駆け抜けた6年2か月の命 医療的ケア児の女の子が変えたもの

駆け抜けた6年2か月の命 医療的ケア児の女の子が変えたもの
まるでひまわりのように笑う、女の子がいました。

苦しく感じていても、悩んでいても。その笑顔が一歩を踏み出すきっかけになる。

きっと乗り越えられる。

笑顔を目にしたまわりの人にそう思わせてくれる、不思議な魅力を持った女の子が。

(取材:前橋放送局 丹羽由香 編集:ネットワーク報道部 大窪奈緒子)

名前は“ゆかり”ちゃん

女の子の名前は岡崎縁ちゃん。

福井県大野市の岡崎家の長女として誕生しました。
ゆかりちゃんはお母さんのおなかの中にいる時に心臓の病気が見つかります。

おなかや胸には水がたまり、両親は医師から「いつ亡くなるかわからない。生まれてきても声をあげないかもしれない」と告げられました。

どうか生きて産まれてきてほしい。

しかし、施せる治療はほとんどありません。

2015年6月。

胸などにたまった水が奇跡的に無くなって、ゆかりちゃんは小さな産声をあげました。

父・明秀さんと母・美江子さんはある願いをこめて「縁(ゆかり)」と名付けました。
美江子さん
「命を持って生まれてきてくれてありがとうという感謝の気持ちと、“ご縁”があって私たちのもとに来てくれた、病気のこの子にこれからいろんなご縁がありますようにと。ご縁によってたくさんの幸せが訪れてくれますようにと思いを込めました」

「やっと一緒に暮らせる」

ゆかりちゃんには、一般の人には4つある心臓の部屋が3つしかありませんでした。

手術を3度受けましたが治すことはできず、容体が悪化。

それでも小さな体で治療に耐え、入院先の病院で1歳を迎えました。
翌月、ゆかりちゃんは退院して初めて自宅に帰ります。

「やっと家族で一緒に暮らせる」
喜びをかみしめる両親。

しかし、医師から伝えられたのは「いつどうなるかわからない。1、2週間が勝負」ということばでした。

ゆかりちゃんの心臓がいつまでもつのか、医師にもわからなかったのです。

家にこもって、つきっきり

24時間つきっきりの日々がスタートしました。

ゆかりちゃんは1歳をすぎても首は座らず、寝たきりの状態です。

食事や薬は口から飲むのが難しく、チューブで鼻から流しこみます。

ミルクは心臓の負担にならないように、少しずつ。

3時間おきに30CCほどを飲んでもらうのに1時間ほどかかります。
病院への通院や自宅に来てくれる訪問看護師との毎日のやり取り。

睡眠は、こま切れで取るのがやっとでした。
寝たきりのゆかりちゃんとどう遊んであげたらいいかわからず、外出していいのかさえ、わかりません。

家にこもって過ごす日々が続きました。

「散歩してもいいんだ!」

そんな両親に声をかけてくれた団体があります。

病気を抱える医療的ケア児の成長を見守り、家族をサポートする福井市の「オレンジキッズケアラボ」です。

そこの看護師や保育士がゆかりちゃんをベビーカーに乗せて近所の散歩に連れ出してくれたのです。

「散歩してもいいんだ!」

美江子さんは衝撃を受けます。

ほかの1歳児には当たり前のことかもしれません。

でも、いつ体調が急変するかわからないゆかりちゃんにとっては大きな一歩でした。
散歩中、病院では聞くことのなかった車の大きな音などに驚いて、泣き顔が多かったゆかりちゃん。

「風が気持ちいいね」
「お花が咲いてるよ」

美江子さんが話しかけるうちに、次第に表情が出てきたのです。

そして…。

「ゆかりちゃんが笑ってる!」(美江子さん)

まるで、花が咲いたような笑顔でした。

「お出かけにいこうよ!」全身で表現

美江子さんは、少しずつ出かける先を広げていきました。

近くの公園、次に市内の動物園。そして2駅だけの電車の旅へ。

動物園では初めて見る馬の姿にびっくりし、花や草に触れるとうれしそうな反応も。

外出が大好きになったゆかりちゃん。
点滴を抱きかかえて家の外を指さして「お出かけに行こうよ」と全身で表現するようにもなりました。

それは両親にとって、ようやく実感することができた娘の成長でした。

3年前の9月、4歳になったゆかりちゃんは主治医の協力のもと、大きなチャレンジをします。

飛行機に乗って1泊2日でディズニーランドに出かけたのです。

それまでいつも、遠出は車で日帰りでした。
しかし今回の旅には医療スタッフが同行してくれます。
無事到着したディズニーランドでは、日常とはあまりに違う出会いの数々に驚いたのか、終始泣き顔だったゆかりちゃん。

