ミャンマーで消えた映画監督を追って

ミャンマーで消えた映画監督を追って
「無事ですか?」
ある友人に送った、メッセージはいまだに既読になりません。
その友人は映画を通じて「日本とミャンマーの“懸け橋”になりたい」と話していました。どうして彼は連絡が取れなくなったのか。彼の行方を追ったところ、ミャンマーの厳しい現状が見えてきました。

(国際部記者・紙野武広 / ニュースウオッチ9・鈴木健吾)

映画を愛する1人の青年

「いまも帰ってこない友達がいるんです」

そう教えてくれたのは、ジャーナリストの北角裕樹(きたずみ・ゆうき)さんです。去年、クーデターが起きたミャンマーで取材をしていたところ、およそ1か月拘束されました。解放され、帰国した北角さんに取材をしていたときのことでした。

その友人というのが、モン・ティン・ダンさん(37)。ミャンマーで生まれ、親の仕事の都合で6歳のときに来日。茨城県で育ちました。日本の永住権も取得し、これまでの人生の大半を日本で過ごしてきたという、在日ミャンマー人です。
北角さんによると、日本に来たばかりの頃は学校でいじめられることもあり、図書館にこもりがち。そんな彼の楽しみが映画で、特に好きだった「男はつらいよ」は、ほぼすべてのシリーズを見ていたといいます。そこから映画に興味を持ち、子役として学園ドラマに出演したことなどから映画に関わる仕事がしたいと思うようになっていきました。
高校卒業後は、日本映画学校(現・日本映画大学)に進学して演出や脚本など映画製作を基礎から学んでいたというダンさん。そのころの彼のことを知ろうと取材を続けていると1人の男性が応じてくれました。ダンさんが入学したときから卒業までの3年間担任をしていた天願大介(てんがん・だいすけ)さんです。
天願大介さん
「ミャンマー人の生徒は初めてだったのですが、ものすごく日本語が流ちょうで。人なつっこくて元気のいい好青年でしたが、すぐ泣いちゃうというナイーブな面もありました」

日本とミャンマーの“懸け橋”に

同級生たちとも仲が良く、恋愛をしたりケンカをしたりと、ごく普通の青春を送っていたダンさん。映画に対しては人一倍情熱を持っていました。彼が、脚本・監督を手がけ、卒業制作として仲間たちと一緒に撮ったのは、在日ミャンマー人の家族を描いた映画でした。
日本での生活になじめずに葛藤を抱えながら生きる少年が主人公。少年は外国人扱いされることにいらだち、同級生だけでなく親とも衝突。母国に帰りたいと訴えて家出してしまいます。家出した先でさまざまな人と出会い成長していくロードムービーで、自身の日本での経験が色濃く反映されていました。

また、学生時代から母国のことを知りたいと、ミャンマーを時々訪れていたというダンさん。当時から、日本とミャンマーの懸け橋になれるような仕事がしたいと話していたといいます。
天願さん
「日本で育っているので、日本に恩があるし、母国ミャンマーにもとても強い愛国心があるので、2つの国を行き来しながら、ミャンマーの人にも見てもらえる映画を作りたいという思いが強くありました」
ダンさんは学校を卒業したあと、日本でしばらく助監督などの仕事をしていました。そのころ母国ミャンマーでは民主化が進んでいました。日本とミャンマー合作の映画に携わったことをきっかけに、2つの国を行き来して活動するようになります。そして、最大都市のヤンゴンにも事務所を構えます。子役の養成や映像制作などの事業を展開し、夢に向かって順調に歩んでいました。

突然のクーデターで夢が…

そうした中、去年2月1日に突然、軍によるクーデターが発生。抵抗する市民が連日のように大規模なデモを行いましたが、軍は武力で抑え込みを図り、平和的にデモを行う市民に容赦なく銃弾を浴びせるようになっていきます。

クーデターの翌月、製作した短編映画が日本の映画祭で上映されたときも、ダンさんはミャンマーにいました。映画祭の実行委員会に問い合わせると、ダンさんがオンラインで参加している映像が残っていました。そこには自分の映画のことよりも、現地の窮状を訴えるダンさんの姿がありました。
ダンさん
「2月1日にクーデターになりまして、日々、弾圧が行われています。ミャンマーでも自由を勝ち取りたいと思っていますので、応援をよろしくお願いします」
軍による市民への弾圧が激しさを増すなか、現地の状況をできるだけ記憶にとどめて日本の人たちに伝えたいと語ったダンさん。映画学校の恩師、天願さんのもとには「現地の様子を記録したい」という連絡を最後に、消息が途絶えてしまいました。

