【1日の動き】阪神・淡路大震災から27年 次の世代へ記憶伝える

阪神・淡路大震災から、17日で27年です。
震災では建物の倒壊や火災などが相次ぎ、その後の「災害関連死」も含めて、6434人が亡くなりました。
地震が起きた午前5時46分、神戸市や淡路島など大きな被害を受けた地域で、遺族らが黙とうし、犠牲者を悼みました。
震災を経験していない世代が増える中、当時の記憶や教訓を伝える1日となりました。

東日本大震災の被災地の人たちとともに追悼

兵庫県三木市で活動するボランティア団体「神戸・心絆」は、毎年1月17日に、竹の灯籠を並べ、阪神・淡路大震災と東日本大震災の犠牲者を追悼しています。

去年は新型コロナウイルスの影響で、宮城県名取市閖上地区の人たちはオンラインで参加しましたが、ことしは10人が三木市を訪れました。

会場には「絆」や「つながり」などの文字が記されたおよそ1000本の灯籠が「ゆりあげ3.11」や「こうべ1.17」などの形に並べられ、火がともされました。

そして、東日本大震災の地震が発生した午後2時46分に合わせて黙とうし、2つの震災の犠牲者を追悼しました。

名取市から来た長沼俊幸さん(59)は「2つの被災地は互いに気持ちがわかるからこうして通じ合えているんだなと感じました」と話しました。

「神戸・心絆」代表の杉山正秀さん(61)は「コロナの影響が心配でしたが、東北の皆さんと一緒に祈りをささげることができてうれしかったです。これからも2つの被災地をつなぎ続けていきたいです」と話しました。

神戸大学で追悼の式典 学生によるライブ配信も

阪神・淡路大震災で、神戸大学では、自宅や下宿先の倒壊に巻き込まれるなどして、学生39人と教職員2人が犠牲になりました。

神戸市灘区の大学のキャンパスで行われた追悼の式典には遺族や大学の職員が参列し、慰霊碑の前で黙とうをささげたあと、花を手向けました。

当時大学4年生の娘の純子さんを亡くした磯部洋子さんは「娘が生きた21年より長い27年が過ぎ、気持ちも落ち着いたと思いましたが、ここに来るとやっぱり涙が出ます。手を合わせながら『いろんなことがあるけど頑張ってやっているよ』と伝えました」と話しました。

式典は新型コロナウイルスの感染防止対策として、時間を短縮し人数を制限して行われたため、終了後に慰霊碑を訪れて手を合わせる遺族や学生などの姿が見られました。

一方、震災の記憶を若い世代に伝えるサークル活動を行う学生たちは、式典の様子をライブ配信し、出席できなかった遺族などに届けました。

配信を企画した「神戸大学ニュースネット」の島袋舜也さんは「進学で神戸に来るまで震災のことを知りませんでしたが、遺族から『知ってもらうことで、亡くなった子どもが忘れられていないと感じる』と言われ、活動の意義を改めて考えました」と話しました。

淡路島の小学校で避難訓練と防災授業

兵庫県淡路市の一宮小学校では、全校児童およそ240人が参加して、大地震に備えた避難訓練を行いました。

1月17日の前後に南海トラフ巨大地震に備えた訓練を行っていて、授業開始直後に震度6強の揺れを伴う地震が発生し、大津波警報が発表されたという想定で、子どもたちは机の下に入って頭を守り、揺れが収まると一斉に校庭に避難しました。
そのあと、学校からおよそ300メートル離れた高台まで歩いて向かいました。

阪神・淡路大震災の犠牲者に黙とうをささげたあと、学年ごとに防災授業を行い、3年生は学校が保管する震災当時の写真を見ました。

3年生の女の子は「家や建物が崩れた写真を見て、当時大変だったんだと知ることができました。日頃から水や缶詰などを防災バッグに入れて、避難場所に自分で逃げるようにしたい」と話しました。

