松山ケンイチが「見た」沖縄

松山ケンイチが「見た」沖縄
「沖縄はかつてアメリカだった」
こうした現実のあったことを知らない人がいるかもしれません。

2022年は、沖縄の本土復帰からちょうど50年。
当時の人々の思いに焦点を当てた新作舞台がまもなく上演されます。

主演を務めるのは松山ケンイチさん(36)。

役作りのために訪れた沖縄でつぶやいたのは「大変なものを引き受けてしまった」のひと言でした。

松山さんは沖縄の何を見て、何を感じたのか。その過程をたどり、記録しました。

(科学文化部 信藤敦子)

知らなすぎた“沖縄”

私たちが那覇空港に降り立ったのは、去年の11月下旬。

やや肌寒く感じ、長袖に薄手の上着が必要でした。

取材にあてられた2日間で、松山さんは何を吸収するのか。

期待と不安を感じていたとき、舞台関係者から連絡が入りました。
「松山さん、もう現地を歩いているみたいです」
えっ、もう取材しているの?。

頭をよぎったのは、沖縄に出発する数日前のこと。

インタビューでの松山さんのことばでした。
「あまりにも知らなすぎたなと思いました。当時のことを知る人たちと、話をしてみたい。そして、もっと沖縄のことを知りたい」
松山さんは早速、行動を起こしていました。

「hana-1970、コザが燃えた日-」

太平洋戦争の末期、沖縄では20万を超える人が亡くなりました。

県民の4人に1人が命を落としたと言われています。

その後、沖縄は日本本土から切り離され、アメリカの統治を受けました。

今でも在日アメリカ軍の専用施設の約70%が沖縄に集中しています。

松山さんが挑むのは、演出家・栗山民也さんが構想し、劇作家・畑澤聖悟さんが書き起こした新作=「hana-1970、コザが燃えた日-」です。

舞台は終戦から25年後、コザ市(現在・沖縄市)の「Aサインバー(アメリカ軍公認の飲食店)」。

描かれるのは沖縄の「家族」の物語です。

松山さんが演じるのは、子どものころに「鉄の暴風」とも呼ばれるアメリカ軍の激しい攻撃で肉親を失い、血のつながらない「おかあ」に引き取られた29歳の男性です。

沖縄の“市民革命”

この舞台の背景に据えられたのは、1970年12月20日の未明に実際に起きた出来事=「コザ騒動(コザ暴動、コザ事件とも)」です。

アメリカ統治下の沖縄の人々には、罪を犯したアメリカ兵を裁く権利がありませんでした。

地元の人が被害を受けても、軍事裁判で兵士が無罪になったり、微罪にとどまったりするケースが相次いでいました。

そうしたなかで起きた“騒動”。

きっかけは、1件の事故でした。

コザ市で、アメリカ兵の運転する車が沖縄の住民をはねたのです。

事故処理にやってきたアメリカ軍の憲兵を人々が取り囲むと、憲兵は威嚇するように発砲しました。

人々の怒りは爆発し、次々とアメリカ軍関係者の車に火を放ちました。

被害に遭った車は80台以上にのぼると伝わっています。

この“騒動”を、抑圧の積み重ねのなかで起きた「市民革命」だったと位置づける人もいます。

「戦争や基地の存在を忘れてはならない」

松山さんが訪ねたのは、「コザ騒動」を実際に目にした人物でした。

地元紙・琉球新報のカメラマンだった写真家の國吉和夫さん(75)です。

騒動が起きたとき、國吉さんは24歳。

構えたレンズの先には、人々が石を投げ、車をひっくり返す姿がありました。

タイヤが焼ける煙にむせかえりながら、無我夢中でシャッターを切ったといいます。
國吉和夫さん
「アメリカ軍は何をしても罪に問われず、被害者には賠償金も支払われないのが当たり前。ウチナーンチュは、心身ともに考えられないくらいの被害を受けてきた。ふだんは穏やかな同胞たちが号令もなく立ち上がったのがコザ騒動なんです」
自分のレンズに何を映し出すべきか、はっきりしたと話す國吉さんに、松山さんは尋ねました。
松山さん
「当時、日本のことをどう思っていましたか?」
國吉さん
「50歳になる私の息子に『あなたは何人か』、と聞くと、『日本人』と答えますよ。でも僕は、『オキナワン・ジャパニーズ』です。だんだん記憶が薄れるのはしかたないんですが、戦争や基地の存在は忘れてはならない。沖縄戦がなければ、フェンスで囲んだ、その中に兵器がたくさんあるという現状は生まれなかったと思う」
國吉さんは1冊の写真集を松山さんに渡しました。

