石原慎太郎氏が死去 各界から悼む声

東京都知事や運輸大臣などを務め、芥川賞作家としても知られる石原慎太郎氏が、2月1日、亡くなりました。89歳でした。
石原氏の死去を受けて、各界から悼む声が上がっています。

岸田首相「重責を担い大きな足跡を残された 寂しいかぎり」

岸田総理大臣は、総理大臣官邸で記者団に対し「心より哀悼の誠を捧げる。石原さんは、1956年に芥川賞を受賞し、その後、政界に転じて衆参両院で活躍された。その間、環境庁長官、運輸大臣と重責を担い大きな足跡を残された。そして東京都知事として13年間、都政のトップを担われた」と述べました。

そのうえで「政治の世界における偉大な先達が、またお一人お亡くなりになられたことは寂しいかぎりだ。改めてその功績に心から敬意を表するとともに、お悔やみを申し上げたい」と述べました。

自民で政調会長など歴任 亀井静香氏「『太陽が沈んだ』」

自民党の政務調査会長などを務めた亀井静香氏は、NHKの取材に対し「『太陽が沈んだ』。彼は現代の最高の知性だった。亡くなったとしても、彼の影響力は、ずっと続くだろう。その意味では『また太陽は必ず昇る』」と述べました。

亀井氏は「去年12月初めに彼の自宅で面会する機会があったが、あれが最後になってしまった。体調が悪いようで、元気もなかった。それでも、別れる時には手を握りあい『元気で頑張れよ』と声をかけたが、彼は涙を流していた」と振り返っていました。

また亀井氏は、石原慎太郎氏の自宅に弔問に訪れたあと記者団に対し「石原さんは死んでしまった。知の巨人だった。ただ、はかないね」と涙ぐみながら話しました。

石原都政で副知事 安藤立美氏「歯切れよいリーダーだった」

石原都政で副知事を務めた東京信用保証協会の安藤立美理事長は「国に対しても職員に対しても、はっきりものを言う歯切れがよいリーダーだった。突破力があり、本当に魅力的な人でこんなに早く亡くなったと聞いて、残念でならない」と話しています。

ジャーナリスト 田原総一朗さん「大きな衝撃で仰天 大ショック」

長年、親交のあったジャーナリストの田原総一朗さんは、石原慎太郎さんの死去について「大きな衝撃で仰天した。大ショックだ」としたうえで「自分の前ではどなったりすることは決してなく、穏やかな人だった」としのびました。

田原さんは石原さんのデビュー作「太陽の季節」について「かつては自分も小説家になろうと思っていたが、この作品を読んで挫折した。それほどまでに衝撃的だった」と振り返りました。

また、政治家としての石原さんについては「日本の自立の重要性をこれほど明確に主張した人はいない」としたうえで「『作家としては100%認めるが、政治家としては認めない』と言ったら、大げんかになったこともあったが『考えは違うが互いに信じている』というようなことばを交わしたことを覚えている」と話しました。

そして「石原さんのような主張をしっかりと引き継ぐ人は出てきておらず、極めて残念だ」とも話していました。

自民 茂木幹事長「カリスマ性あり 時代代表する政治家 言論人」

自民党の茂木幹事長は、記者団に対し「カリスマ性があり、時代を代表する政治家で言論人だった。東京都知事になってからは、まさに威風堂々、歯にきぬ着せぬ、そして国家観を語るすばらしい政治家だった。お亡くなりになったことに大きな喪失感を持っている。心からお悔やみ申し上げたい」と述べました。

自民 安倍元首相「既成概念に挑戦し続けた政治家」

自民党の安倍元総理大臣は、国会内で記者団に対し「まだまだお元気だと思っていたので、大変驚き、本当に残念だ。戦後に形づくられたさまざまな既成概念に挑戦し続けた政治家で、東京都知事としても、特に環境面で大きな実績を残し、批判を恐れず、言うべきことは言う姿勢で一貫していた。さっそうとした姿が今でも目に焼き付いている。心からご冥福をお祈りしたい」と述べました。

自民 二階元幹事長「惜しい政治家を亡くした」

自民党の二階元幹事長は、国会内で記者団に対し「突然のことで大変な衝撃を受けている。石原氏は、新しい感覚、新しい角度で積極的な発言をされ、われわれは大いに触発されてきた。惜しい政治家を亡くしたと思う。石原氏の活躍のあとをたどりながら、みんなで頑張っていかなくてはならない」と述べました。