岡知史校長は「災害はいつどこで起きるかわからない。他人のために何ができるかを考えるようになってほしい」と話しました。

「ひょうご安全の日1.17のつどい」経験や教訓を次の世代につなぐ

阪神・淡路大震災の犠牲者を追悼し、経験や教訓を次の世代につなぐ「ひょうご安全の日1.17のつどい」が神戸市で開かれ、自治体の関係者や高校生などおよそ440人が参加しました。

正午に鐘の音とともに参加者全員で黙とうをささげたあと、兵庫県の斎藤知事があいさつし「時間の経過とともに、風化が懸念されています。震災の経験と教訓を広く発信するとともに、防災・減災対策を充実・強化していきます」と決意を述べました。

地元の子どもたちが「震災の経験から生まれた教訓のリレーを私たち“未災者”が止めてはいけないと思います。後世の人もともに備えに取り組み、命を守れるように防災の輪を広げていきます」と、自分たちで考えた震災の教訓を発表しました。

そして高校生たちが、復興への願いを込めてつくられた歌「しあわせ運べるように」を合唱したあと、参加者が祈りをささげました。

オリックス選手が黙とう 田口コーチ「記憶は全く変わらない」

阪神・淡路大震災当時、神戸市を本拠地としていた、プロ野球 オリックスの選手やスタッフたちが、犠牲者に黙とうをささげました。

オリックスは、震災が発生した平成7年「がんばろうKOBE」を合言葉に、当時の仰木彬監督のもと、パ・リーグ優勝を果たし、平成8年にはリーグ連覇と日本一を達成し、復興の象徴的な存在のひとつとなりました。

17日、大阪 此花区の球団施設では、正午に、当時オリックスで現役選手だった福良淳一ゼネラルマネージャーや田口壮外野守備・走塁コーチや選手など、およそ90人が震源地の方角を向いて1分間黙とうをささげました。
震災当時、主力選手の1人として活躍した田口コーチは「記憶は全く変わらないし、復興は進んでいるかもしれないけど、僕の中でいちばん最初に感じた『ドン』という音はいまだにドキッとしてしまう」と話しました。

オリックスは昨シーズン、25年ぶりに日本シリーズを神戸の舞台で戦ったことから「あそこで見た光景は27年前を思い出したし、風化させないためにも、あの1試合は大きかった。震災を知らない選手たちにも、そういうことを経験してきた球団だと理解してほしいし、機会があったら話していきたい」と話しました。

兵庫 芦屋の精道小学校 遺族らも参加し追悼式

阪神・淡路大震災で、兵庫県芦屋市の精道小学校では、学区内の建物のおよそ7割が全半壊し、当時通っていた児童8人と保護者6人が亡くなっていて、毎年、遺族らも参加して追悼式が開かれています。

ことしは新型コロナウイルスの感染対策として、6年生が校庭にある慰霊碑の前で、ほかの学年の児童は教室で、それぞれ黙とうをささげました。

当時小学6年生で祖母や同級生を亡くした森洋樹さんが「子どもたちが災害に備え、自分や家族、友達の大切な命について考えてもらうために、突然奪われた家族や同級生のことを話し続けていきたい」と追悼のことばを述べました。

今の6年生を代表して、池田光希さんが「6434人という死者の数はただの数字ではなく、亡くなった方々の人生や思いの数で、そのひとつひとつが大切で尊いものだと思います」と話しました。

児童たちは折り紙で作った手作りの花を順番に供え、静かに手を合わせていました。

兵庫 西宮の商店街 午前5時46分で止まったままの大時計

阪神・淡路大震災でおよそ8割の店が全半壊する被害を受けた、兵庫県西宮市の「西宮中央商店街」では、追悼の集いが行われ、参加者は地震発生時刻の午前5時46分に合わせて黙とうし、祈りをささげました。

商店街の入り口には、かつてアーケードに取り付けられていた大時計が保存されています。

時計は午前5時46分を指したまま止まっていて、商店街の有志が大切に保存してきました。
大時計の前で毎年開かれている追悼の集いには、多い年で60人以上が訪れていましたが、高齢化などを理由に参加者が減少し、ことしは9人でした。

