれから力を注いでいきたい」と述べました。

宮城 東松島 弟が好きだったこいのぼりを掲げる

宮城県東松島市では5歳だった弟を亡くした男性が、弟が好きだったという青いこいのぼりを空に掲げました。震災当時、東松島市に住んでいた伊藤健人さん(28)は、津波で、弟と母親、それに祖父母の家族4人を亡くしました。当時5歳だった弟の律さんが好きだったという青いこいのぼりを、震災のあと毎年掲げています。
亡くなった子どもたちが天国で寂しい思いをしないようにと地元の人も協力し、ことし掲げられたのは全国から寄せられた311匹にのぼります。そして、地震が起きたのと同じ午後2時46分になると、集まった人たちが静かに黙とうをささげました。

宮城 名取 閖上地区 犠牲者を追悼する約650本の竹灯籠

兵庫県のボランティア団体「ひょうごボランタリープラザ」は、27年前の阪神・淡路大震災をきっかけに全国の被災地にボランティアを派遣していて、東日本大震災のときは東北各地で炊き出しやがれきの撤去などを行い、その後も地元の人たちと交流を続けています。11日は宮城県名取市の閖上地区にある慰霊碑の近くに団体や地元の人たちが集まりました。
そして、犠牲者を追悼するおよそ650本の竹灯籠を並べ、阪神・淡路大震災からの復興を願って神戸市でともされ続けている「希望の灯り」を分けた火を1つひとつ、ともしていました。地震発生時刻の午後2時46分には、訪れた人たちとともに鎮魂の祈りをささげました。

仙台 青葉区 犠牲者を悼む祭壇で黙とう

仙台市青葉区にある商店街には11日犠牲者を悼む祭壇が設けられ、手を合わせる人の姿が見られました。地震が発生した午後2時46分に鐘の音が流れると、通りかかった人たちが足を止めて黙とうし犠牲者を悼みました。

宮城 女川町 思い書かれた黄色いハンカチ 駅前の広場に

津波で大きな被害を受けた宮城県女川町では、震災をめぐるさまざまな思いが書かれたたくさんの黄色いハンカチがJR女川駅前の広場に掲げられました。映画『幸福の黄色いハンカチ』にちなんで地元の有志の人たちが4年前から行っている取り組みで、ことし新たにメッセージが書かれたものを含め、およそ700枚が掲げられました。
ハンカチには「毎日、思い出しています。空から見ててね」ということばや「語り継ぐ」「明るい未来へ!!」「当たり前のことに感謝」といったメッセージが書かれ、空の下でたなびいていました。そして午後2時46分になると、広場を訪れた人たちが海に向かって静かに手を合わせ、黙とうをささげました。

宮城 名取 閖上地区 メッセージを書いた風船を空に

宮城県名取市の閖上地区では毎年3月11日に遺族や地域の人たちが集まり、環境に配慮した風船に犠牲になった人へのメッセージを書いて飛ばす取り組みを続けています。11日は地元のほか、ともに追悼したいと県外からも参加者が訪れ、風船に「安らかに眠ってください。これからもずっと忘れません」とか「仲間たちへ。大きな愛をいつもありがとう」などとそれぞれの思いを込めたことばを記しました。

そして地震が起きた午後2時46分にあわせて黙とうをささげたあと、風船を一斉に飛ばしました。

福島 相馬 思い記した木の葉 海に浮かべる

11年前の巨大津波などで450人余りが犠牲になった福島県相馬市では、遺族や地元の人たちおよそ100人が地震が発生した時刻の午後2時46分に海に向かって黙とうをささげたあと、亡くなった人への思いなどを記した木の葉を海に浮かべて静かに手を合わせ、犠牲者を悼みました。

集まった人たちは、1人ずつ常緑樹のタイサンボクの葉を受け取り「家族を守れる強い人になる」とか「元気ですか?私は元気です」などと、津波で亡くなった家族などへのメッセージや復興への思いを油性ペンで書き込みました。そして地震が発生した時刻の午後2時46分に海に向かって黙とうをささげたあと、木の葉を海に浮かべ、手を合わせて犠牲者を悼んでいました。