自民 古屋憲法改正実現本部長「遺志に応え改憲実現を」

自民党の古屋憲法改正実現本部長は、党本部で行われた会合で「いよいよ憲法改正の実現に向けて大きな一歩を踏み出そうとする中、石原氏が他界した。石原氏は議員時代から、憲法改正を堂々と主張していた数少ない議員の1人で、その強い遺志に応えていきたい」と述べました。

自民 長島昭久衆院議員「政界でおやじのような存在」

自民党の長島昭久衆議院議員は、NHKの取材に対し「次男の良純氏と小学校の同級生だったこともあり、昔からつきあいがあった。政界でもおやじのような存在で、いろいろなことを教えてもらった。本当に魅力的な人だった。日本民族の行く末を常に案じ、将来を憂えていた」と振り返りました。

また長島氏は、民主党政権で総理大臣補佐官を務めていた2012年に、沖縄県の尖閣諸島の国有化にあたって、当時、東京都知事で、購入を表明していた石原氏と水面下で交渉していました。

これについて「『また来たのか』とか『お前らは外務省にだまされている』などと言われたが、最終的に国が買うときは『しょうがない。もともと国がやるべきことだ』と矛を収めてくれた。私が官邸と東京都の間で苦しんでいるのをあわれに思ってくれたのかもしれない」と述べました。

維新 松井代表「経験豊富 丁寧な指導に感謝」

日本維新の会の松井代表は記者団に対し「経験豊富で日本の問題点を熟知している方で、同じ政党で活動させてもらった際は経験不足なわれわれに丁寧に指導をしてくださり感謝している。タフな人なので、100歳くらいまでお元気なんだろうなと想像していたので、非常にさみしいし残念だ。ご冥福をお祈りしたい」と述べました。

維新 馬場共同代表「生の政治について指導していただいた」

2012年に石原氏が国政復帰した際の衆議院選挙で、石原氏と同じ党で初当選した日本維新の会の馬場共同代表は、記者会見で「石原氏には、初当選前から目をかけていただき、生の政治について指導していただいた。当時の日本維新の会は、東京など、関東でもたくさんの当選者が生まれ、東京と大阪で日本を引っ張っていくという理念で尽力いただいた。心から感謝を申し上げるとともにご冥福をお祈りしたい」と述べました。

維新 鈴木宗男参院議員「筋を通す 芯がある政治家」

故・中川一郎元農林水産大臣の秘書として、石原氏や中川氏が結成した「青嵐会」の様子を知る日本維新の会の鈴木宗男 参議院議員は、記者団に対し「『青嵐会』を結成する際、石原氏が『ことをなすならば決意と覚悟が必要で、血判した同志がこぞって初めてことをなせる』と主張し、血判状をつくった。筋を通す、芯がある政治家だった」と述べました。

そのうえで、鈴木氏は「けれんみのない言いぶりの石原氏と、誰よりもはっきりものを言う中川氏だったので、天国では『もう1回、青嵐会をやるぞ』なんて話をされるんじゃないか」と述べました。

映画監督 篠田正浩氏「同世代 また1人いなくなってしまった」

石原慎太郎さんの短編小説「乾いた花」を映画化した篠田正浩監督は「僕たちは同世代で、敗戦の中で途方にくれ、絶望と希望という異なる2つの力に引き裂かれたような少年時代をともに過ごした。映画や文学で交差した世代がまた1人、いなくなってしまった」と落胆したように話しました。

そのうえで、映画「乾いた花」を石原さんが見たときのことについて「あのシビアな男が『俺の原作でこんな映画ができるとは思ってもみなかった。原作よりもいい』と喜んでくれた」と当時のエピソードを明かしました。

そして石原さんについて「政治家として大衆的な人気を得ようという気はもとからなく、世間との衝突もいとわない人だった」と振り返りました。

「乾いた花」は、2月に開かれるベルリン国際映画祭のクラシック部門で上映されるということで、篠田さんは「彼の小説を原作とした映画の上映は、僕から彼への贈り物になったのではないか」と話しました。