時計の保存活動をしてきた武地秀実さん(65)は「時計を見て、当時のことも思い出してほしいし、ここまで生きてきたことや、これからどうやって生きていこうか考える起点にしてほしい」と話しました。

集いに参加した細井晟慈さん(18)は「両親から当時の話を聞いて、今、自分が友達と会って話せることが幸せな時間だと改めて感じる。秒針が指している時間に何が起こったか伝わってくる」と話しました。

452人犠牲の兵庫 芦屋 モニュメントの前で黙とうささげる

阪神・淡路大震災で452人が犠牲になった兵庫県芦屋市では、市内の公園にあるモニュメントの前で訪れた人たちが黙とうをささげました。

芦屋市では毎年1月17日に市内の芦屋公園にあるモニュメントの前に献花台が設けられます。

ことしは、午前7時から3時間余りの間に市民などおよそ300人が訪れ、献花台に花を供え、祈りをささげていました。

当時市内に家族8人で暮らしていた60代の女性は「子どもが通っていた小学校の児童が8人亡くなり、亡くなった方々に対して頑張って生きようという思いで毎年献花に来ています」と話しました。

40代の美容師の男性は「見習いの美容師として震災後のボランティアに参加したとき、避難所でおばあさんの髪を切ってあげて感謝されたことが僕の原点になっているので、感謝の思いを込めて毎年追悼に来ています」と話しました。

若い世代が震災の体験談を聴き SNSで発信

阪神・淡路大震災の追悼のつどいが開かれている神戸市の東遊園地で、震災後に生まれた若い世代が、当時を知る人たちに体験談などをインタビューし、SNSで発信する活動を行っています。

震災の追悼行事でボランティアを行う神戸市の市民団体「1.17希望の架け橋」の36人のメンバーは、全員が10代から20代の高校生や大学生などです。

記憶を記録として残していきたいと、17日、東遊園地を訪れた人に声をかけ、インタビューを行いました。
団体のメンバーの石田瞳さん(19)は「最初は話しかけていいのかなとためらいましたが、当時のそれぞれの経験を教えてもらうことができました」と話しました。
団体の代表を務める藤原祐弥さん(19)は「震災を体験された方たちの思いを、自分たちがこの先語り継がなければと思います。SNSを活用して若い世代に震災について考えてもらうきっかけにしてほしいです」と話しました。

団体は2021年12月に神戸ルミナリエの代替行事が行われた会場でもインタビューを行い、編集した動画を1月12日にインスタグラムで公開していて、17日に収録したインタビューの動画についても、順次発信していくことにしています。

17日午前5時46分 神戸 長田区の教会 宗教や宗派 国籍超え祈り

神戸市長田区の「カトリックたかとり教会」は、キリスト像を残して火災で全焼しましたが、その後、敷地がボランティア活動の拠点となりました。

教会の礼拝堂では午前5時半から追悼式が行われ、信徒や仏教の僧侶、地元の人たちなどおよそ40人が、宗教や宗派、国籍を超えて参加しました。

聖書の一節を日本人の信徒が日本語で、ベトナム人の信徒がベトナム語で、それぞれ読み上げました。

そして、午前5時46分になると全員で黙とうしました。

続いて、僧侶がお経を読み上げる中、焼香が行われ、犠牲になった人たちに祈りをささげました。

震災当時に教会の司祭だった神田裕神父は「残された私たちが思いを引き受けて前に向かって歩いていきますという気持ちを込めて、祈りをささげました」と話しました。

被災して教会近くの学校に避難した、ベトナム出身のハ・ティ・タン・ガさんは「つらい思い出もありますが、自分が経験したことをほかのベトナムの人に語り継いでいきたいです」と話しました。

17日午前5時46分 淡路島での63人の犠牲者悼む

阪神・淡路大震災の地震の震源に近い兵庫県淡路島北部の「北淡震災記念公園」には、地震で地表に現れた野島断層の一部が保存され、犠牲になった人たちの慰霊碑が建てられています。

