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イージス艦 “奇跡の救助” 秘話~海上自衛隊 11年目の証言~

「人がいます!手を振っています!」

福島県の沖合15キロの洋上。
突然、声を張り上げた若手隊員の発見報告でイージス艦「ちょうかい」は一気に興奮に包まれました。

みなさんは去年、NHKが放送したドラマ「星影のワルツ」をご覧になったでしょうか。東日本大震災で津波にのまれて流され、43時間にわたって海を漂流し、孤独、飢え、渇きに耐えた末、奇跡的に救助された男性の実話です。

このとき男性を救助したのは福島から遠く離れた長崎・佐世保市を母港とする海上自衛隊の乗組員たちでした。

当時、救助現場で何が起きていたのでしょうか。

現場の隊員から最高幹部まで複数の関係者への取材で詳細が明らかになってきました。

海上自衛官が語る、11年目の証言です。

(長崎放送局 佐世保支局記者 喜多祐介)

航海長、止めてくれ!

「下に降りて!」「了解」「航海長、止めてくれ!」「GPSに落としてくれ!」
映像を再生してみると慌ただしく飛び交うことばが記録されていました。

映っているのは海の上で大きな板のようなものに座り小さな布きれをくくりつけた棒を左手で掲げている漂流中の男性の姿です。
撮影したのは海上自衛隊。東日本大震災の2日後、福島県双葉町の沖合およそ15キロで撮影したものです。

救助ボートが近づくと男性は体を支えられながら板の上に立ち、ゆっくりと歩み寄ります。ただ、足が上がらなかったのか、最後は体を抱えられ、引き込まれるようにボートに移されました。

このとき救助ボートを操舵していた瀧石信幸准尉(50)は当時をこう振り返ります。
瀧石信幸さん
「屋根の上に座っている感じで、あのときは寒くて水温も低かったので、よく我慢して浮いていたな、すごい精神力だなと思いました。ふだんはない日用品やロープなどの浮遊物がたくさん浮いていたので、ほかの乗組員が棒でかき分けて、その間を私が進めていったという状況です。また、近づけたままの態勢を維持するのも難しかったです。あまり近寄りすぎたら沈んでしまうかもしれなかったので。安全に航行して、でも迅速に救助しなければということで緊張感があり、相当集中していました」

イージス艦ならではの“特殊任務”

この救助の直前、隊員たちは危険性を伴うある任務にあたっていたことが今回初めて明らかになりました。

瀧石さんたちが乗り組んでいたのは長崎・佐世保市を母港とするイージス艦「ちょうかい」です。弾道ミサイルなどの目標を特殊なレーダーで捕捉・迎撃する能力を持つ日本の弾道ミサイル防衛の要です。
イージス艦「ちょうかい」
▼3月11日午後
「ちょうかい」はアメリカ軍との共同訓練に参加するため、佐世保を離れて神奈川・横須賀港に寄港していました。
午後2時46分に大震災が発生すると「ちょうかい」はただちに東北沖に向けて緊急出港しました。未曽有の災害に自衛隊内では混乱の中で指揮がとられていました。

▼3月12日午前
早朝に福島県沖に到着したイージス艦「ちょうかい」。
情報が交錯する中で、現場指揮官から出された指示は、「福島第一原子力発電所近くの大気中の放射線量を測定すること」でした。

福島第一原発は全電源を喪失し、政府は「原子力緊急事態」を宣言。
午前6時前には1号機周辺の避難指示は半径10キロに拡大されました。
福島沖にいた海上自衛隊の艦艇には原発に近づかないよう指示が出されていました。

ただ「ちょうかい」は例外でした。

当時、幹部乗組員だった秋野朝治2佐(44)は放射性物質で汚染された海域でも行動が継続できるように建造されたイージス艦ならではの“特殊任務”だったと語ります。
秋野朝治さん
「うろ覚えですが、10マイル(約18キロ)まで接近せよという指示がありました。この艦艇は艦内の空気の圧力を高める与圧をして外からの空気が入り込まないようにできる上、放射線の測定装置を積んでいます。そのため、少なくとも乗組員が直接被ばくすることはないということで、近くにはほかに船もいましたが、私たちが接近していきました。近づくにつれて測定器が反応し始め、放射線が間違いなく出ているというのを確認しました」
その後、艦艇に放射性物質が付着する危険性があるとして「ちょうかい」は命令を受けてすぐに原発から離れることになりました。

▼3月12日午後
午後3時36分、原発では最初の水素爆発が1号機で起きました。

当時、イージス艦がいち早く原発周辺の洋上で“特殊任務”にあたっていたことは今なお自衛隊内ですらほとんど知られていません。

“生きている人はいないのでは”