福島 双葉町 災害公営住宅の工事現場で黙とう

東京電力福島第一原子力発電所が立地し、すべての住民の避難が続く福島県双葉町では、住民の帰還に向けて災害公営住宅の建設工事などが進められていて、地震が起きた午後2時46分には作業をしている人たちが黙とうしていました。

町などによりますと、この場所には合わせて32棟、86戸の公営住宅が建設される予定で、ことし10月から順次、入居できるようになるということです。双葉町は、ことし6月にかつての町の中心部で避難指示を解除することを目指しています。

岩手 達増知事「震災の教訓 復興の姿を次世代に 私たちの責務」

岩手県と大槌町の合同追悼式が大槌町役場で開かれ、遺族や役場の職員など150人が参列し、まず鎮魂の舞として地元の郷土芸能「虎舞」が披露されました。そして地震が起きた午後2時46分に全員が起立して1分間、黙とうをささげました。式では達増知事が「震災の事実と教訓、復興の姿を次の世代に継承することは、この災害を経験した私たちの責務です。犠牲になった方々のみたまが安らかであり、ご遺族の皆さまと私たちを見守り続けて下さいますようお祈りします」と述べました。

遺族を代表して津波で妻と母親を亡くした大槌町の芳賀俊明さん(69)が「あの日、もう少し早く避難を始めていれば、妻と母は助かったかもしれません。11年たった今でも後悔と寂しさがこみ上げてきます。それでもふたりの分まで生き、震災を風化させずに伝えていくことが、次の世代の未来を守ることにつながると信じています」と述べました。追悼式ではこのあと、参列した人たちが献花台に花を手向け、犠牲になった人たちを悼んでいました。

岩手 山田町 津波で被災の小学校 当時の様子を紙芝居で学ぶ

山田町の船越小学校は、東日本大震災の津波で校舎が全壊し、震災から3年後、裏山に造成した高台に新たな校舎を建設しました。11日は全校生徒およそ80人が体育館に集まって震災や防災について学ぶ時間が設けられました。このなかで6年生の児童は、震災が起きた当時の6年生が歌詞を考えた「明日へ」という歌について発表し、津波で学び舎を失った不安や、それでも助け合って困難を乗り越えてきた前向きな気持ちなどが歌詞に込められているこの歌をこれからも歌い継いでいってほしいと話しました。

続いて多田敢 校長が、去年4月に兵庫県立大学が作成した震災当時の船越小学校の様子を振り返る紙芝居を紹介し、危ないと感じたらとにかく逃げることが自分だけでなく周りの人の命も守ることにつながると伝えました。そして震災が起きた午後2時46分になると全員で海の方角を向いて黙とうをささげ、犠牲になった人たちを悼んでいました。

岩手 大船渡「ストリートピアノ」の周りで黙とう

追悼行事が行われている岩手県大船渡市の交流施設では、地震が発生した午後2時46分に地元の人たちが黙とうをささげ犠牲者を悼みました。大船渡市の中心部にある市の防災観光交流センターには、鹿児島県のまちづくり団体から復興の願いを込めて贈られた「ストリートピアノ」が置かれています。11日はこのピアノの周りで追悼行事が行われていて、地元の人たちおよそ20人が集まりました。そして全員で地震が発生した午後2時46分に黙とうをささげ犠牲者を悼みました。

岩手 陸前高田 復興工事の手を止め祈りささげる

陸前高田市の復興工事の現場では地震が発生した午後2時46分になると、防災無線のサイレンが鳴り響き、重機を動かしていた人たちが手を止めて祈りをささげる姿が見られました。

千葉 旭 慰霊碑で黙とう 去年で追悼式取りやめ

東日本大震災で16人が犠牲となった千葉県旭市では、これまで県と合同で追悼式を開催していましたが、震災から10年となった去年を最後に取りやめています。11日は大きな被害が出た飯岡地区にある慰霊碑におよそ30人が集まり、献花台に花を手向けて祈りを捧げていました。そして震災が発生した午後2時46分にサイレンが鳴り響くと黙とうして犠牲者を悼んでいました。