公園には遺族や地元の人などおよそ50人が集まり、震災で命を落とした淡路島の63人と同じ数の竹の灯籠を、慰霊碑の近くの水面に浮かべました。

そして、地震が起きた午前5時46分に合わせて慰霊碑の前で黙とうして、亡くなった人を悼みました。
また、犠牲者の追悼と復興への思いを込めて全員で「ふるさと」を合唱したあと、慰霊碑に花をささげました。

義理の母親を亡くした淡路市の60代の女性は「義理の母の年齢を超え、無念だったろうとつくづく思う。きょうここに来たことで、当時の記憶を忘れてはいけないと思いました」と話しました。

公園を管理し、震災の「語り部」の活動を続ける米山正幸総支配人は「時がたつほど、未来に伝えることの大切さを感じています。野島断層を生かしながら、震災の教訓を今後も継承していきたい」と話しました。

17日午前5時46分 追悼の祈りささげるトランペット響く

神戸市を一望できる高台の公園では、地震発生時刻の午前5時46分、追悼の祈りをささげるトランペットの音色が響きわたりました。

神戸市中央区の高台にある諏訪山公園では、トランペット奏者の松平晃さん(79)が、平成11年から毎年、震災の犠牲者を悼んで演奏を続けています。

松平さんは、地震が発生した午前5時46分に合わせて、童謡「どこかで春が」を演奏しました。
冬に襲った震災から復興を遂げてきた神戸の街を重ね合わせ、これからも応援していきたいという思いを込めたということです。

松平さんは「27年前の震災を忘れてはいけないという思いと、これから同じような災禍が起きないようにという思いで演奏しました」と話しました。

17日午前5時46分 灯籠が「1.17」「忘れない」のことばの形に

神戸市中央区の公園「東遊園地」では、市民団体などでつくる実行委員会による追悼のつどいが開かれました。

犠牲者を追悼するおよそ5000本の竹と紙の灯籠が、震災が起きた日付の「1.17」と「忘れない」ということばの漢字の形に並べられました。

この文字には、震災から27年がたち「忘れてしまわないように」という思い、思い出すのがつらく「忘れたい」人たちの思い、そして「忘れられてしまう」といった危機感など、さまざまな意味が込められています。
地震が起きた午前5時46分に、訪れた人たちが静かに手を合わせ、犠牲者に黙とうをささげました。

「忘れることはできない」

神戸市須磨区の84歳の女性は「母と兄は震災の3日後に、漏電による住宅火災で亡くなりました。この場所に来ると2人と会話ができるようで、震災の11年目から毎年来ています。なんで火災で命を落としたのかと、今でも悔しい気持ちです。絶対にこの日を忘れることはできません」と話しました。

神戸市東灘区の73歳の女性は「母は東灘区で被災しましたが、病院の中で私の手をつなぎながら亡くなりました。忘れられたら楽だけど、それは無理なことで、1年の中で一番大切な日です」と話しました。

当時35歳の弟を亡くした、神戸市北区の65歳の女性は「1月17日は弟の誕生日でした。真面目で優しい弟で、その後亡くなった父や母と天国で会えていると思います」と話しました。

神戸市灘区の60歳の男性は「父親代わりのおじさんを震災で亡くし『また来たよ。忘れていないからね』と伝えに来ました。多くの方が犠牲になり、1日1日を大切に生きなければいけないと思っています」と話しました。

両親や妻、子どもや孫など合わせて13人で訪れた、神戸市灘区の50代の男性は「家の1階がつぶれて、当時1歳2か月の長女と妻の母が亡くなりました。毎年、4世代で追悼に来ています。きょうは『あの時、助けられずに悪かった。家族は増えたけど、これからも忘れない。見守っててな』と伝えました」と話しました。

「区切りつけられず」

兵庫県加古川市の佐藤悦子さん(58)は、震災で神戸市の住宅が焼け、住んでいた母親の行方が今もわからないと話しました。

佐藤さんは「27年がたちましたが、母親は見つかっておらず、自分の中で区切りをつけられていません。この場所を訪れるのは私にとってお墓参りのようで、母親に『来たよ』と伝えに来ました」と話しました。