“特殊任務”を終えたイージス艦「ちょうかい」は、そのまま福島県沖で流された人たちの捜索に乗り出しました。

広大な海で人の姿を探し出すのは容易ではありません。
秋野朝治さん
「洋上だと波に隠れてしまうこともありますし、コンテナや家や木などいろいろな物が流されていたので、その中から人を見つけるのは非常に難しかったです。また、人は水温が1桁台の水につかると、10分程度しか生きられません。絶望的な雰囲気で、生きている人はいないのではとも思っていましたが、たとえ亡くなられていても、家族のもとに返すことが任務だと思って捜索にあたりました」
▼3月13日午前
津波が福島沿岸を襲ってからおよそ43時間後の、13日午前11時すぎ。
右舷で見張りをしていた20代の若手隊員が突然、声を張り上げました。

「人がいます!手を振っています!」

漂流していた人影を発見したのはイージス艦からおよそ5キロ離れた海上でした。

「生存者発見!総員見張りにあたれ!」

絶対に見失わないよう総出で見張りをするよう、艦内放送で指示が飛びました。
幹部乗組員の秋野さんは最初、耳を疑ったと言います。
秋野朝治さん
「右に10度、時計でいうとおおまかに1時の方向です。人がいると聞いて、私もすぐ7倍率の双眼鏡をのぞきましたが、私にはわかりませんでした。そこで艦橋の外に移動して20倍率の双眼鏡をのぞいてはじめて、数キロ離れた先に、確かに人が動く姿を確認しました。信じられない気持ちでした」
ほとんどの乗組員にとって実際の人命救助はこれが初めてでした。
秋野さんたちはすぐに汽笛を鳴らして信号灯をフラッシュさせ、救助を待つ男性に「存在に気づいた」ことを知らせます。
大きな波をたてないよう慎重に近づいていきました。

映像に収録されていた「航海長、止めてくれ!」という大声の指示は秋野さんが発したことばでした。
そして瀧石さんは搭載していたボートを下ろし、操舵して漂流男性のもとに向かいました。

瀧石さんは無我夢中だったためそこから無事に男性を艦内に収容するまでの詳細な記憶は残っていないと言います。
瀧石信幸さん
「戻ったあと『よかった』と安心感もありましたが、とにかく無事に船に収容することだけを考えていましたので、正直あまり覚えていません。災害派遣に携わり、生存者を救助することができて本当にうれしかったです。ただ、ほかに救えた命があったのではないか、もっとほかにできたことがあったのではないか、という気持ちを今も持ち続けています」

技術がいくら進歩しても 最終的には“人”

“奇跡的な人命救助”だったと周囲から言われても2人は「完全な偶然ではなかった」と語ります。

そう感じるのは最初に発見した若手隊員のひたむきな姿があったためです。

その若手隊員はふだんは潜水艦の探知が担当で双眼鏡を使うことはめったにありませんが、まさに全身全霊で双眼鏡をのぞいていたと言います。
秋野朝治さん
「救助する前日に『大変だけどよろしく』と声をかけたとき、彼(若手隊員)は『私は災害派遣のように人の役にたつ仕事がやりたくて自衛隊に入りました。ですので大変だとは思っていません』と返答しました。その彼が最初に発見したので、私はシステムや技術がいくら進歩して人の代わりになっていっても、災害などの場面では最終的には“人”だと思いました。やる気や意識の高さが大きく結果に関わってくるものだと強く思いました。なかなか理解を得られないかもしれませんが、メンタルな部分は非常事態においては生きてくると感じたのを覚えています」

風化させてはいけない

瀧石さんは当時の対応を部隊内部で共有しようと文書にまとめました。その文章は次のように締めくくられています。

「後輩たちへ伝えていかなければいけない。忘れたころにやってくる次の天災に備えて」
瀧石信幸さん
「風化させてはいけない。場所は遠いですが、自分があそこで救助に携わったことは忘れられませんし、忘れてはいけないですよね。実際に経験していない人たちもどんどん増えていますが、3月11日に何があったのか、年に1度だけでもいいのでもう一度みんなで思い出して伝える、そういう機会は必要だと思います」
秋野朝治さん
「経験した人間が先頭にたって準備や計画、訓練を行っていかなければいけない。備えて、何もないのが一番よくて、私たち自衛隊が前に出て行かないような状況がこの国にとっては一番いいのです。日陰の存在だったら、この国にとっていいのでしょうね、きっと」

取材後記

東日本大震災は多くの人々の命とくらしを奪いました。当時わたしも福島県などに何度も出張し、被災者や原発作業員の取材にあたりました。

あれから11年、遠く離れた長崎に身を置くとどうしても大震災を遠くに感じてしまいがちです。

それでも今回、自分が暮らす街ではどんな人たちがどのようにあの大震災に関わったのだろうかと思い立ち取材を進めたところ、想像を超えた最前線にいた海上自衛官たちにたどり着きました。

今回取材に応じた、退役した当時の指揮官の1人は「当時を振り返ったり、教訓を共有する機会は何度もあったが、まだまだ検証しきれていないことがたくさん残っている」と話していました。

1000キロ以上離れた長崎の地でも「あの日を忘れてはいけない」という思いはしっかりと根を下ろしていました。
長崎放送局 佐世保支局記者
喜多祐介
平成19年入局
沖縄局、社会部、広島局を経て、佐世保支局。
1次産業から安全保障まで地域の話題を幅広く担当。

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