母に残したのは、白紙のメッセージ

母に残したのは、白紙のメッセージ
いつものように新聞の夕刊をめくっていると「闘病記」の紹介記事に目が止まった。

目が止まるのは偶然ではない。

私は、人が「死」と向き合った時、何を思うのだろうということを人一倍考える人間だ。

それは私の病気と無関係ではなく、1人の青年の闘病記から何かを得ようとして目が行ったのだ。

もう会えないその青年は、大切な人に白紙のページを残して旅立っていった。
(ネットワーク報道部 馬渕安代)

数日後の訃報

自費出版の闘病記は20代半ばでがんを発症した青年が書いていた。

名前は瀬古昴さん。
父親はマラソンランナーだった瀬古利彦さんで、昴さんは長男だ。

利彦さんは記事の中で「悩みつつも治療に挑み続ける姿は息子ながら本当にエライ」とたたえていた。
記事を読んで数日後のことだった。

昴さんが亡くなったことを知った。

深刻な病状の中で執筆していたことに驚き、私はすぐに本を手に入れた。
読んでみると闘病記を書き始めたのは、がんが脳に転移し、頭が割れるような痛みと闘っている時期だった。

意外だったのは、明るい表現とユーモアに満ちた内容だ。
「なんなら、これを書いている今も入院しています。2020年のお正月。絶賛(笑)14回目の入院です」(闘病記より)
がんが再発したため、将来子どもを持つ可能性を残しておきたいと、精子を採取したくだりはこうだ。
「いました。18匹/いつか将来、使うときが来るまで冷凍保存することになりました(数え方、匹で合ってるんですかね?)/母にも連絡したところ、ちょうど母はお友だちと一緒にいたそうで、そこで喜びを分かち合っていたそうです。恥ずかしいな(笑)!」
どうしてこんなに明るく書けるのだろう、、、、私は思った。

私の踏み入れた別世界

がんは死を意識させる病気だ。

私がその宣告を受けたのは4年前で、記者になって14年目のことだった。

医師の言葉は
「ちょっと調べてみましょう」から始まり、

「がんの可能性があります」

「がんです」

「リンパ節に転移しています」と続いた。

がんの切除、抗がん剤、放射線と治療は進み、再発を防ぐためのホルモン剤の治療はいまも続いている。

「ちょっと調べてみましょう」の時から私は、それまで考えたこともない、自分の死を意識した。

自分の存在がこの世から消えるのが怖い。

死から逃れるために治療を受ける自分は、平穏が永遠に続くかのような気持ちで仕事をしていた、数か月前の自分とは別世界にいた。

私は治療を受けても、100%生き続けられる保証がない世界に足を踏み入れた。
仕事中、どんなに気を張っていても、帰宅途中に自宅近くの路地まで来たら涙が出てきた。

家に着いたとたん、声をあげて1人で号泣した。

今でも、年に1回あるがん検査の結果を告げられる時、医師が判決を言い渡す裁判官のように見える。

そんながんとの闘いを、ユーモアなタッチで伝えた昴さんは、いったいどう生き、どう悩み、どんな思いで執筆したのか、人生をたどってみたいと思った。

少し救いを求めるような気持ちも私にはあった。

自分の道 見つけた頃に

利彦さんも、母親の美恵さんも忙しい中、取材に応じてくれた。

昴さんは4人兄弟の長男で、両親と母方の祖母と7人家族で暮らしていた。
オリンピックの金メダル候補となり、レースに出場すると競技場を満員にさせる人気があった父親。

昴さんが、小さい頃から周囲に“瀬古の息子”とみられていたことは容易に想像できる。
美恵さん
「昴には小さい頃から『あなたはあなただから』と言っていましたが、父親のことは意識していたと思います」
昴さんは陸上ではない舞台を選んだ。

中学と高校では野球、大学に進学すると環境問題に打ち込む。
そして企業に就職したのち、国際交流や環境問題を扱うNGOに移る決心をして、スタッフとして働き始めていた。

がんは、新たな進路を見つけ、歩き出そうとした頃に発覚した。
美恵さん
「25歳の時、原因不明の体の不調に苦しめられるようになり、息苦しさで眠れなくなったんです」
「病院で告げられた病名はホジキンリンパ腫という血液のがんでした」
緊急入院のあと、抗がん剤の治療に専念することになった。

