人生を変える“言葉” 韓国で出会った茨木のり子

人生を変える“言葉” 韓国で出会った茨木のり子
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子「自分の感受性くらい」
生き方に迷う時。自信が持てない時。大きなものに流されてしまいそうになった時。
多くの人の背中を押してきた詩があるのをご存じですか?
その詩人のことばは、韓国でも愛され、広がっています。その理由とは?
(ソウル支局 ディレクター 長野圭吾)

韓国でも愛される 茨木のり子のことば

11月中旬。

韓国の観光名所、ソウルタワーのふもとにある小さな書店で、日本を代表する詩人・茨木のり子の朗読会が行われました。

今年で没後15年となった彼女の詩は、日本で世代を超えて愛されてきました。

実は茨木の詩は、数年前からハングルにも翻訳されるようになっています。

この日も、20代から30代の若者たちが集まり、自分の好きな詩を選んで朗読し、感想を語り合っていました。
高校教師の30代の女性
「『わたしが一番きれいだったとき』は、私の祖母のことにように感じられました。
祖母にも“きれいな時”があったのだと、気づかされるきっかけになりました」
同じく30代の女性は、『みずうみ』という詩を選びました。
「私はこの詩の『人間の魅力とは たぶんその湖のあたりから 発する霧だ』という言葉が美しいと思い、母にプレゼントしました。
若い女性として共感できる部分が多いと感じました」
30代の男性
「僕は『この失敗にもかかわらず』がよかったです。
年を取ると失敗を怖がって、安定を選んでしまいます。
でもこの詩を読むと、もっと生きなければならないという気持ちになります」
朗読会には、2年前に茨木のり子の詩を翻訳したチョン・スユンさんも参加しました。

茨木の詩には、いま韓国で生きる若者たちに必要な言葉が詰まっていると言います。
チョン・スユンさん(翻訳家)
「今、世界中で、男女平等の問題とかがあって、昔ながらの、男性は外で働く、女性は家族にささげるというかたちが、もう崩れているじゃないですか。
自分のなかにある自分らしさ、自分の純粋性だったり感受性だったり、そういうものを守りながら、自分の人生を歩んでいこうという力が、この詩集のなかに入っていると思う。
だから今の韓国の読者に、特に若い女性の方に響くところがあると思いました」

まっすぐに心に届く 茨木のり子のことば

国境を越えて広がる茨木のり子のことば。

その中でも、多くの人に愛されている詩があります。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子「自分の感受性くらい」
47歳となったディレクターの私も、「自分の感受性くらい」に支えられてきた一人です。

出会いは20代、フォークシンガーで翻訳家の中川五郎さんが、この詩にメロディーをつけ歌っているのを聞いたことでした。

以来、新年になると、この詩を手帳の裏表紙に書き写すようになりました。

自らの甘い姿勢を正し、背筋をシャキっと伸ばしてくれる。

この詩は、ひとりの恩師のような存在となっていきました。

茨木が心を寄せた 韓国の詩人

韓国での読者の広がりを知った私は、ある人を取材できないかと考えました。

茨木が生涯、信頼を寄せた女性詩人ホン・ユンスク(洪允淑)です。

茨木は、50歳目前で学び始めたハングルを使って、韓国の現代詩人の作品を翻訳しました。

ホンはその中の1人。

私は15年前に茨木が亡くなった直後に、ソウルの自宅を訪ね、取材したことがありました。

物静かなたたずまいで、茨木の死を深く悼む姿が印象に残っていました。

出版社を通じて連絡を取ったところ、残念ながらホンは6年前に亡くなったと知らされました。

しかしご家族が、茨木がホンに宛てた手紙を、いまも大切に保管していると教えられました。

27通の手紙 中身は?

残されていた茨木の手紙は、消印などから1979年から2006年までに出された27通だと分かりました。

許可をいただいて、そのすべてを読ませていただきました。

お互いに日韓を行き来しながら、30年にわたり交流を続けた二人。

茨木の手紙には、ソウルで受けたもてなしに対するお礼や、東京を訪ねたホンさんへの感謝がつづられ、「次にお目にかかれる日を鶴首してお待ちしています」と、再会を強く願う手紙が数多くありました。

その中でも、私が驚かされた手紙がありました。

ハングルで書かれた茨木の手紙

消印は1979年3月。

まだ二人が出会ったばかりの頃に、茨木がホンに宛てた手紙でした。

驚いたことにその手紙は、ハングルで3枚に渡り書かれていました。

茨木はまだ習って間もないハングルを使い、ホンに何を伝えようとしたのでしょうか?
ホン・ユンスク先生へ

こんにちは。すぐに手紙をくださってありがとうございます。お久しぶりです。
私は少し体調が悪い日が続いていて、万年筆を持てないでいました。
返事が遅れてしまったこと、許してください。

ホン先生の手紙は、素晴らしい日本語の文字ですね。
言葉を奪ったことは、戦前の日本の罪と考えて、私は汗を流しながら韓国語の勉強を続けています。
私が通っている新宿の韓国語教室には、日本人がたくさんいます。彼らもそんな考えでしょうか?
おそらく・・。

(中略)

