瓶の中身はビールじゃなくて水だった スマホで伝える117

瓶の中身はビールじゃなくて水だった スマホで伝える117
SNSも、携帯電話も普及していない時代。
自分たちが体験したことを伝える手段は限られていました。

しかし、あれから27年。
時間も国境も越えて、自由に伝える事ができるようになりました。

あの日、あなたはどこで何をしていましたか?

まさか数時間後に…

「26年前の昨日、娘のお食い初めをしてた
次の日に家がめちゃくちゃになるなんて思いもしないで」

去年1月17日、インスタグラムに投稿されたこの写真。
娘のお食い初めの様子が写っています。

投稿したのは西宮市に住んでいた志儀マミ子さん。
あの日の前日、家族そろって娘のお祝いをしていました。
志儀マミ子さん
「夫がいつもより奮発して、フグ鍋やカニを準備してくれて。ごちそうをテーブルに並べて、家族5人団らんのひと時でした。フグと福をかけて縁起をかつぎましたが、まさかその数時間後に、あんなことが起きるなんて」
1995年1月17日。午前5時46分。

突然の揺れに夫婦は寝ていたベッドごと突き上げられました。
停電であたりは真っ暗に。

娘は無事なのか。周囲にガラスが散乱していましたが、幸い無傷でした。

別の部屋で寝ていた息子たちのところへ向かうと、つぶされた二段ベッドの隙間から「助けて」という叫び声が聞こえました。
「明日はおじやにしようね」と残していたフグ鍋は、天井までとばされて中身がぐちゃぐちゃになっていました。

幸せだった暮らしは、一瞬で奪われました。
家族は全員無事でしたが、団地には住めなくなり夫の実家へと移りました。

震災のショックでおっぱいも出なくなりました。
慣れない暮らしのストレスのせいか、入院したこともありました。

あれから27年。お食い初めをしていた娘は今、東京で保育士をしています。
関東地方で地震があり心配して電話をかけた時に「子どもたちの命を守るために避難訓練をしているよ」と話す娘の姿を、頼もしく感じたといいます。
志儀マミ子さん
「あの日が近くなると、当時の生き残った安ど感と被災者を置いて田舎に移り住んだ罪悪感、凍えるような寒さを思い出します。子育ても終わった今、私の中でもなかった事のように消えつつあります。それでも、わずかな時間の揺れでも全身ゾワッと凍りつきそうな感覚だけは体に染みついていて、1月17日は心穏やかに過ごせなくて投稿しました。きっとことしも写真で振り返りながら、投稿すると思います」

ビール瓶で届けたエール

ツイッターに投稿されたこちらの画像。駅のホームにビールケースが積まれています。
瓶の中身はビールではなく水です。

投稿したのは別所弘章さん(55)。当時キリンビールに勤めていました。
別所弘章さん
「勤務先のあった大阪市内は震災の直後も比較的落ち着いていました。でも隣の神戸が大変な時にふだんどおりに仕事をしていていいのか複雑な思いでした」
神戸は断水が続いていましたが、交通網も大きな影響を受け給水に影響がでていました。

何か自分たちにできることはないか。思いついたのが、ビールの空き瓶に水を詰めて届けることでした。

JR西日本の協力をえて、当時京都にあった工場に引き込まれていた線路を使い臨時電車を出してもらいました。

社員有志で電車に積み込んだ水が入ったビール瓶はおよそ2000本。
甲子園口駅に下ろして、近くの人たちに配るまで一晩かかったそうです。

投稿は多くの反響がありました。

「そんなことがあったのか。そういう話ほど知りたい」
「うちのおばはおそらくそれを受け取っています」

震災を経験した世代も経験していない世代も、投稿をきっかけに当時の記憶を共有していました。
別所弘章さん
「自分が関わった活動が誰かにつながっていたことや、自分の経験を少しでも共有したいと思う人がいることを知ってうれしかったです。当時に思いをはせ、想像を巡らせ、優しい気持ちになってもらえたらいいと思いました」