芥川賞受賞 田中慎弥さん「一度 お目にかかりたかった」

芥川賞の選考委員も務めた石原慎太郎さんの死去について、作家の田中慎弥さんは、まず「一度でいいのでお目にかかりたかった」と話しました。

田中さんは、石原さんが芥川賞の選考委員と東京都知事を同時に務めていた2012年に芥川賞に選ばれました。

そして、受賞が決まったあとの記者会見では「断ろうと思ったが、都知事閣下と東京都民各位のためにもらっといてやる」などと述べて物議を醸しました。

NHKの取材に対し、田中さんは石原さんに直接、会ったことはないとしたうえで「石原さんからは、当時の選評で『田中氏が持っている要素は長編にまとめたほうがいい』というふうに評されたと記憶している。私自身はいまだに短編に向いていると考えているが、今は長編に挑戦しているので、石原さんのことばが外れなのか、当たりなのか、気になっている」と話していました。

俳優 舘ひろしさん「偉大で稀有な存在」

石原慎太郎さんの弟の裕次郎さんが設立した石原プロモーションで活動した俳優の舘ひろしさんが、石原さんの死去を受けてコメントを発表しました。

舘さんはこの中で、都知事在任中の石原さんの功績に触れながら「夕暮れどき、高速から見た東京の空から、ある日スモッグが消えていました。政治家として、あるいは作家として、偉大で稀有な存在でした。また、男としても多くのことを学ばせていただきました。心よりご冥福をお祈り申し上げます」としています。

野田元首相「尖閣諸島めぐる激論 忘れられない」

総理大臣時代に、沖縄県の尖閣諸島の国有化をめぐって、当時の石原都知事とみずから交渉をおこなった野田元総理大臣は、NHKの取材に対し「2012年8月19日の夜、総理大臣公邸に石原氏をお招きして、1時間半、尖閣諸島をめぐって、かんかんがくがくの激論を戦わせたことは今でも忘れられない。最終的にわれわれが目指した国有化が決まったあとは、石原氏は酷評したり、足を引っ張ったりすることもなく、さっぱりされていた。まさに国士のように、この国の将来を考えていらっしゃった方なので、本当に残念だ」と述べました。

松野官房長官「心から哀悼の意」

松野官房長官は、午後の記者会見で「石原氏は、作家として数々の作品を残された。また、参議院議員、衆議院議員、環境庁長官、運輸大臣を歴任されるとともに13年余りにわたって東京都知事を務め、国政と都政のさまざまな課題に力を尽くされた。心から哀悼の意を表し、謹んでご冥福をお祈りする」と述べました。

そして、思い出に残る石原氏の著書について記者団から質問されたのに対し「学生のころに『太陽の季節』は読んだ。さまざまエッセー関係も読んでいる」と述べました。

元都知事 猪瀬直樹氏「存在感のある人だった 喪失感が大きい」

東京都の元知事で、石原氏が都知事時代に副知事を務めた、作家の猪瀬直樹氏がNHKの取材に応じ、石原氏について「存在感のある人だった。喪失感が大きい」などと心境を明かしました。

猪瀬氏は1日午後、都内にあるオフィスで取材に応じました。

石原氏が亡くなったことについて「体調がよくないとは聞いていたが、亡くなったと聞いて喪失感が大きい。自分にとって存在感のある人だった。後世に名を残す人だと思う」などと心境を明かしました。

そのうえで、石原氏の人柄について「根底にあるのは作家としての姿で『ことばで伝えるのが政治なんだ』という信条を持っていた。表現力のあることばを使う一方、単刀直入な物言いで、時に失言もあったが人間味のある人だった」と話していました。

そして、印象に残る出来事として都内の料亭で副知事になってほしいと頭を下げてお願いされたエピソードを披露しました。

猪瀬氏は「傲慢な印象を持つ人もいるかもしれないが、ふだんは穏やかで、数年前に自宅に招いてくれた際、自身が描いた絵を無邪気に披露する姿が強く印象に残っている」と話していました。

小池都知事がコメント「強い思いを受け継ぎ 尽力」

元東京都知事の石原慎太郎氏が死去したことを受けて、小池知事はコメントを出しました。

この中で小池知事は「突然の訃報に接し、大変残念でなりません。心よりご冥福をお祈りいたします。『東京から国を変える』との強い信念のもと、都政を力強くけん引してこられました。ディーゼル車規制をはじめ、都政に残された数々の功績はいまなお貴重なレガシーとして東京にしっかり根付いています」としています。