47歳のおいを亡くした赤羽根登美さん(85)は「『安らかに』という気持ちで献花しました。震災への思いは時間がたってもなくなることはありません。生きている限りは花を手向け続けたい」と話していました。

茨城 北茨城 市職員が黙とう

茨城県北茨城市には最大でおよそ7メートルの津波が押し寄せ、5人が死亡、1人が行方不明となったほか、5人がいわゆる震災関連死で亡くなっています。東日本大震災から11年となる11日、市役所では地震が発生した午後2時46分に職員たちが立ち上がり、海の方向に黙とうして犠牲者に祈りをささげました。

東京 日比谷公園で追悼の催し 会場での開催は2年ぶり

東京の日比谷公園での追悼の催しは震災のよくとしから毎年、行われてきましたが、去年は新型コロナウイルスの影響で配信のみだったため、会場での開催は2年ぶりです。会場には献花台が設けられ、訪れた人が花を手向け、手を合わせていました。そして、地震が起きた午後2時46分にあわせて集まった人たちで黙とうが行われ、追悼の祈りをささげました。

会場には復興支援のため、福島県南相馬市や宮城県気仙沼市の商品を販売するコーナーも設けられ、訪れた人が買い求めていました。

13:00ごろ 楽天とDeNA 試合前に選手らが黙とう

東北を拠点とするプロ野球の楽天は、遠征先の静岡市でDeNAとのオープン戦に臨み、午後1時からの試合の前に両チームの選手たちがそれぞれのベンチの前に整列し、半旗が掲げられたバックスクリーンに向かって1分間、黙とうし、震災の犠牲者を悼みました。
楽天の田中将大投手は「選手として東北を背負って戦っているのでこれからも変わらず皆さんに何かを感じ取ってもらえるプレーや戦いを表現して伝えていきたい。2013年のようにまた皆さんと一緒に喜び合いたいのでいい方向に持って行けるように頑張る」と話していました。

岩手県普代村出身で楽天の銀次選手は「東日本震災が発生した日は毎年、朝起きた時に東北地方の方角を見て手を合わせている。震災を経験した選手が若い選手と一緒になって東北の地でしっかり活躍して夢や感動を与えなければならないと思っている。優勝して被災地の皆さんを笑顔にしたい。そして被災地で戦うチームがあるということをこれからも伝え続けていきたい」と話していました。

11:20すぎ 東京のウクライナ大使館がツイッターに投稿

東京のウクライナ大使館は、ツイッターに「亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、そのご家族や被災された方々に、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます」と投稿しました。

10:50すぎ 福島 浪江町 新たな追悼施設「先人の丘」整備

福島県浪江町の請戸地区は津波で119人が亡くなり、地区の共同墓地では墓石や遺骨が流され壊れたままになっていました。新たに作った霊園に墓を移した人もいますが墓を再建できない人もいるため、町では津波で流された墓石や遺骨を改めて埋葬して新しい追悼施設「先人の丘」を整備しました。

11日は完成式が開かれ、地区の住民や町の関係者などおよそ20人が集まり、僧侶がお経を読んで先祖の霊を慰めたあと、全員で手を合わせました。完成式では浪江町の吉田数博町長が「請戸地区を築いた先人を敬う場がなく住民は心を痛めてきました。鎮魂と震災を継承する場となってほしい」とあいさつしました。

式のあと請戸地区の鈴木市夫行政区長は「うれしいのひと言です。震災後、墓石がゴロゴロと転がっていてその状況に涙を流す人もいました。みんなが集い語り合いの場になってほしい」と話していました。

10:30ごろ 福島 南相馬 警察が海岸を捜索

津波による直接被害だけで500人余りが犠牲になった福島県南相馬市の海岸などで、警察が今も行方が分からない人の捜索を行いました。このうち南相馬市鹿島区の海岸で午前10時半から行われた捜索には、南相馬警察署や福島県警察本部などの警察官合わせて56人が参加し、棒の先端にかぎをつけた「とび口」と呼ばれる道具や熊手を使って砂浜を掘りながら等間隔に並んで広い砂浜を進み、行方不明者の手がかりを探していました。