ラトビアからKOBEへ思い寄せるツイートも

震災について投稿しているのは、体験者だけではありません。
遠く離れた海外からのツイートも話題となりました。
「震災後の神戸と私は同じ年です。私が育ったリガと神戸は姉妹都市です。だから街の中にはKOBEと書いた時計があり、神戸の時間を表示しています。日本とラトビア、神戸とリガの繋がりがこれからも続きますよう願います。」
そう投稿したのはラトビア出身のアルトゥルさん。
日本が大好きで独学で日本語を勉強。28万人のフォロワーがいます。

「神戸を思い出してくれてありがとう」「神戸で被災した者にとってこの言葉はとても心に響きます」このツイートには1万8000いいねがつきました。
ラトビアの首都リガ市と神戸市はお互い港町という共通点があり、1974年に姉妹都市の提携を結んでいます。

ツイートに出てきた時計台は、1993年に神戸市が贈ったもの。
アルトゥルさんは以前、毎日この時計の前を通って通勤していたそうです。
かつて東京を旅行中、たまたま地震に遭遇したアルトゥルさん。
震度3くらいだったといいますが、ラトビアでは地震を経験したことがなかったため、とても驚いたといいます。

日本の地震を調べる中で、阪神・淡路大震災のことも知りました。
神戸を訪れたことはありませんが、KOBEと書かれた時計を見るたびに、今の神戸はどんな様子だろうと思いを寄せていたそうです。
一方、神戸市にもラトビアとのつながりを感じることができる存在が。

メスのアジアゾウの「ズゼ」です。

震災の翌年、1996年に被災した子どもたちを元気づけようとリガ市から贈られました。「ズゼ」は31歳になる今も動物園の人気者です。
アルトゥルさん
「神戸には行ったことがないですがめちゃめちゃ行ってみたいです。1月17日は防災とボランティアの日ということも知っています。応援する街があるんだと知って、少しでも元気になってくれたらうれしいです」

ペンとFAXで伝えた震災

SNSを通して語られる震災当時の経験や思い。

実は私(西村)は27年前、現場で取材にあたっていました。

震災発生から3週間後の2月7日。淡路島からテレビの中継をしていました。
震度7を観測した淡路島の当時の一宮町。
ボランティアの人たちが被災した屋根を直す様子などを伝えました。

当時は、高知放送局の3年目。

まだ明石海峡大橋が開通する前のことです。震源の淡路島の取材には、橋でつながっている四国の記者たちが交代で橋をわたって駆けつけました。

私が淡路島で取材を始めたのはおよそ2週間後。

道路はボコボコ。余震は依然として続いていて、つぶれた家からは、土ぼこりがあがっていました。

当時は携帯電話を持っている人はまだ珍しく、ほとんどの記者が持っていませんでした。現地に行って取材しメモを取り、取材拠点に戻って手書きの原稿をファックスで送っていました。

毎日毎日、避難所などを回ってボランティアの支援や、その日の様子をニュースにしていたと記憶しています。
地震で家族や家を亡くした方にどう接すればよいのか、悩みながらとにかく必死でした。

「自分が代わってやれたらよかったのに」
子どもを亡くした高齢の方が、涙ながらに語った言葉は今でも忘れられません。

「テレビのニュースは神戸ばかり。淡路島がこんなにすごいことになってるのに、なぜニュースにならないの?」
被災者の方からそう言われたこともありました。

各地で甚大な被害が出ていて放送枠にも限りがあるなか、聞かせていただいたお話をすべて伝えきれなかったと歯がゆさを感じました。

それでもお話を聞かせてくれた避難所の方々はお弁当を勧めてくれるなど、つらい目にあっているのに優しく接してくれました。

さすがにお弁当は断りましたが…。
阪神・淡路大震災から27年。

犠牲者は6400人以上。全半壊など被害を受けた住宅はおよそ63万棟にのぼります。

今は当時と違い、インターネットやSNSが普及し、それぞれが発信できる時代になりました。メディアをめぐる環境も大きく変わりました。

決して忘れることができない1月17日。

被害の大小ではなく一人ひとりの経験や感じたことを今に伝えることが大切だと感じます。

それぞれの人が感じた阪神・淡路大震災についてどうすれば伝わっていくのか。

震災を知っている皆さん、震災に思いをはせる皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

よろしければ「#わたしの117」とツイートして皆さんの体験を教えてください。

(大阪拠点放送局記者 西村亜希子 ネットワーク報道部記者 野田麻里子 おはよう日本ディレクター 山内沙紀)