被爆体験 “命ある限り”語り継ぐ

被爆体験 “命ある限り”語り継ぐ
悲惨な被爆体験を戦後70年以上にわたって語ることができなかった被爆者がいます。岡信子さんです。去年夏、「長崎原爆の日」の平和祈念式典。岡さんは沈黙を破り、92歳、過去最高齢の「被爆者代表」として、世界に向けて力強く核兵器廃絶を訴えました。そのわずか3か月後にがんで亡くなった岡さん。岡さんが命をかけて伝えようとしたメッセージとは。
(World News部記者 吉田麻由)

“人生最後の門出”

私が岡信子さんと初めて出会ったのは去年6月2日でした。この年の被爆者代表を発表する長崎市の記者会見でのことでした。

「岡信子さんって誰?」。会見の5分ほど前、市の担当者から岡さんのプロフィールが配られました。その場にいた記者、誰1人、岡さんのことを知りませんでした。被爆者代表は公募で毎年1人、長崎市の審査会が選んでいます。これまで、核兵器の廃絶運動に長年取り組んできた被爆者などが選ばれてきました。ところが、岡さんは、核兵器廃絶の運動に加わったことがなく、そもそも被爆体験を人前で語った経験さえほとんどないと言うのです。
市の担当者から名前を呼ばれた岡さんは、ゆっくりとした足取りで会見場に入ってきました。そして記者の質問に対し、丁寧に受け答えをしていました。

「初めての『平和への誓い』にはどういった思いを込めたいですか」と私が尋ねると、岡さんは、まっすぐ私の目をみてこう話してくれました。

「核兵器のない世界にしたい。もう私たちの苦しい思いを次の世代の人たちに繰り返したくはありません。私も92歳になり、人生最後の門出だと思い、精一杯務めを果たしたいです」

“地獄”のような光景だった

私は岡さんにさらに話を聞くため、自宅にも伺いました。
「生き地獄とはまさにこのことかと思いました。今でも当時のことは鮮明に覚えています」
岡さんは、ときおり涙を浮かべながら被爆の経験を話してくれました。岡さんの長崎市内の自宅は爆心地から1.8キロのところにありました。16歳のときでした。原爆が投下され、爆風で吹き飛ばされた岡さん。意識が戻ったときには左半身のあちこちにガラスの破片が突き刺さり大けがをしていました。しかし看護学生だった岡さんは、爆心地からおよそ3キロの救護所に動員され、けが人の手当にあたったのです。そこで目にしたのは想像も絶するような光景でした。
「救護所は隙間がないほど、運び込まれた人たちでいっぱいでした。廊下でも大勢の人たちが苦しそうに寝ていて、亡くなった人も少なくありませんでした。皮膚や肉が垂れ下がったり、腹が引き裂かれていて、治療ができるような状況ではありませんでした。まさに地獄のような光景でした」
痛みに耐えることができず、救護所から飛び降りた人もいたということです。遺体は腐乱していき、ガラスが突き刺さった岡さんの足の傷にもウジがわいていました。戦争が終わったあとも、岡さんにとってこうした被爆体験はあまりに辛い記憶であり、当時の救護所があった場所に近づくだけで頭痛や目まいに襲われてしまうほどでした。岡さんは、戦後70年以上にわたって被爆体験を周囲に語ることはありませんでした。岡さんが被爆を話してこなかった理由はほかにもありました。

「原爆症が伝染するのではないか」と心ない言葉を繰り返し浴びせられるなど、被爆者に対する差別や偏見にも苦しめられてきたからです。それにも関わらず、70年の歳月を経て、岡さんが沈黙を破り、被爆体験を語り始めたのはなぜだったのでしょうか。岡さんの思いを伝える手紙が残っています。岡さんが3年前、友人宛てに送ったものです。
来年は原爆75年節目でございます。被爆者も高齢となり、いなくなるのも遠いことではないでしょう
岡さんは被爆者がいなくなったあと被爆体験をどうやって語り継いでいくのか、とても心配していたということです。厚生労働省のまとめによると被爆者の平均年齢は83.94歳となり高齢化が進んでいます。被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は、多い時には37万人を超えていましたが、去年3月末現在では全国で12万7755人と、この10年で9万人あまり減っています。岡さんは周りの被爆者たちが次々に亡くなるのを見て、まだ生きているうちに被爆の経験を語ることが自分の使命ではないかと思うようになったのです。

“命のある限り” 核兵器の廃絶を訴えたい

去年8月9日、青空が広がるなかで「長崎原爆の日」の平和祈念式典が行われました。岡さんは、背筋を伸ばして壇上に立ち、「平和への誓い」を力強く読み上げました。

「私たち被爆者は命ある限り、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います」

岡さんが多くの人たちの前で初めて語った被爆経験。スピーチのあと、会場にいた人たちからは「良く経験を語ってくれました」と感謝の声が多く聞かれました。様々な葛藤を抱えながら、懸命に戦後を生き抜き、最後は、大きな舞台で、核廃絶を世界に向けて訴えた岡さん。会場で聞いていた私は、勇気ある岡さんにエールを送りたいと心から思いました。