震災当時、いわき市で被災し去年警察官となって今回の捜索に参加した南相馬警察署の木村友哉巡査は「11年もたちますが当時のことは忘れられないし、行方不明になった人のことを思うと胸が苦しいです。早く見つけてあげたい、どんなに小さな物でも家族の元に返したいという思いで頑張りたいです」話していました。

警察によりますと、福島県では2011年3月11日の巨大地震による津波や土砂災害などで「震災関連死」を除いて1614人が犠牲になり、今も196人の行方が分かっていません。

10:00ごろ 岩手 久慈 行方不明者の捜索 範囲を広げ実施

東日本大震災で岩手県内では震災関連死を含めて5145人が犠牲となり、今も1110人が行方不明になっています。このうち2人の行方が分かっていない久慈市では11日午前10時から12人の警察官が海岸で行方不明者の捜索をしています。

警察官たちははじめに犠牲者に黙とうをささげたあと、熊手などを使って海岸の砂利を掘り起こしながら行方不明者の手がかりを探していました。

ことしは範囲を広げて、毎年捜索を行っている場所から北東におよそ1キロ離れた石油の備蓄基地周辺の海岸で初めて捜索が行われています。

10:00ごろ 茨城 北茨城 兄を亡くした男性が墓参り

茨城県北茨城市では東日本大震災で最大で高さおよそ7メートルの津波が押し寄せ、5人が死亡、1人が行方不明になったほか、5人がいわゆる「震災関連死」で亡くなっています。11日は市内に住む平塚信次さん(83)などが、津波で自宅を流され80歳で亡くなった兄の平塚幸男さんの墓を訪れ、花を供えて静かに手を合わせました。

信次さんによりますと、震災からまもない頃は、地域で、墓前に供える花を買える店がなく、自宅の庭に咲いていたスイセンを供えていたということで、それ以来、毎年3月11日の墓参りの際は当時のことを思ってスイセンの花を供えているということです。信次さんは「津波がなければ身体も丈夫だったから今も生きていて、春になって農作業が忙しくなる前にきょうだいで旅行に行こうなどと話していただろうと思います」と話していました。

一緒に墓参りをした姉の平塚久江さん(94)は「寿命だと思うしかないが、あきらめられず、弟が今も私のことを呼ぶ夢を見ます。体調を崩した時に私が食べ物を届けたら、泣いて喜んだことを思い出します」と話していました。

9:40ごろ 福島 いわき 豊間地区 亡き親友に祈り

東日本大震災の津波でおよそ80人が亡くなった福島県いわき市の豊間地区の海岸では、亡くなった親友を思い海に向かって手をあわせる人の姿がありました。西村奈々子さん(30)は幼なじみの親友を津波で亡くしました。毎年3月11日は墓参りをするとともに、海を訪れて祈りをささげています。西村さんは「いつも明るくて笑顔がかわいい女の子でした。『何年経っても思い出しちゃうけど私たちは元気にしてるよ。町もちょっとずつ復興してきて前向きに頑張ってるよ』と彼女に伝えたいです」と話していました。

9:30ごろ 宮城 気仙沼 亡き妻への思い 石版に

宮城県気仙沼市本吉町の佐藤誠悦さん(69)は、11年前の津波で妻・厚子さん(当時58歳)を亡くしました。震災発生当時、佐藤さんは気仙沼消防署の指揮隊長を務めていて、救助活動などに追われたため厚子さんを探しに行くことができず、地震から6日後に帰らぬ人となった妻と対面しました。

11日は自宅の仏壇に手を合わせたあと、厚子さんが見つかった近くの小泉海岸に向かいました。3年前までは海岸にあった石を目印に妻の最後の場所として祈りをささげていましたが、防潮堤の建設によって撤去せざるを得なくなり、震災から11年となることし、石に『いつもあなたとともに 愛する妻 あつこの思い出とともに』とメッセージを刻んで石版としました。佐藤さんは、今は駐車場となった厚子さんの発見場所に石版や遺影、花束などを置き、祈りをささげました。
佐藤さんは「ここは貴重な命の対話の場所です。ずっと拝んできた石に文字を入れ、ここで花を手向けることで11年間の思いを形として表すことができました。年月が過ぎても大切な人を亡くした悲しみは変わりません」と話していました。石版は今後、厚子さんが眠る墓に設置されるということです。

