元オリンピアンが羽生結弦に見た”良き敗者”の姿勢

元オリンピアンが羽生結弦に見た”良き敗者”の姿勢
北京オリンピックのフィギュアスケートで羽生結弦は4位となり、3大会連続の金メダルはならなかった。

それでも前人未到の4回転半ジャンプへの挑戦や競技後に発したことばは多くの人の心を捉えた。

望まない結果を突きつけられても悔しさを押し殺し、潔く勝者をたたえるよき敗者、「Good Loser」(グッドルーザー)の姿勢を見た元オリンピアンたちがいる。

思わぬアクシデントに羽生が発したことば

羽生は前半のショートプログラム、冒頭のジャンプが「穴」にはまり1回転になってしまった。このミスが響いて8位と大きく出遅れた。演技後、取材に応じた羽生は混乱する気持ちを整理して話し始めた。
羽生選手
「もう…なんか悪いことしてたんですかね。なんかそれぐらい、そんな氷に嫌われるようなことしたかなって思いながらインタビューをずっと受けています」

彼のことば よくわかるんです

北京からおよそ1500キロ離れた宮崎市。羽生の中継インタビューをテレビで食い入るように見た男がいた。マラソンで1991年の世界選手権を制した往年の名ランナー谷口浩美(61)だ。

金メダルを期待されながらもよくとしのバルセロナオリンピックで8位となった自身の姿を重ねていた。
谷口さん
「悔しいに決まっているはずです。アスリートは4年に1度のオリンピックにすべてを賭けていますから。でもアクシデントは防ぎようはないし、誰かを責める気にもならない。思わず出た彼のことば、私にはよくわかるんですよ」
谷口は今から30年前のレース当日。強い日ざしが照りつけるスタート地点に立った時に「雰囲気としていける」と直感した。さらに午後6時半、レースがスタートし、序盤は好都合というスローペースの展開となった。
その後、あのアクシデントが起きたのは先頭集団の中で走っていた20キロすぎの給水地点。机に置かれた給水用のボトルをつかんだ時に左足のかかとを踏まれたのだ。

シューズが脱げて1歩2歩と足を出したあと横向きに転倒した。
谷口はその瞬間の出来事を今もはっきりと覚えている。
谷口さん
「足を踏まれて転倒するまで『骨折しないようにうまくこけなきゃ』とか『踏まれて脱げたシューズの場所はどこだ』とかあの一瞬が走馬灯のようにゆっくり流れて、いろんな考えが巡りました」

「こけちゃいました」の真意は…

シューズをはき直し再び走り始めるまで約30秒。先頭集団はすでに150メートル以上先にいたはずだ。それでも谷口は勝負を諦めず、「さぁ再スタート」と気持ちを奮い立たせて前を走るランナーを追った。

先頭集団から脱落したランナーを1人1人と追い抜いて競技場に入った時にちょうど先頭がテープを切った姿が目に入ったという。

「あ、こんな差かもったいない」。
最終的に8位まで順位を上げ、入賞にこぎつけた谷口はそう思った。レース直後の取材ではカメラの前で笑顔を見せた。

「途中でこけちゃいました。まぁこれも運ですね、精いっぱいやりました」

あの時の心境を改めて振り返った。
谷口さん
「転倒したことを皆さん、知らないと思っていたんです。金メダルを期待されながらそれに応えられなかった申し訳なさや悔しさ、でも8位入賞を果たせたどこか安どした気持ち、いろんな思いが交錯するなかで状況を説明しようと発したひと言だったんです」
足を踏まれて転倒したことをメダルを逃した言い訳にせず、谷口は結果を受け入れた。その年、フェアプレーをたたえる賞を受賞した。

「状況を説明しただけなのに変な評価されちゃったよね。ちょっと恥ずかしいという思いもありました」

次に生かしてほしい

オリンピックという大舞台でのアクシデント。自身の姿と重なったのは発言だけではないという。
谷口さん
「羽生選手も最初のミスの後は完璧な演技をしていました。普通の選手なら気持ちが切れてもおかしくないのにそこから立て直せるのだからすごいことです。私自身もこけた後、集中力を切らさずにレースに入れたからこそ8位入賞という結果がついてきたと思います」
当時と変わらない柔らかな口調で話す谷口は羽生選手の思いを推察する。
谷口さん
「本当の悔しさというのは時間がたってからじわじわくるんです。あのトラック1周分、なぜ届かなかったのだろうと。その悔しさが次につながるんです。だから羽生選手もきっと今回の悔しさを次に生かすんじゃないかな」
谷口は競技を続け、4年後のアトランタオリンピックにも出場した。現役引退後は実業団チームの監督などを経て今は地元・宮崎大学特別教授の立場で走ることのすばらしさを伝えている。

報われない努力と向き合う

羽生は8位からの巻き返しを期して後半フリーの演技に臨み、4回転半ジャンプに挑んだ。4回転半ジャンプは認められたものの、着氷後にバランスを崩し転倒。順位を上げて4位になったが、オリンピック3連覇は果たせなかった。
羽生選手
「正直言っちゃうと努力って報われないなと思いました。いろんなことを積んできてもどんなに正しいことをやってきても、報われないときは報われないんだなって」
それでも、こうことばをつなげた。
「正直、全部出し切りました。本当に思い残すことなく最初からギア全開でアクセルもしめることができたと思いますし、成功させにいけました。それはもう僕の財産」