ただ、夜のパレードでは光るリボンの髪飾りを頭につけいつもの笑顔もしっかり見せてくれました。

「あー、ああー」

初めての大旅行への挑戦は、ゆかりちゃんの可能性を広げるきっかけになりました。

旅の1週間後、記者がゆかりちゃんのもとを訪ねた時です。
「あー、ああー」
ほとんど声を出さなかったゆかりちゃんが、声を出すようになっていたのです。

笑顔を見せる回数も増えたと、美江子さんがうれしそうに教えてくれました。

この経験は次の挑戦にきっとつながる。
そう思うようになっていました。
美江子さん
「私たち家族にとっても、旅という経験を一つしたことで次のことに挑戦する勇気につながるような気がしている。
あれがあったから、次もきっと乗り越えられるだろうって、そういう風になっていくと思います」

「笑顔が見られるはず」

そして2年前の春、ゆかりちゃんは保育園に通い始めます。

市には障害のある子どものための保育園はありません。

子どもたちと遊べず、ひとりきりで過ごすことになってしまうのではないか。
かぜをもらって体調を崩してしまうのではないか。
そもそも家族と過ごす時間を減らしてまで通う意味はあるのか。

両親はひとしきり悩みましたが、背中を押したのはゆかりちゃんの笑顔でした。

「新たな成長が、笑顔が見られるはずだ」
自分たちの不安や心配にとらわれるのではなく、ゆかりちゃんにとっていいこと、楽しいことを選択したい。

そう考えて、通園を決めたのです。

一方、そんな不安をよそに、ゆかりちゃんは保育園でたくましく成長します。

家ではできなかったことが、一つ一つできるようになっていったのです。
家では寝て過ごすことが多かったゆかりちゃん。

まわりの友達を見て刺激を受けたのか「私も座りたい」と意欲を見せ、支えがなくてもいすに座れるようになりました。
友達と机を囲んで食事するうちに、一緒に手を合わせて「いただきます」もできるようになりました。

歩行器に乗って前に進むこともできるようになりました。
「ゆかりちゃんにおだんごあげる」
「おもちゃ貸して」
「ゆかりちゃんかわいいね」

医療機器を付けた姿に最初は不思議そうにしていた園児たちも自然とゆかりちゃんの周りに集まり、一緒に遊ぶようになりました。

園での様子が気になっていた父・明秀さん。

仕事の合間にのぞきに行った時、ゆかりちゃんが友達と楽しそうに遊んでいた姿に驚きました。
明秀さん
「同世代の子どもと遊んでいるところは見たことがなかった。最初は行っても楽しめないんじゃないかと心配で、正直、僕は行かなくてもいいと思っていたんです。でも、ほかの子と遊んでいてうれしくて。すごいなと思いました」

先生を変えたゆかりちゃん

成長を願い、見守り続けたのは両親だけではありません。

保育士の宮崎真紀さんと看護師の伊東とみ子さんも一緒です。
初めて会ったとき、2人はゆかりちゃんの症状が想像よりも重いことに驚きました。

同じ年齢の子より体が小さく、心臓の動きを強める薬の点滴と酸素吸入が常に必要な状態。

「経験のない自分たちが、本当にこの子の命を支えていけるのか」

不安の中で、健康状態を確かめるための機器をそろえたり、緊急時に救急搬送するための体制を整えたりと、手探りで準備に追われました。

そして「いつ何が起きても対応できるように」と先生たちの事務所に置かれたベビーベッドからゆかりちゃんの保育をスタートしました。

少しずつ慣らしていき、2歳児クラスに移動。
2人は、ゆかりちゃんの様子をそっと見守りながら、どんな遊びなら挑戦させてあげられるのか考えました。

たとえば、夏場の水遊びははじめは座いすに座り、たらいにためた水に足をつけるところから。

次は水着を着て、赤ちゃん用のお風呂に入って。

そして去年の夏は、初めてみんなと一緒にプールにも入りました。

酸素吸入用の管がぬれていいのか、抜けてしまわないか、主治医や訪問看護師に相談しながら慎重に。
「できるかぎり楽しんでほしい」
「でも体調への影響は最小限に」

2つの思いの間で、2人は試行錯誤を繰り返しました。
看護師の伊東さん
「最初はどうなっていくのか全然予想がつかなかった。看護師の自分でも、ゆかりちゃんの成長は精神面でも肉体面でも未知の世界でした。

そのなかで、ちょっとずつできることが増えていって。それができたのなら今度はこれにチャレンジしようって、いつからか私も一緒に楽しむようになっていました」
一方、家に帰ってもゆかりちゃんのために何ができるか考えるようになっていたという保育士の宮崎さん。