9:30ごろ 宮城 亘理町 災害公営住宅 ラジオ体操で交流

宮城県亘理町の上浜街道にある災害公営住宅では、入居する人たちの交流を図りながら健康を保ってもらおうと毎朝、ラジオ体操を行っていて、震災から11年となった11日朝も感染対策でマスクをつけた高齢者など13人が集まり、ラジオ体操を行って交流を楽しんでいました。

地域の民生委員によりますと新型コロナウイルスの影響で住宅の集会所で毎週行われていたお茶会が中止となったほか、1人暮らしの高齢者の自宅を訪問する住民どうしの見守り活動もできなくなっていて、毎朝のラジオ体操が唯一の住民たちの交流の場となっているということです。ラジオ体操に参加した地域の町内会長を務める宍戸孝幸さんは「あっという間の11年でした。被災者で新しい町をつくり上げている途中で、催しが途絶え残念です。まずは感染が拡大する前の2年前の状況に早く戻したいです」と話していました。

9:10ごろ ロッテ佐々木 “悲しみ消えないが多くの人に感謝”

岩手県陸前高田市出身で、当時、岩手県で被災して津波で父親と祖父母を亡くしたプロ野球・ロッテの佐々木朗希投手は9歳のときに東日本大震災で被災し、当時37歳だった父親の功太さんと祖父母が津波に流されて亡くなりました。

佐々木投手はチームの本拠地・千葉市のZOZOマリンスタジアムで練習後に取材に応じ「11年経っても、つらさや悲しみは消えないが、たくさんの方々の支えがあって、今、野球に打ち込めているので支えてもらった方たちに感謝しかない。震災を知らない子どもたちもいると思うが、身近にいる大切な人たちのことを、当たり前だと思わずに向き合ってほしい」と思いを語りました。

9:10ごろ 金子総務相「避難住民の支援に全力」

金子総務大臣は閣議のあとの記者会見で「原子力災害からの復興、再生には中長期的な対応が必要だ。総務省として、原発被災自治体から避難されている住民の方々へのふるさとに関する情報の提供や、ふるさととの交流を促進するための事業など、避難住民と自治体の関係の維持に資する施策に財政措置を講じており、人的、財政面での支援をはじめとして、さまざまな支援に全力で取り組んでいく」と述べました。

9:00ごろ 西銘復興相「決意新たに東北の復興・再生に取り組む」

西銘復興大臣は閣議のあとの記者会見で「節目の日を迎え、決意を新たに東北の復興・再生に取り組まなければならないという思いを強くしている。福島県に新たに設立する教育研究拠点『福島国際研究教育機構』は、すでに立地している研究施設などの取り組みに横串を刺す司令塔となる。具体的な研究のあり方について今年度内に策定を予定している基本構想も踏まえ引き続きよく検討したい」と述べました。

9:00ごろ 岩手 陸前高田 新たな追悼施設公開

岩手県陸前高田市では新しい追悼施設が公開されました。施設内には長さ40メートル、高さ1メートル20センチの刻銘碑が設けられ、遺族などから同意がとれた犠牲者1709人の名前が住んでいた地区や家族ごとに刻まれています。一般公開が始まった11日、戸羽太市長が訪れて慰霊碑に花を供えたほか、多くの市民が花を手向けたり祈ったりしていました。

施設にほど近い中心市街地で菓子店を営んでいる菅野秀一郎さん(46)は陸前高田市の職員だった弟の浩平さん(33)や仲間の名前を確認しながら「この場所に立つと悲しみよりもむしろ懐かしい気持ちになります。犠牲になった人たちと一緒にまちづくりを進めていきたい」と話していました。

また母親の香子さんを亡くした佐々木正也さん(47)は「刻銘碑は犠牲になった人たちの生きた証しですが、あれから11年たってもたくさんの人たちの命が奪われた悲しみと悔しさは忘れることができません」と話していました。