銃を持った兵士がホテルに

どうしてダンさんは拘束されるにいたったのか。取材を続けたところ、直前まで一緒にいた、ダンさんの友人に話を聞くことができました。ミャンマー料理研究家の保芦宏亮(ほあし・ひろすけ)さんです。
保芦さんは当時仕事でミャンマーにいて、ダンさんと同じホテルに滞在していました。クーデターが起きてからも頻繁に会っていましたが、4月のある日、ダンさんから「親しくしていたデモ隊の若いミャンマー人が軍に捕えられてしまった」と打ち明けられました。

「何か焦っていたように感じた」

保芦さんは、ダンさんに最後に会ったときの様子についてこう話しました。
保芦宏亮さん
「私たちが泊まっていたのは各国の大使館などが建ち並び、ヤンゴンで最も安全だと言われていた場所でした。私もダンも外出していたのですが、銃を持った兵士が数台のトラックでやってきて守衛を殴ってホテルに押し入ってきたと聞きました。『日本から戻ってきたミャンマー人はいないか』と叫んで、すべての部屋に立ち入って回り、ダンの部屋のものは全部持ち去ったそうです。監視カメラを確認して、私がダンと一緒に映っていたので、私のパスポートの控えまで持っていかれました。すごい恐怖を感じました」
保芦さんはいまもダンさんが語ったことばが忘れられないといいます。
「ダンは自分の祖国がひどい状況になったのを目の当たりにして『自分の命に代えてでも、できることをしたい』と涙ながらに話していました。いまは、とにかく無事でいてくれることを祈っています」

刑務所での再会 拷問の実態

ダンさんはどこへ消えてしまったのか。

そのころジャーナリストの北角さんは、ミャンマーで取材をしていました。しかし、去年4月に自宅に治安部隊が押し入り、拘束されました。連れて行かれた刑務所にいたのが、ダンさんでした。それは思いもよらぬ再会でした。
北角さん
「刑務所の中の一角に連れられていくと彼がいて、そこで無事に生きていたことがわかって抱き合いました。元気そうに見えましたが、精神的には非常に参っている感じがしました。『大丈夫だから』と声をかけて別れたのですが、彼からの返事はありませんでした」
北角さんによると、ダンさんは去年4月にデモ隊を支援したなどとして罪に問われているといいますが、ダンさんはそのような事実はないと、無実を訴えているということです。

ダンさんは体育館のような場所に、200人ほどの人たちと一緒に寝かされていたといいます。それは寝るときに体を動かすのも難しいほど狭い場所でした。そのうえ、ダンさんは拷問を受けたと訴えていたといいます。
「非常に凄惨(せいさん)な拷問を受けていました。後ろ手に手を縛られて、ひざまずかされて、そのまま長い時間、尋問される。しかも棒で殴られていたと。その尋問官が望まない答えをしたならば、もっと殴られる。また、銃をつきつけられたまま尋問が続けられていたようで、自分がそういう目に遭ったら、どうなってしまうか、想像もつきません。私は外国人だったので、拷問は受けていませんが、多くの人たちが厳しい拷問を受けているのが実態です」

遠い国の出来事ではない

クーデター以降、現地の人権団体によると軍による弾圧でこれまでにおよそ1500人の市民が犠牲になり、これまでに拘束された人は1万人を超えています。

ダンさんについて日本の外務省は情報を集めていますが「解放されたとの情報はない」として、拘束はいまも続いているとしています。しかし、現地からの情報は乏しく、いまどんな状況に置かれているのか正確に知ることさえができないのが、ミャンマーの現状です。

北角さんをはじめ、ダンさんを知る人たちは、ダンさんの映画の上映会を開いたり、抗議デモを行ったりして、あらゆる場面で情報を発信し、ダンさんを含む、軍によって拘束されている多くの人たちの解放を訴えています。
北角さん
「ミャンマーでは平和的にデモをしている人が拘束されたり、殺されたりしている。ダンさんの拘束も全く正当性がありません。ダンさんはミャンマー人ですが、僕たちの友達です。クーデターから1年がたちますが、早く僕たちの友達を返してほしいというのが願いです」
クーデターから1年がたち、私たち日本人と関係のない、どこか遠い国の出来事のように感じる人がいるかもしれません。しかし、いまも多くの市民が犠牲になっています。そして、私たちのすぐそばで暮らしていた友人が、拷問を受け、いまも拘束されていることを一人でも多くの人に知ってほしいと思います。
国際部
記者
紙野 武広
2012年入局。釧路局、沖縄局を経て国際部。ミャンマーなどアジア地域を担当。
ニュースウオッチ9
記者
鈴木 健吾
2007年入局。熊本放送局、神戸放送局を経て、現職