そのうえで「東京オリンピック・パラリンピックは、石原元知事がみずから招致を表明された大会で、この成功を跳躍台として東京の希望ある未来を力強く切りひらいていく。今、都政に課された使命に、首都・東京の発展に対する元知事の強い思いを受け継ぎ、尽力していく決意です」としています。

東京五輪・パラ 組織委 橋本会長「レガシー 大事に育てていく」

2016年と2020年の2回にわたって、東京オリンピック・パラリンピックの招致に携わり、組織委員会の顧問を務めていた石原慎太郎氏が亡くなったことについて、東京大会の組織委員会の橋本会長は「オールジャパンの旗のもと、2016年大会の招致活動が力強く推進されたのは石原氏のリーダーシップがあってのものでした。その火を消してはならないと、2020年大会の招致に挑む決意をしていただいたからこそ昨年夏の大会の開催があります。石原氏のご遺志を引き継ぎ、コロナ禍という困難を乗り越えて開催された東京大会のレガシーを、将来にわたって大事に育てていきたいと思います」というコメントを発表しました。

JOC 山下会長がコメント「日本スポーツ界の発展に多大なる貢献」

JOC=日本オリンピック委員会の山下泰裕会長は、石原慎太郎さんの死去について「石原元東京都知事の訃報を伺って、大変驚いている。哀悼の意を表するとともに、故人様のご冥福をお祈りいたします。東京2020オリンピック・パラリンピックの開催は、石原元知事のご尽力、決断があったからこそ実現できた。これまで日本スポーツ界の発展のために、多大なる貢献いただいたことを心から感謝申し上げます」というコメントを出しました。

石原さんがよく宿泊に訪れた温泉旅館では悼む声

よく宿泊に訪れた静岡県東伊豆町にある旅館では悼む声が聞かれました。

静岡県東伊豆町稲取にある「食べるお宿 浜の湯」は、石原さんが家族でよく宿泊に訪れた温泉旅館です。

旅館によりますと、50年余り前に、石原さんがヨットに乗っていた際に悪天候で海が荒れたため近くの港に立ち寄り、旅館の前身の銭湯をかねた民宿を利用したことがきっかけで、親交を深めてきたということです。

旅館のロビーには、石原さんが運輸大臣時代の昭和63年に寄贈した直筆の詩も飾られています。

おかみの鈴木光江さんは「いつもざっくばらんで、やさしい人柄でした。以前、宿泊してお帰りになる際に『1週間ぐらい泊まって海を見ながら小説を書きたい』と言ってくださっていましたが、実現できず残念です」と話していました。

幼少期を過ごした北海道 小樽の人たちからも悼む声

北海道内でも親交のあった人から悼む声が出ています。

石原さんは父親が海運会社の小樽支店に勤務していたことから、弟の裕次郎さんとともに幼少期の多感な7年間を小樽市で過ごしました。

小樽市立小樽文学館の亀井志乃館長は、石原さんが政界を引退したあと、関連する展示会を企画するなど親交がありました。

亀井館長は石原さんの創作活動に小樽での暮らしが影響を与えていたとみています。

石原さんは、近郊の海で父親の会社の船が遭難し、社員が亡くなった際、父親から「人間は死ぬと分かっていてもやらなければいけないことがある」と聞いたということで、亀井館長は、その後の石原さんの文学を支える死生観にもつながったとみています。

また、石原さんは、自分が通った市内の小学校の記念誌に「私の性格の多くを『小樽』が作り上げてくれたことに感謝しています」と小樽への思いをつづっていました。

プライベートで小樽を訪れた時には、文学館の職員が石原さんを車に乗せてかつて住んでいた地域を回り、石原さんは懐かしんでいたということです。

また、3年前には、石原さんが10代の頃に自身の思いを表現したスケッチを寄贈したことを受けて文学館で特別展が開かれ、石原さんは涙を浮かべながら感謝を伝えたということです。

亀井館長が石原さんと最後に会話したのは去年4月のことで、亀井さんが文学館の館長に就任したことを手紙で伝えると、石原さんから直接電話があり「おめでとう。よかったね」と声をかけられたということです。

亀井館長は「石原さんはとても気さくで非常にこまやかなお気遣いをされる方だった。今回、亡くなられたと聞いて大変驚いた。小樽の街をゆっくりまた歩きたいと願っていたと思うが、安らかに眠ってほしいです」とと話していました。