【詳しく】宇宙に初めて人類を送った国 ソビエトはなぜ崩壊?

国境周辺を巡って緊張が高まるロシアと隣国ウクライナ。この2つの国、いまから30年前にソビエトが崩壊するまでは、同じ国でした。

東西冷戦でアメリカ率いる資本主義陣営と激しく対立したソビエト。
世界で初めての社会主義国家、人類初の有人宇宙飛行の実現など、その名をとどろかせながら、30年前になぜ崩壊したのか?崩壊直後のロシアに留学経験もある記者がわかりやすく解説します。
(モスクワ支局・権平恒志支局長 国際部・田村銀河記者)

※「ソビエト崩壊30年」に関しては12月26日(日)のNHK「ニュース 地球まるわかり」(午後6時05分)でも放送する予定です

ソビエトとはどんな国?

世界で初めての社会主義国です。レーニンによる1917年の社会主義革命を経て、1922年に成立しました。

第2次世界大戦後、主にヨーロッパ東部の社会主義諸国を影響下に置いて東側陣営を率いたソビエトは、資本主義国の西側陣営の中心となったアメリカと激しく対立し「東西冷戦」と呼ばれました。

ソビエトは15の共和国で構成されていました。
現在の国でいうと1ロシア 2エストニア 3ラトビア 4リトアニア 5ベラルーシ 6ウクライナ 7モルドバ 8ジョージア 9アルメニア 10アゼルバイジャン 11カザフスタン 12ウズベキスタン 13トルクメニスタン 14キルギス 15タジキスタンです。

それぞれ民族や宗教、文化も多様でした。

人類初の有人宇宙飛行もソビエト?

いまから60年前、人類で初めて宇宙飛行を達成し「地球は青かった」ということばを残したガガーリンは、ソビエトの宇宙飛行士です。

世界で最初に人工衛星を打ち上げたのもソビエト。衛星の名前をとって、西側陣営では「スプートニク・ショック」と呼ばれ、宇宙開発の遅れに対する危機感が広がりました。

今のロシアが開発し、初めて承認した新型コロナワクチンも当時の衛星にちなんで「スプートニクV」と名付けられています。

今月、実業家の前澤友作さんはロシアの宇宙船「ソユーズ」に搭乗して、日本の民間人としては初めて国際宇宙ステーションに滞在しました。

ソビエトの社会主義は何を目指していたの?

富を国民に平等に分配し、格差のない社会をつくるという理想を掲げていました。

集団農場や国営農場で多くの労働者が働き、農産物の生産量や価格は計画経済のもとで統制されていて、教育や医療のサービスも手厚く整備されていました。

一方、政治体制は共産党による一党独裁でした。

批判を封じて体制を維持するため、国民の行動は監視され、厳しい検閲により、事実上、言論の自由はありませんでした。

外国との自由な往来はできず、西側陣営からは「鉄のカーテンに包まれている」と表現されていました。

ソビエトはなぜ崩壊に向かった?

「鉄のカーテン」のなかで、1960年代以降のソビエトは「停滞の時代」と呼ばれる時期を迎えます。

政治体制は硬直化し、経済も低迷、「超大国」の威信をかけた軍拡競争の影響で、日用品など生活物資の不足も深刻となりました。

1970年代には2度のオイルショックで原油価格が高騰し、資源国として一時的に恩恵を受けましたが、その後の価格の下落は疲弊した経済に追い打ちをかけました。

さらに1979年、ソビエトはアフガニスタンに侵攻。激しい抵抗にあって戦況は泥沼化しました。戦死者が増え続ける中、国民は戦争の大義名分に疑問を抱き始め、かさむ戦費は国家財政を圧迫しました。

そうしたなか、ソビエト崩壊への流れを加速させたと言われるのが、1985年にソビエトの指導者=書記長に就任したゴルバチョフ氏です。

当時、若手の指導者として注目を浴びていて、国家再建への期待を背負っていました。

期待されたゴルバチョフ氏 それなのになぜ崩壊?

ゴルバチョフ氏は、ペレストロイカ=立て直しと、グラスノスチ=情報公開を柱とする政策を掲げ、改革に着手。しかし、歴史は思いもよらぬ方向に。

情報統制で隠されてきたアフガニスタン侵攻の悲惨な実態が伝えられるようになったり、物質的に豊かな西側の資本主義社会の情報がもたらされるようになったりして、人々の不満がうっせき。

1986年4月に発生したチェルノブイリ原発事故では、事故後の情報公開が不十分だったことで、ゴルバチョフ氏が推進する政策と矛盾しているという批判も起きました。

さらにソビエトの各地では民族意識の高まりから独立を求める動きが加速し、「民族共和国」の集合体だったソビエトに強い遠心力が働き始めたのです。

ソビエトはどのように崩壊したの?