タイトルは「STAND!」、“引き下がらない”という意味が込められています。

この中に写っていた横断幕には「日本人よ!今こそ、沖縄の基地を引き取れ」の文字がありました。

「日本人のあなたたちこそ、考え続けなくてはならない」。

それが、國吉さんのメッセージだったのです。

複雑な状況と思いを抱えた「本土復帰」

そうしたなかで進められていった沖縄の本土復帰への動き。

住民たちの思いを知るために松山さんが訪ねたのは、沖縄市の中心街でニューヨークレストランを経営していた徳富清次さん(77)です。

復帰前、徳富さんのレストランは、アメリカ軍公認の「Aサイン」の店でした。
徳富清次さん
「レストランの場合、トイレは必ず男女別。もちろん水洗です。そして、手洗いは湯が出ないとダメ。それから水の検査もしよった」
松山さん
「それは誰が調べに来るんですか?。アメリカ人?、沖縄の人?」
徳富さん
「アメリカです。軍から来るんです。しかも2人から3人で。すごい権限がある。月に2回、検査官が来るんですが、いつかは分からない。検査に通らないと『オフリミッツ』。店を閉めざるをえない」
戦後まもないころ、アメリカの兵士たちは紳士だったといいます。

床屋で身なりを整え、バーでホステスとダンスをして遊んでいたそうです。

しかし、ベトナム戦争で兵士たちの様子は一変します。

けんかが絶えず、すさんだ空気に支配されていったと徳富さんは話しました。
徳富さん
「アメリカ兵もベトナムに行きたくないわけです。けんかして事件を起こして、刑に服したほうがいいという人もいた。町の中を裸で歩く兵士もいた。人間がすっかり変わってしまったようでした。戦争とは恐ろしいものですよ」
では、徳富さんは本土復帰に積極的だったのでしょうか。

松山さんは尋ねました。
「うれしいとか、そういう気持ちもありましたか?」
徳富さんが口を開くまでに、少し時間がありました。
「…商店街は復帰に反対する人がほとんどでした。商店街では『琉球政府でいい』と独立運動を始めかけたんですが、リーダーがいなくて、結局、消滅しました」
店は、アメリカ兵によって潤っていたといいます。

ただ、それは軍による”支配”と表裏一体。

複雑な思いが、住民の間には広がっていたそうです。
徳富さん
「軍人が、交通事故やいろんなことで無罪になるから、みんな嫌な思いをしているわけです。心の隅のほうでは、あの野郎と思っている。だけど、お金のためには、その怒りを表現できない…」

本土復帰後の沖縄で

複雑な状況と思いを抱えたまま、1972年、沖縄の本土復帰は実現します。

吉田勝廣さん(76)は、沖縄県中部にある金武町の元町長で、県の政策調整監などを歴任した人物。

復帰前後の沖縄を見つめてきました。
松山さんと語り合っていた吉田さん。

表情がくもったのは、町長在任中の出来事に話が及んだときでした。

ある女性が、アメリカ兵から性的暴行の被害を受けたというのです。
吉田勝廣さん
「現場にも明らかに暴行された痕跡がある。しかも、相手は3~4人の兵士でした。女性の家族と話しましたが、世間的に大変なことになるからと、穏便に済ませることになりました。すると、アメリカ兵たちは『自分がやったけど、何もなかった』と吹聴するわけです。やがて、その話は広がり、また事件が起きる…」
そして1995年には、アメリカ兵による少女暴行事件が起きます。
松山さん
「日本が、本土の政府が、この町の人たちを守ってくれたことはあったのでしょうか? 復帰して、何か対応が変わったりということはあったのでしょうか?」
吉田さん
「本土から離れた島で起きたことはあまり関係ないというか、そういう雰囲気は、痛切に感じますよね。東京や大阪でこんな問題が起きたら、どうするんだろうと」

沖縄の人たちが譲れないもの

真剣な表情で聞いていた松山さん、「もう1つ、聞きたかったことがあるんです」と切り出しました。
「沖縄の人が譲れないものってなんですか?」
吉田さん
「そうだなぁ…。『ちむぐくる』と、『いちゃりばちょーでー』かな」
「ちむぐくる」とは「心に宿る思い」や「真心」という意味。

人の思いやりや優しさ、助け合いの精神などを表しているそうです。

「いちゃりばちょーでー」は、「一度会えば、みんなきょうだい」という意味だとのこと。

吉田さんは、次のように話しました。
吉田さん
「人の中身はみんな一緒。心も一緒です。わいわい騒いで、飲んで、くだまいて。戦争がなければね、みんな一緒ですよ。生まれたときから悪い人はいない。僕はそれを信じたいんです」

“沖縄を知る旅”は続く

沖縄での取材を終えた松山さん。

次のように話しました。
松山さん
「沖縄の人の中に、怒りや憎しみ、恨みは当然あると思うんです。でも、それも含めて、一度、会ったら、みんなきょうだいなんですよね。そこに行き着くまでに、どれだけの“傷”を“温かなもの”へと変えてきたか。とても大変なことだと感じました。どういう形かは分からないけれど、今回の作品で表現したいところですね」
沖縄での同行取材中、いつも頭を抱えていたように思える松山さん。

「消化しきれない…」
「時間が足りない…」

舞台を務めるには、沖縄の歴史をもっと深く知る必要があると気付いたといいます。

「大変なものを引き受けてしまった」というつぶやきは、これからどう生かされ、どんなメッセージを私たちに届けてくれるのか。

本当の沖縄を知る旅は、今も稽古場で続いています。(つづく)
後編は「あわせて読みたい」からご覧ください。
11日(火)「おはよう日本」でリポートを放送予定ですのでぜひご覧ください。
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