全力を出し切ったこそ言える本音

オリンピックに5大会連続で出場したモーグルの上村愛子(42)は
羽生の胸の内をこう読み解いた。
上村さん
「羽生選手ほどのレベルになるとおそらく勝ったときに話す内容まである程度考えて試合に臨んでいたと思います。でも予期せぬことで自身が思っていた結果がでなかったときほど、アスリートがこれまで抱えていた苦悩が見られると思います」
上村にも苦い記憶がある。4回目の出場となった2010年のバンクーバーオリンピックはその前のシーズンで世界選手権を制すなど結果を残しメダル候補だった。決勝はスピードに乗ったターンで序盤から攻めたが、最後のジャンプの着地で板が広がりメダルにわずかに届かず4位に終わった。

レース後、上村はオリンピックの順位が初出場の時から7位、6位、5位だったことを踏まえ「なんでこんな(順位が)1段1段なんだろうと思いました」と涙を浮かべた。
上村さん
「受け入れがたい結果で頭がごちゃごちゃした中で出たことばではありました。ただ、その前のオリンピックから4年間積み上げてきたものがあったからこそ、あのことばが出たんだと思っています」
上村は「すべてを出し切った」と話す羽生のことばが理解できるという。そして「氷に嫌われるようなことしたかなって」という発言については。
上村さん
「あそこまでフィギュアスケート、アイスリンクに感謝する人だから、深いところでどういう気持ちで言ったのか私も聞きたいなと。彼は世界観のある人なので、想像しても違う考えをしているかもなので」
「私もスキーの神様を信じています。スキーができているのは雪があることとか、ケガが少なかったことが守られているのかなって。じん帯が強いだけかもしれないですが、ちょっと私も好かれていたのかなって。羽生選手と同じとはさすがに言えないですが、彼はスケートに愛されていると思えますよね」

勝者をたたえる姿勢に感銘

フリーの演技から4日後。会見を行った羽生は冒頭、手を挙げて発言を求めた。
羽生選手
「金メダルをとったネイサン・チェン選手。本当にすばらしい演技だったと思いますし、やっぱりオリンピックの金メダルは本当にすごいことなんです。彼には4年前の悔しさがあってそれを克服した今があって、本当にすばらしいことだと思っています」
そして続けた。
「氷を作ってくださった方に感謝を申し上げたいです。ショートプログラムの時に、氷に引っかかってしまって、なんかちょっと不運なミスだなというか、悔しかった部分ももちろんあります。けど本当に滑りやすくて跳びやすくて、気持ちのいい会場で、気持ちのいいリンクでした」
Jリーグの初代チェアマンや日本サッカー協会の会長を務めた川淵三郎(85)。今は日本トップリーグ連携機構の会長だ。羽生が見せた会見にアスリートとしての品位が表れていたと感じた。
川淵さん
「羽生選手が会見冒頭に相手を称賛する姿勢、そして周囲への感謝を伝えました。これこそがまさにフェアプレーの精神、『グッドルーザー』の規範たる発言でした」
川淵はこの価値観を今から約60年前、「日本サッカーの父」と呼ばれたドイツ人コーチ、デットマール・クラマーから学んだ。1964年の東京オリンピック日本代表の選手だった川淵はミーティングで発したクラマーのことばを今も鮮明に覚えている。
川淵さん
「クラマーが指導者として目指すべきチーム作りで3つの項目を掲げました。1つ目はフェアプレー、2つ目はグッドゲーム、最後の3つ目がウィンと。選手だった私は勝利は3番目かと驚いたものです」
クラマーの人間力を大切にした指導はその後の私の人生に大きな影響を与えました。その後も多くの外国人指導者に会ってきましたが、彼ほど人間力に優れた人はいませんでした。

組織のトップとしてグッドルーザーの精神を伝える

川淵はJリーグ創設時にもフェアプレー精神を掲げ、選手としてのふるまいをくちすっぱく説いてきた。しかし決勝戦のあとの表彰式で準優勝のチームの態度に不快な思いをしたことがあった。

試合に敗れた悔しさをあからさまに表情に出したり、いやいや握手に応じたりする選手に怒りの感情すら覚えたのだ。
川淵さん
「選手は胸を張って敗者のきょうじを示すことで次の戦いやステップに向かうことができるのです。だからこそ羽生選手の姿はかつてクラマーが掲げた『グッドルーザー』、そのものだったし、私たちは彼のことばに耳を傾けるのだと思います」
川淵はグッドルーザーの精神は私たちの人生の考え方にもつながっていると話す。
川淵さん
「人生には理不尽な出来事やうまくいかないことが多々あると思います。そうした時に羽生選手やかつてのアスリートが残したことばや姿勢が私たちに前を向く勇気やきっかけをくれるはずです。スポーツはそうした力を持つことを私は信じています」
北京オリンピックで日本は過去最多となる18個のメダルを獲得した。

元オリンピアンが見たグッドルーザーの姿勢。今後もさまざまな形で語り継がれることになるだろう。
ネットワーク報道部記者
松本裕樹
全国各地でスポーツの取材を続けてきた。
スポーツが持っている力を信じている。