指先の力がつくようにと、容器に穴をあけてペットボトルのふたを入れるおもちゃを手作りしたこともありました。

苦戦していたゆかりちゃん。

でも、少しずつ握力がついてきてふたを入れることができると、うれしそうにニコーッと笑ったといいます。
保育士の宮崎さん
「笑顔をみると、ああ楽しいんだな、よかった、って思って。最初は大変でしたけど、あの子が与えてくれた力が大きくて。なんで私たちこんなに一生懸命になれるんだろうってくらいの力なんです」

突然のお別れ

去年の8月31日。

記者の携帯電話に美江子さんからメッセージが届きました。

「縁ちゃんが亡くなりました。お顔を見に来ていただけたら、と」

4日ほど前からせきが出始めたゆかりちゃん。
翌日にはおう吐もあり、病院に入院しました。

これまでも季節の変わり目にはよく体調を崩し、入院することもありました。
今回もきっと大丈夫。
そう信じて、両親は交代で付き添っていました。

しかし、ゆかりちゃんの意識は徐々に失われていきました。

「いつ亡くなるかわからない」と言われて生まれてきたゆかりちゃん。

「もうだめです」と言われたことも何度もありましたが、そのたびに乗り越えて誕生日を重ね、6歳まで命をつないできました。

きっと大丈夫。

しかし、意識が戻ることはありませんでした。

せめて最後は家に帰してあげたい。

ゆかりちゃんは明秀さんの運転する車で美江子さんに抱かれながら家に帰りました。

「一緒に家に帰ろう」

高速道路を走って揺れる車の中、ゆかりちゃんの呼吸は美江子さんの腕の中で少しずつ弱くなっていきました。

ひまわりに囲まれて

帰り着いた家には、たくさんの花やメッセージが届けられました。

大好きなアンパンマンの布団にくるまれたゆかりちゃんのまわりには、ひまわりをはじめ、ピンクや黄色の明るい花々が並んでいました。

ゆかりちゃんに出会った人たちがゆかりちゃんの笑顔を思い、持ち寄った花々でした。
会いに来てくれる人たちのために美江子さんが作ったはがきには、うれしそうに笑うゆかりちゃんとひまわりが写っています。

「一番幸せだったことは、家族みんなで川の字になって眠れる夜。たくさんの笑顔をありがとう。たくさんの出会いをありがとう。たくさんたくさんありがとう」

ゆかりちゃんが生きていくためには、家族だけでなく医師や看護師、保育士など多くの人の助けが必要でした。


家を出て散歩することから始まり、旅をする、保育園に通うなど、新しいことに一歩踏み出すたびに、新しく助けてくれる人が増えていきました。

決して、すべてが順調ではありませんでした。世間の考えとの違いに悩んだり、つらさで立ち止まる時もありました。

それでも、関わった人たちはみな、まわりの助けに支えられて次の一歩を踏み出し続けることができました。

その中心にあったのは、いつもゆかりちゃんの笑顔でした。

ゆかりちゃんがのこしてくれたもの

亡くなって2か月余りたった去年10月下旬。

両親のもとを訪ねました。
自宅にあった新しい車いす。

保育園を卒園後のことし4月から、小学校の特別支援学級に通うために準備していたものです。

ゆかりちゃんの3歳年下の妹が押して遊んでいました。
美江子さん・明秀さん
「ゆかりちゃんはたくさんの人とつながっていたんだなと思います。私たち家族もゆかりちゃんを通じてたくさんの人とつながり、助けてもらってきました。本当に皆さんに感謝で、助けていただいたからこその6年間でした。

そうした人との“縁”をつないでくれたのは、すべてゆかりちゃんだった。あの笑顔だったんだなと、感じています。ゆかりちゃんの妹と弟にも、こういうお姉ちゃんだったんだよと伝えていきたいと思います」
ゆかりちゃんが通っていた保育園も訪ねました。

保育士の宮崎さんと看護師の伊東さんが、ゆかりちゃんが好きだった場所などを案内してくれたあと、1枚の写真のことを教えてくれました。
亡くなる1週間ほど前、ゆかりちゃんが保育園で一緒に過ごしたもう1人の医療的ケア児のお友達、たいきくんの手を取った時の様子でした。

初めてのことで、ゆかりちゃんの方からそっと握ったということです。

園には今、2人のケア児が通っています。

ゆかりちゃんが駆け抜けた軌跡は、園の先生、子どもたち、そして一緒に過ごした多くの人たちに受け継がれています。
前橋放送局記者
丹羽由香
2017年入局
去年11月まで福井局で勤務。
3年前、ゆかりちゃんがつないだ“縁”に加えてもらいました