震災の記憶 若い世代に

8歳の孫を連れてきた神戸市東灘区の65歳の女性は「自宅で被災し、震災の直後、暗くて寒かったことを思い出しました。小学生になった孫が関心を持ってくれたので、初めて追悼のつどいに来ました。震災を忘れないよう孫に伝えていきたいです」と話しました。

神戸市東灘区の高校1年の男子生徒は「震災を経験していない世代で、実感がなかったので、つどいに来ることにしました。黙とうのあと、被災した人の話を聞いて、突然、日常が失われたことを知り、毎日を大切に生きなければいけないと思いました」と話しました。

神戸市北区から両親と3人で来た中学3年の男子生徒は「学校の防災学習で、同年代の子どもも亡くなったことを知って衝撃を受け、安らかにお眠りくださいという気持ちで黙とうをささげました。今ある命を大切に生き、震災を語り継いでいきたいと思いました」と話しました。

登校前に訪れた、兵庫県芦屋市の16歳の男子高校生は「祖父と父から、地震で高速道路が傾いたことなど、当時の町の様子を聞いて、衝撃を受けました。コロナ禍で生活様式が変わり、当たり前だと思っていたことがそうでないことに気づきましたが、震災も同じだったのではないかと思います。当事者として震災を体験していなくても、語り継ぐことで、周りの人たちが災害に備え生き延びることができるようにしたいです。若い世代も震災に思いをはせることが大切だと思いました」と話しました。

追悼のつどい 午後5時までに約3万1000人訪れる

神戸市によりますと、訪れた人は17日午後5時までにおよそ3万1000人と、新型コロナの緊急事態宣言が出されていた去年より1万人余り多くなっています。

“姉の分まで”誓い込め 歌で震災の体験伝える

東遊園地では神戸市が主催する「追悼の集い」も開かれました。

遺族代表としてあいさつしたのは、大阪 茨木市に住むシンガーソングライターの田代作人さん(37)です。

田代さんが10歳のときに神戸市東灘区の自宅が地震で全壊し、7つ年上の姉、瑞恵さん(当時17歳)が命を落としました。

田代さんは「最後とわかっていれば、もっとたくさん話したかったし、わがままも言わずに迷惑もかけなかったのにと、後悔は尽きません。あの日、がれきの中から姉を運び出してくれた顔も名前も知らない心温かい人たちに心より感謝します」と述べました。
そして、灯籠のあかりを前に、震災から目を背けず姉の分まで生きていくとの誓いを込めて作った曲「Dear Sister」を歌いました。

田代さんはこの曲を通じて震災を知らない子どもたちに体験や教訓を伝えようと、弾き語りの活動を続けています。

田代さんは「関心がなくなってきている地域にみずから歩み寄って、震災について弾き語ることが大事なのかなと思う」と話しました。

16日午後5時46分 半日早く追悼のつどい

東遊園地では、震災以降、毎年1月17日に灯籠をともし、犠牲者を追悼するつどいを開いています。

しかし、ことしは公園の改修工事で出入り口が限られ、新型コロナウイルスの感染者が再び急増していることも受けて、混雑を避けるために、去年に続いて半日早く、16日夕方からつどいを始めました。

「忘れない」のひと文字目の「忘」という漢字の形に並べられた紙の灯籠にろうそくを使って火をともし、地震発生時刻の半日前にあたる午後5時46分に合わせて黙とうをささげました。
ろうそくの火は、震災で亡くなった人の追悼や復興を願って公園でともされ続けている「希望の灯り」から分灯されたものです。

子どもと訪れた兵庫県西宮市の40代の女性は「黙とうの間、町のひどい状態を思い出し、亡くなった方への思いが込み上げました。東遊園地には亡くなった方を追悼するモニュメントもあるので、子どもたちも命の重みを感じたと思います」と話していました。

神戸市の小学5年生の女の子は「震災はたくさんの人の命が急に奪われた出来事で、これからも忘れてはいけないと思います」と話しました。

つどいの実行委員長の藤本真一さんは「神戸だけでなく、さまざまな災害に遭った方のためのともし火でもあり、思いを共有できればいいです」と話しました。