また手紙をくださる時には、韓国語で書いてください。
私が勉強するために。
さようなら。

1979年3月6日
茨木のり子
現在の北朝鮮・ピョンアン(平安)北道で生まれたホン・ユンスクは、日本語が堪能でした。

それは、20歳で戦争が終わるまで、日本の植民地下で日本語教育を受けてきたためでした。

ホンはその時の思いを自著の中で、こう記しています。
「十代の思春期のころ、日本の軍国主義によって悲惨な戦乱を経験した。それは私の人生の中で初めての、か弱い感覚を貫いていく恐怖、困窮、混乱の苦しみだった。言葉と名前を奪われ、朝夕に使っていた食器とスプーンまで取られた収奪と恐怖の日々(中略)いまだに私の人生の一部に、消えない影として残っている」
茨木は、ハングルを学ぶきっかけの一つに、ホンと出会った時のある出来事があったと記しています。
「『日本語がお上手ですね』その流暢さに思わず感嘆の声をあげると、『学生時代はずっと日本語教育されましたもの』。ハッとしたが遅く、自分の迂闊さに恥じ入った。」(『ハングルへの旅』)
日本が朝鮮半島を植民地化した36年間、日本語教育したことは頭ではよく分かっていたつもりだったが、その痛みまで含めて理解できていなかったと記しています。

茨木の手紙に対し、3週間後、ホンからの返事が届きます。
茨木先生、韓国と日本との過去の政治的な関係はとても悲しいことではありましたが、
いま私たちはその悲しみをほとんど忘れてしまっています。
これからはよき隣人として、新しい人間関係や友情を結べることを願っています。多くの日本人たちが韓国語を学んでいらっしゃるということはすばらしいことです。
(1979年3月27日)
手紙を見せてくれたのは、ホン・ユンスクの娘、ヤン・ジュヘさんです。ヤンさんは、幼い頃、日本語は使わないようホンに厳しくとがめられたことを覚えています。

しかしそのホンが、茨木と交流を続ける中で、日本へのまなざしが少しずつ変わっていったといいます。
ホン・ユンスクの娘 ヤン・ジュヘさん
「母は日韓で対立が起き、韓国の世論が沸き立つたびに、それを常に正しく見ようとしていました。
一時の感情に流されて、好き嫌いに偏ってはいけないと。
あなたたちは日本文化についてもっとよく知るべきだ。
そのような話をずいぶんしてくれました。」
「茨木のり子さんは、母がどれだけ言葉に対する痛みがあるかを理解して、またそれをご自分の痛みとして抱えてくださった。
そのことが母の心をほぐしたのではないでしょうか。」

趣味で終わらなかった 茨木のハングル

手紙は80年代後半になると、当時茨木が取り組んでいた韓国詩の翻訳について相談する内容が多くなります。

茨木は勉強を続けてきたハングルを生かして、当時日本では知られていなかった韓国の現代詩人の作品を、日本に紹介したいと考えていたのです。

1988年4月の便りには、ホン・ユンスクの代表的な詩「海」の翻訳を確認する便りを送っています。
できることなら
この美しい詩をよい日本語で掲載し、
韓国詩の高い水準をたくさんの人に知らせたいと考えています。
変なところはないですか?教えてください。

海   ―海の言葉

わたくしたちが 大きな海を行く時
ひとかたまりの雲になって
海の上を 旅立つ時

はるかかなたの舳や甲板の上で
互いに知らない人たちが
手を振る
またとない熱い血族のように
手を振る


時代の流れと共には、そう簡単に流れ去ってしまわない詩を選んだつもりですが、はたしてどうなっているでしょうか。

とにかく全力をあげて、完成にもっていきたいと思っています
1990年、茨木は自らが選んだ12人の韓国詩人の作品60編以上を翻訳し、『韓国現代詩選』として発表。

詩集は、韓国の現代詩をまとまった形で初めて紹介したとして高い評価をえました。

ホンは、その知らせを聞き、茨木に手紙を送っています。
ご立派なお仕事の成果、本当にうれしく、先生の詩人としてのもう1つのすぐれた力量がしのばれて尊敬の念を禁じえません。この冬はぜひゆっくりお休みなさいますよう。
一国の言語と、その中でも一番難しい詩を訳することは、その国の精神文化を観察することだと思います。
その意味で先生は真に大した作業を完成なさったのです。
一冬くらいは十分休む権利があると思います。

(1990年11月28日)

国境を越えた心の交流

ホン・ユンスクの娘、ヤン・ジュへさんによると、ホンは亡くなる前に自身の持ち物の大部分を処分していましたが、茨木から受け取った手紙は大切に残していたそうです。

二人はどのような関係だったかと聞くと、1枚の写真を取り出して、見せてくれました。
ホン・ユンスクの娘 ヤン・ジュへさん
「これは先生のお宅みたいです。
茨木先生の服装をご覧ください。
エプロンじゃないですか。
これこそ女子高生が友達に会って、少し興奮してお二人がおしゃべりを楽しんでいるように見えませんか。

母は、茨木先生が苦労なさりながらも韓国の詩を日本に紹介してくれたことを喜んでいました。
二人がただの交友関係であったなら、そこには魂の入った話はなかったでしょう。
詩人の精神をもって互いに交流したからこそ、私たちにはとてもじゃないけど想像できないお二人だけの世界があったのだと思います」

茨木のり子がまいた いくつもの種

私は27通の手紙を読み終えて、茨木のり子の肉声に少しだけ触れたような気がしました。

まっすぐ丁寧な文字で書かれた、韓国の友人や韓国詩への思い。

そこに自分の感じたことをひるまずに守る、茨木のり子の生き方を感じとることができたからです。

茨木の詩に「小さな渦巻」という作品があります。
ひとりの人間の真摯な仕事は
おもいもかけない遠いところで
小さな小さな渦巻をつくる

それは風に運ばれる種子よりも自由に
すきな進路をとり
すきなところに花を咲かせる

茨木のり子「小さな渦巻」
茨木のり子がまいた種は、時を越え、国境を越え、ここ韓国にも花を咲かせています。
ソウル支局 チーフ・プロデューサー
長野圭吾
1998年入局 21年7月にソウル支局に赴任
韓国の社会問題や映画などの文化を主に取材