歩んでいこうとした道は、断念せざるを得なかった。

トップランナー

病気というのはいつの時も、描いていた人生設計を壊し、生きる意味を考えろと否応もなく突きつけてくる。

たぶん、昴さんも死というもの、そしてその不安をどう乗り越えるのかを考えたのだと思う。

抗がん剤治療が終わるとフェイスブックやブログで、苦しい治療に耐えたことを発信し続けた。

あとになって「当時は承認欲求がすごく強かった」と美恵さんに打ち明けている。

誰かに認められることで、不安を乗り越えようとしたのかもしれない。
しかし、がんは数か月後に再発する。

治療の効果は長続きせず、病状は少しずつ悪くなっていった。

弟からの骨髄移植、がんの治療薬オプジーボの使用。

さまざまな治療を受けて、病気の進行を食い止めようとしたが、少し動くだけでも息が切れ、外では車いすを使うようになった。

治療の副作用で目が乾燥し、眼帯も手放せなくなる。
美恵さんはある時、昴さんから、フェイスブックのアカウントを削除したと聞いた。

フェイスブックは結婚、出産、仕事など仲間のキラキラした投稿があふれていた。
美恵さん
「昴の本当の気持ちは分かりませんが、その頃は感情をどうコントロールするのかが最大のテーマになっていて、あがいていました」
気持ちが揺れ動く中で、昴さんは挑み続ける。

呼吸障害などに苦しめられていた2年前の元旦、入院中の病室で闘病記の自費出版を決めた。

利彦さんによると新しい治療方法に挑戦する様子を医師から「トップランナー」に例えられたことが、きっかけだと言う。

がんと闘う姿を伝えることが、誰かを勇気づけるかもしれない、そんな思いがあったのだと利彦さんは言っている。

闘い方

昴さんの闘い方は、落ち込んだ姿を見せない闘い方で、闘病記のトーンそのものだった。

母親の美恵さんの古くからの友人に、作家で心療内科医の海原純子さんがいる。

昴さんが闘病記を書く際に相談相手になった人だ。
海原さん
「厳しい現実につらさも、不満もあるはずです。私は『もっと感情を出していいし、ブツブツ言ってもいいと思うけどな』ってしょっちゅう言っていました。でも『それはちょっと…』といって口にしませんでした。それが彼の美学だったのかもしれません」
家で父親の利彦さんに見せる姿もそうだった。

頭が割れるように痛い時も、弱音を吐く姿を見せなかった。
利彦さん
「本当は叫びたいくらいだったと思います。でも最後まで痛いとか苦しいと言わなかった。昴に『おまえすごいな、マラソン選手になったらよかったな』って言ったこともあります。我慢強かったと思います」

叱咤叱咤

弱音を吐かなかったのは、美学もあったのかもしれない。

それに加えてもうひとつ、私には美恵さんの言葉があったように感じる。

美恵さんは病院に付き添うことが多かった。

2人に告げられる検査結果は、たいてい期待していたものではなかった。

昴さんの気持ちが沈むのはどうしようもなかったが、美恵さんはそのまま家に持ち込むことを許さなかった。
美恵さん
「沈んでいるのはわかりました。でも私自身も落ち込んじゃいけないし、昴に対しても『苦しくても笑いなさい』と言っていました。私は昴にキツかったと思います、いつも叱ってばかりでしたから」
ある時、昴さんは「お母さんって、叱咤激励じゃなくて、”叱咤叱咤”だよね」と笑いながら言ったそうだ。

落ち込んでいる昴さんを叱ってでも気持ちを引き上げる、それが二人三脚での闘い方だった。
「体調が辛いときに叱られることで、気持ちがめげそうになるときもありましたが/何というか、叱られることで、沼の底に沈んでしまっている自分を、なにくそ、と強制的に浮き上がらせることができたように思います」(闘病記より)
状況の厳しさをユーモアでまとった闘病記の執筆は、家族に支えられながら続いていった。