9:00ごろ 福島 富岡町 避難先で再開の小中学校 最後の卒業式

福島県富岡町は11年前の原発事故で全ての住民が避難を余儀なくされ、幼稚園と小中学校を避難先の三春町で再開しました。その後、町の大部分で避難指示が解除され、4年前に富岡町内で学校を再開した後も三春町の校舎を存続させてきましたが、児童・生徒の減少などにより今年度で閉校し、富岡町の学校に統合されることになりました。

11日は中学校の卒業式が行われ、当時、学校の再開に尽力したひとりの武内雅之校長から卒業生3人に卒業証書が手渡されました。卒業生代表の原田蒼史さんは「私たちは三春町に開校した学校の最初の1年生で、楽しいことや苦しいこと全部を3人で過ごしてきました。幼いころから一緒だった3人はそれぞれの道に進みますが、三春校で学んだことを生かして人生を切り開いていきたいです。富岡町の学校に通えたことがとても幸せでした」と答辞を述べました。

8:00ごろ 岩手 大槌町 旧役場庁舎の跡地で追悼式

津波で役場の職員40人が犠牲になった岩手県大槌町では、津波で全壊して3年前に解体された旧役場庁舎の跡地で追悼式が行われました。

全員で黙とうしたあと平野公三 町長が、去年7月にまとめた、職員が亡くなった経緯を一人一人調べた報告書を献花台にささげました。そして「職員が命を落とすことになった教訓を次の世代につなげることが私の使命です。私たちの大槌町をこれからも見守っていてください」と追悼のことばを述べました。

続いて、参加した遺族が花を手向け、祈りをささげました。福祉課で働いていた兄を亡くした倉堀康さん(38)は「自分のような苦しい思いをほかの人たちにはしてほしくないので、これからも防災・減災について考え、取り組んでいきたいです」と話していました。

この旧役場庁舎の跡地を巡っては、住民などが震災伝承のあり方を含めた活用方法の検討を続けていて、町はこの結果を踏まえて、新年度中に、津波の高さを示すモニュメントなどを整備したいとしています。

6:00ごろ 千葉 旭 かさ上げされた堤防から海を見つめる

千葉県旭市では高さ7.6メートルの津波が押し寄せるなどして県によりますと関連死などを含めて16人が犠牲になりました。このうち被害が大きかった飯岡地区では日の出の時間から海岸に足を運び、震災後にかさ上げされた堤防の上から海を見つめる地元の人の姿などが見られました。

地震による液状化で自宅が被害を受けたという加瀬富雄さん(74)は「11年はとても早いです。子どもの頃にチリ地震で津波を経験しましたが、あの日の津波は比べものにならないほどの規模でした」と話していました。

6:00すぎ 福島 いわき 早朝から遺族が祈り

津波でおよそ60人が犠牲になった福島県いわき市久之浜町では早朝から遺族が祈りをささげていました。飲食店を営む新妻篤さん(48)は母・光子さん(当時67)を津波で亡くしました。11日朝は午前6時すぎに光子さんの墓を訪れ、花を手向けて祈りをささげました。その後、店に向かい仕込みを始めました。

新妻さんは震災当時、仙台市の飲食店で働いていましたが、地元の復興の役に立ちたいと5年前に久之浜町に新たに整備された商業施設の中に店を開きました。新型コロナウイルスの影響で店の経営は苦しいということですが、母と暮らした地元をこれからも盛り上げていきたいといいます。

新妻さんは「11年がたち『家族と一緒に、きょうの朝日のように静かに暮らせる生活が戻りつつあるよ』と母に伝えました。コロナ禍や台風などいろいろと困難な波が押し寄せてきますが、震災を経験しているので今回も乗り越えることができると信じて頑張っています」と話していました。

6:00ごろ 岩手 宮古 住民参加の津波避難訓練

岩手県宮古市では震災を忘れないよう住民が参加した津波の避難訓練が行われました。訓練は午前6時ごろ、北海道沖を震源とする震度6強の地震が発生し、太平洋沿岸の広い範囲で大津波警報が発表されたという想定で始まり、宮古市の赤前地区では大津波警報を知らせる防災無線を聞いた人たちが次々と家を出て、近所の人たちと連れだって避難場所に指定されている高台の小学校に向かっていました。