1991年8月、ゴルバチョフ氏の改革に危機感を抱いた政権内部の保守派などがクーデターを試みるも、市民の徹底抗戦で3日間で失敗に終わります。

このとき市民の先頭に立った、ソビエト連邦のなかの「ロシア共和国」の大統領エリツィンに実質的な権力が集まることになりました。
この事件を機に一党支配を続けたソビエト共産党の権威は失墜し、社会を監視してきたKGB(国家保安委員会)の創設者の像も引き倒されました。

1991年12月には、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国の首脳が、連邦の消滅と独立国家共同体の設立を宣言。

「ソビエト連邦」の大統領になっていたゴルバチョフ氏は12月25日に辞任を表明し、クレムリンに掲げられた赤い国旗が降ろされ、ソビエトは69年の歴史に幕を閉じました。

崩壊したソビエトはどうなったの?

ソビエトを構成していた15の共和国は、それぞれ独立して新たな国家としての歩みを始めました。新しい国旗や国歌が制定され、ソビエト時代の「共通語」だったロシア語に加えて、それぞれの民族の言語が公用語になりました。

また、ソビエト時代に埋もれていた自分たちの固有の歴史を取り戻そうと、都市名はソビエト時代の名称から、自国の歴史に由来するものなどに変更。その動きは、通りや地下鉄の駅の名前にまで広がりました。

ソビエトという国家を継承したのが今のロシアですが、ソビエトの代名詞だった社会主義は資本主義にかわるなど、経済体制なども大きく変容しました。

崩壊後、人々の暮らしは好転した?

市場経済へと移行するなかで、むしろ悪化しました。崩壊直後の暮らしについて「どん底に落ちた気分だ」と振り返るロシア人も多くいます。

国が長期計画を立てて経済を管理、運営してきた計画経済がソビエト崩壊に伴って、突然、市場経済に移行。急激な自由化や国有企業の民営化は大きな混乱を引き起こし、崩壊直後の1992年には、ロシアでインフレ率が2600%という「ハイパーインフレ」が起きました。

実はロシアのプーチン大統領も、当時は苦しい生活を強いられていたと告白しています。
ソビエト崩壊30年に合わせて国営ロシアテレビで放送された特別番組で、国民とともに崩壊後の苦しみを味わったとしたうえで、次のような発言も。

「あまり言いたくはないが、時にはソビエト製の自家用車に乗って運転手として小銭を稼いだこともあった」

現地で当時の様子をどう感じた?

当時、短期の語学留学のためモスクワに滞在していましたが、経済の混乱で商店にはモノが乏しく、それを求める長蛇の列ができていたのが印象的でした。

殺伐とした空気の中で、ひとり、ジャガイモと塩だけで作った温かいスープでもてなしてくれた、受け入れ先の高齢の女性だけが救いでした。

経済の混乱から立ち直ることができたの?

苦境に陥ったロシアですが、2000年代に入ると一転して経済が回復に向かいます。その要因の一つは国際的な原油価格の高騰です。

ロシア産原油の価格は90年代後半、1バレル当たり10ドル台に落ち込んでいたところ、99年から上昇に転じ、2008年には、1バレル130ドルほどにまで高騰しました。

原油価格の高騰は、世界有数の資源国ロシアにとって絶好の追い風となり、社会はオイルマネーによる消費ブームにわきました。
2000年に大統領に就任したプーチン氏は、崩壊後の混乱から国家を立て直した強い指導者としてもてはやされ、高い支持率を得ることになったのです。

一方で貧富の格差は、都市と地方の格差とともに、ますます広がっていきました。

ソビエト崩壊はロシア、そして世界に何をもたらした?

プーチン大統領はソビエト崩壊について「20世紀最大の地政学上の悲劇」と表現。最近は「ソビエト連邦という名のもとにあったロシアの歴史が崩壊した。1000年をかけて築き上げられたものが失われた」とまで表現しています。

その裏には、ソビエトとはロシアそのものであり、崩壊に伴う15の共和国の独立を「国土と国民の喪失」と見ていることがうかがえます。

プーチン大統領は、ベラルーシや中央アジア各国など旧ソビエト圏で統合の動きを強めてきました。

一方、軍事力を背景にしたウクライナ南部クリミアの併合は、ロシアの影響力から抜け出して欧米に向かおうとする国に対して、プーチン政権が現状変更を試みていると受け止められ、欧米からの厳しい非難や制裁と、新たな対立を生んでいます。

そして今、ロシアはウクライナとの国境周辺に大規模な軍の部隊を展開し、軍事攻勢をかけるのではと警戒を強める欧米諸国との間で新たな緊張が生まれています。

ロシアは、アメリカを上回る、合わせて6200発余りの核弾頭を持つ核保有国として、また国連安全保障理事会の常任理事国として、今も国際社会で強い影響力を持っています。

ソビエト崩壊から30年。

ロシアは、ソビエト時代に国境をめぐって武力衝突が起きるほどに対立した中国とは逆に連携を深める一方で、欧米との対立の歴史は形を変えて繰り返されていて、その動向はこれからも注意深く見ていく必要がありそうです。