夢の中のできごと

闘病記の執筆が終盤にさしかかったころ、体調が悪化し、昴さんは数か月間の入院を余儀なくされた。

病室では毎朝午前3時から4時くらいになると、激しい頭痛に苦しめられた。

弱みを見せることをよしとしなかった昴さんだが、この頃になると未明の電話で「苦しい」「またきた」といって美恵さんに痛みを訴えてきた。

不安からなのか日中も電話やメールが来て、多いときには1日50回にのぼるようになった。

心身の痛みや苦しさを一緒にやり過ごす、そんな日々が続いていた。
この頃、昴さんが夢の話を美恵さんにしてきた。

「お母さん、きょう見た夢なんだけど…」

夢の中で死んでしまったあと魂だけになった自分を見たと言った。

魂になった自分は苦しさを感じてなくて、死ぬことに憧れてしまうというようなことを、少し冗談っぽく口にした。

美恵さんは言葉をかけた。

「気持ちはすっごく分かるよ。でも、あなたにはやるべきことがあるし、生きて、生きて、生き抜かなきゃいけない」

昴さんが、一向に良くならない病状にただ絶望しているのではなく、なんとか生きる意味を見いだそうとしていることを、美恵さんはわかっていた。
美恵さん
「ギリギリの所にいたから、私は自分のスタンスを続けるしかありませんでした。昴は最後まで痛みで苦しい思いをしたので、不安や『何で僕だけ』という理不尽さはずっと感じていたと思います」
「でも、自分の人生を否定しない生き方をしてほしかった。昴もそうした考え方を必死で自分の中に植え込もうとしていたように思えたんです」
「母なりの人生観で、僕にまったく違った視点からの答えをくれます。ネガティブになりがちな僕と、すごくポジティブシンキングな母。それに何回救われたことか分かりません」(闘病記より)

昴さんのやり方

闘病記では最後までユーモアを織り交ぜた文章が続く。

苦しいとき、悲しいとき、どうしようもない絶望感を感じたとき、どうやって乗り越えようとするかは、人それぞれだ。

泣いたり怒ったりする人、家族や恋人に支えられる人、仕事や趣味に没頭して乗り越えようとする人もいる。

昴さんの場合は、苦しさを笑いに変えながら、悩みや葛藤を闘病記にさらけ出すことで乗り越えようとし、同じ思いをしている人の支えになりたかったのだと思う。
「僕と同じようなAYA世代のがん患者のみなさんに僕の経験が届けば/僕の8年間の葛藤、悩み、そこから気づいたことが、少しでも何かの役に立つのであれば嬉しい」(闘病記より)
去年の2月末、昴さんが全力をかけた闘病記は完成した。

息を引き取ったのは、その1か月余り後だった。

白紙のページ

時間を少し巻き戻す。

闘病記が完成して間もない、去年3月3日のことだった。

その日、瀬古家では出版を祝う会が開かれていた。

昴さんから家族みんなに闘病記が1冊ずつ配られ、最初のページにはそれぞれに向けて短いメッセージが記されていた。
父親の利彦さんには「いつもありがとう!これからもがんばりますので、よろしくお願いします」。

祖母には「愛するちばちゃん(※祖母の愛称)へ いつもありがとう」だった。

ただ、美恵さんに渡された本だけは、メッセージが書かれていなかった。

釈然としない美恵さんは本をいったん返して自分にもメッセージを書いてほしいと頼んだ。

昴さんは「ずっと考えているけどまだ書けない」と繰り返すばかりだった。
そのまま3月下旬に昴さんは入院し、体調は日ごとに悪くなっていった。痛み止めの影響で、意識がしっかりする時間は限られるようになった。

美恵さんは病室に泊まり込み、ほとんど寝ずに看病を続けていた。そして治療の影響で声が出せなくなる直前のことだった。

昴さんが、ベッド脇にいた美恵さんにボソッと声をかけた。

「お母さんのとこに来てよかったよ」

昴さんが亡くなったのは、その数日後だった。白紙のページをそのままにして、昴さんは旅立った。

言葉にならない

美恵さんは白紙のページにメッセージがあると思っている。
美恵さん
「何も言わなかったり、書かなかったりすることで、本当の思いが伝わることもあるんじゃないかと私は思っています。“言葉で届け切れない思い”というのがあるんじゃないかと。そして『お母さんのとこに来てよかった』っていうのは、昴の思いに一番近い言葉なのかもしれないと思っています」
いまあるどんな言葉を駆使しても、伝えられない思い、それが昴さんにあった。

気持ちが言葉を上回ってしまう、そんな状況だったのだ。
苦しさをユーモアで覆い、前を向いて生きた1人の青年の闘病記。

その白紙のページとボソッと伝えてくれた言葉を、美恵さんは昴さんからの大切な贈り物だと思っている。

私も、精いっぱい生きていこうという気持ちをもらって、ページを閉じた。