ことしは新型コロナウイルスの影響で、例年続けてきた体育館での避難所開設の訓練は行われませんでしたが、マスクをつけるなど感染対策をとった住民およそ40人が参加して避難の経路などを確認していました。

小学校を訪れた宮古市の山本正徳市長は「震災から11年になりますがこうした訓練を通し、災害への備えを忘れないことが大事だと思います」と話していました。

訓練に参加した61歳の女性は「当時のことを思い出して切ない気持ちにもなりますが、忘れてはいけないと思い参加しています。家族の命を守るために自分に何ができるのかを考えるのが大事だと思います」と話していました。

6:00ごろ 岩手 山田町 妹夫婦とおいを亡くした男性は

岩手県山田町の漁港ではいつものようにカキやホタテの漁を終えた漁業者の姿が見られました。山田町で漁業を営む昆定夫さん(68)は、津波で妹夫婦と高校2年生だったおいを亡くしました。昆さんは「身内が犠牲になっただけでなく、当時、消防団長としての活動で多くの犠牲者を目の当たりにしてあえてあの日のことは特別に考えないようにしています。忘れられるものなら忘れたいつらい記憶ですが、海は働く場でもあるので、何気ない日々を過ごせていることに感謝しながら、前向きに生きていきます」と静かに話していました。

5:45ごろ 宮城 石巻 日和山で祈り

津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市では沿岸部を見渡すことができる高台、日和山に訪れた人たちが朝早くから祈りをささげていました。

宮城県によりますと、石巻市では関連死を含めて県内で最も多い3553人が亡くなり、417人の行方がわかっていません。
市内の沿岸部を見渡すことができる高台、日和山では朝早くから訪れた人たちが海に向かって祈りをささげていました。

震災で住宅が津波の被害を受けたという16歳の男子高校生は「3月11日を迎えて朝日を見たいと思ってここに来ました。11年がたちましたが、当時と変わらない気持ちです。この日のことを忘れないようにしたい」と話していました。

また、復興支援のために震災後の9年前に東京から石巻市に移り住んだ64歳の男性は「3月11日は毎年この場所に来ています。11年たって建物とかが新しくなって町の風景は変わってきていますが、被災者の皆さんは決してまだ気持ちが整理されているわけではないと思います。この被災の経験を広く伝えて防災に役立ててほしいです」と話していました。

5:30ごろ 宮城 気仙沼 亡き妻にささげる鐘の音

宮城県気仙沼市の小泉海岸にある「しあわせを呼ぶ鐘」は、津波で犠牲になった人たちを追悼するとともに、海岸を訪れた人に家族や大切な人の幸せを願う音を響かせてもらいたいと去年11月に設置されました。

設置後、初めての3月11日となる11日、この鐘を設置した住民グループの代表の中舘忠一さん(71)が海岸を訪れ、「しあわせを呼ぶ鐘」を鳴らしました。

中舘さんは震災のあと行方がわからなくなっている妻の隆子さんが大好きな場所だった小泉海岸に鐘を設置し、11日は鐘を鳴らしたあと海に向かって静かに手を合わせていました。中館さんは隆子さんと小泉海岸を望める結婚式場で式をあげるなど思い出の場所で、この鐘が海岸ににぎわいを取り戻すきっかけになれば、隆子さんも喜んでくれると考えています。
中舘さんは「きょうは鐘の音も違って聞こえます。妻と一緒にこの風景を見たかったです。何か一つでも手がかりが見つかることを願っています」と話していました。

5:30ごろ 岩手 野田村 先輩の漁業者を亡くした男性は

岩手県野田村では漁業者が船を出してホタテの養殖場に向かってました。津波で友人や先輩の漁業者を亡くしたという40代の男性は「当時、消防団に所属していたので、水門を閉めたり避難誘導にあたったりしました。津波で倉庫が流されるのを見たときには絶望しか感じなかったので、また仕事ができるとは思いませんでした。この日を忘れることなく、どこかで災害があれば、今度は自分が手助けをしたいです」と話していました。