岡さんから託されたメッセージ

岡さんはその3か月後の去年11月に肺がんで亡くなりました。岡さんは、最後の日々のなかでまさに“命ある限り”平和へのメッセージを若者たちに託そうとしました。

長崎純心大学の鍜治美里さん(20)やその友人達です。鍜治さんたちは、大学の教授の紹介で岡さんと去年初めに知り合い、被爆体験を聞き取ることになりました。みな被爆者と交流し色々と話を聞くのは初めてのことでした。岡さんに4回面会し、聞き取りは5時間に及びました。
鍜治美里さん
「岡さんは、『私たちには青春時代はなかったから、あなたたちの青春を守りたい』と何度もいっていました。今ある平和が決して当たり前ではないということを強く感じました」
さらに岡さんが証言を重ねるなかでトーンを強めていったのが、“被爆体験の風化”に対する危機感でした。鍜治さんたちも、被爆地・長崎でさえ、原爆への関心が低くなっているのではないかと感じたことがあります。毎年8月9日、長崎では原爆が炸裂した時間に合わせて市内にサイレンが鳴り響きます。人々は亡くなった人たちを悼むため1分間の黙とうを捧げます。ところが、去年、市内の中心部ではこのサイレンに気をとめないでスマホを見ていたり、歩き続けたりする人たちの姿が目立ったのです。岡さんも、亡くなる直前の去年10月、鍜治さんたちに対して次のように語っています。
岡さん
「5年、10年経ったときに原爆が風化していくのではないか。それが心配です」
岡さんは、自分が亡くなったあとも、目にした長崎の惨状を語り継いでほしいと鍛治さんに訴え続けたのです。

被爆体験を世代を超えて語り継ぐ

岡さんの遺志を受け継いだ鍜治さんたちはさっそく行動を起こしています。去年12月、鍜治さんは東京の高校とオンラインで授業を行い、岡さんの被爆体験を自分のことばで高校生たちに語りました。
鍜冶さん
「生き地獄を16歳で体験された岡さん。看護師となってからも被爆者というだけで差別を受けました。私たち被爆者がどんな悪いことをしたのかとおっしゃっていました」
鍜冶さんの話に、生徒たちは真剣な表情で耳を傾けていました。そして、鍜治さんは岡さんとの交流を通して自ら気づいたあることを紹介しました。
鍜冶さん
「岡さんは常に周りの人のことを考える、優しい方でした。救護所でも自ら被爆しながら懸命に他の人たちの手当にあたっていました。平和のために一人ひとり思いやりを持つことが大切だということを教えてくれました」
男子生徒
「戦争とか原爆とか知っているつもりでしたが、岡さんの体験は生々しく、自分だったら耐えられないと思いました。今の生活が決して当たり前ではなく、ずっと続く保証はない。周りにいる人たちを大切にしたいと思いました」
女子生徒
「原爆や戦争が起こると、人々は必ず苦しむので何があってもよくないと思った。自分は戦争を体験していませんが、鍜冶さんが伝えてくれることによって、岡さんの体験を知ることができ、核兵器の危険性について身近な問題だと感じました」
岡さんの被爆体験を決して風化させてはいけない。鍜治さんは強い気持ちでこれからも核兵器廃絶と平和を訴えていきたいと思っています。
鍛治さん
「平和は維持するだけじゃなくて、次の世代にもつなげていくことが大切だと思います。原爆について、自分ごととしてとらえてもらえるよう、平和の尊さ、原爆の悲惨さを伝えていきたいと思います」

取材後記

去年9月、がんが見つかった直後、岡さんから電話がかかってきました。

「不思議とね、がんは全然怖くないの。これまでなかなか話せなかった原爆の話をもっともっと話す覚悟ができました」

はきはきとした、力強い岡さんのことばを今でもはっきりと覚えています。ただ、その後、岡さんが体調を崩していって、会えなかったことを残念に思っています。

岡さんの死を受けて、“被爆体験の風化”がいかに差し迫った課題なのか。わがこととして考えるようになりました。一方で取材をしていて希望もあると感じています。長崎・広島以外の若者の間でも、被爆者の声を届けようと新たな活動が次々に始まっているからです。被爆者のオンライン証言や、核兵器禁止条約に賛同するかしないか、議員一人一人に聞き、その結果をインターネットで公開する活動など、SNSを駆使した新しい形の運動が広がっています。

去年1月には、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。岡さんも生前、条約の発効を歓迎していましたが、核保有国や日本も批准していないことについて「私たち被爆者の声は本当に届いているのか」と不安もいだいていました。

「核兵器はなくせると思いますか」と尋ねると、岡さんは「被爆者一人一人の話に耳を傾けてほしい。私たちがどれだけの苦しみを耐えてきたのか分かれば、核兵器をなくさないといけないと思うはずです」と話していました。

ことしは核兵器禁止条約の初めての締約国会議、NPT=核拡散防止条約の再検討会議が開かれる予定です。核保有国や核の傘の下にある国々は、被爆者やその意思を引き継ぐ若者たちの訴えを真摯(しんし)に受け止め、透明性のある議論を行い、核軍縮に向けて具体的な道筋を示すことが求められています。
World News部記者
吉田麻由
2015年入局。金沢局、長崎局を経て、去年11月から現職。長崎では高齢化が進む被爆者の声を伝えるとともに、核軍縮をめぐる国際的な動きやローマ教皇の訪問を取材してきた。