もしもサンタさんがいるなら

もしもサンタさんがいるなら
「サンタさんがいるなら、妹を連れてきてほしい」
クリスマスの日、女の子の兄が口にしたことばです。

家族で楽しく過ごすはずだったクリスマス。しかし、その1か月前。登校中の一瞬の出来事で女の子は7歳6か月の命を終えていたのです。

それから21年。お母さんは今も女の子に起きた出来事と向き合い続けています。飲酒運転の事故を無くしたい。それが、お母さんの願いです。
(盛岡放送局記者 梅澤美紀)

楽しみにしていたクリスマス

女の子の名前は大崎涼香(りょうか)さんです。

小さいころから2人の兄の後ろをいつも元気に追いかけていた涼香さん。
かけっこが得意で、運動会ではリレーの選手として活躍しました。

逆上がりが先にできるようになると頑張っている友だちを手伝ってあげる優しい性格で、多くの友だちに囲まれて過ごしていました。
「わたしはクリスマスがたのしみです わたしはふゆがだいすきです ふゆはたのしみがたくさんあります またらいねんもたのしみがくるといいなぁ」

冬場は厳しい寒さと、真っ白い雪につつまれる、岩手県北部の二戸市で生まれ育った涼香さん。

小学1年生になったばかりの頃に作った手作りのカレンダーに書かれた言葉です。

雪の結晶と暖かな光に包まれ、友人と楽しい時間を過ごすイラストが添えられていました。

いってらっしゃい、気をつけてね

2000年11月28日、朝7時半ごろ。

涼香さんは、小学6年生と4年生の兄と3人で小学校に出発しました。

いつものように自宅前に集まった同じ学校の子どもたちとの集団登校でした。

白鳥が飛来し、冬の訪れが近づいていたその朝のことを、母親の大崎礼子さんははっきりと覚えています。
大崎礼子さん
「ほんとにいつもと変わらない朝だったんですね。集団登校のために集まっていた子どもたちがちょうど出発するとき、珍しく頭の上を白鳥の群れが飛んで行ったのをみんなで見上げながら『すごいね、きれいだね』ってはしゃいでいたんです。それから『いってらっしゃい、気をつけてね』って声をかけて見送ったんです」
涼香さんは振り返って礼子さんに手を振り、出かけていきました。

とびきりの笑顔でした。
しかし、そのわずか数分後。

学校に向かって歩く子どもたちの列に、走ってきた軽トラックが突然突っ込んできました。

涼香さんは跳ね飛ばされ、子どもたちは次々になぎ倒されました。

事故を起こしたのは飲酒運転の車。

ほんの一瞬の出来事でした。

涼香さんともう1人の児童の合わせて2人の幼い命が奪われ、6人がけがをしました。
大崎礼子さん
「信じられなくて認めたくなくて。さまざまな感情がありました。言葉では言い表せない」

なぜ?どうして?

ずっと続くものだと信じていた、ささやかな家族の日常。

娘が突然いなくなったことに礼子さんは「なぜ?どうして?」という答えの見つからない渦の中にずっといました。

まわりの人の「頑張ってね」「元気出してね」という善意のことばもかえってつらく感じられ、悲しみと苦しみだけが深まっていくばかりでした。

家にいても職場にいても、ふとした瞬間に涙があふれ出てきました。
事故から1か月近く後、涼香さんがいなくなって初めてのクリスマスを迎えました。

小学4年生の次男の言葉を、礼子さんは今も忘れることができません。

“サンタさんがいるなら涼香を連れてきてほしい。あとは何もいらない”

事故当日、動かなくなっていく涼香さんを目の前で見ていた次男と長男。

「僕がよけていなければ」
「僕が手を引っ張ってあげていれば」

何も悪いことはしていない2人は自分を責め、心に深い傷を負っていました。
「子どもたちは『悲しい』とか『悔しい』とか、そういう感情をうまく言葉にすることができなかったようなんです。本当は母親である私が残された息子たちにもっと気を遣って抱きしめてあげたり、優しくしてあげなければいけないはずだった。でも私は涼香を失った悲しみだけでいっぱいいっぱいで、息子たちの気持ちに気付いてあげられなかった。そんな状態でした」

軽すぎる刑罰

悲しみを癒やす間もなく軽トラックの運転手に対する刑事裁判が始まり、礼子さんはいやおうなく対応を迫られました。

当時の法律では、交通事故で人を死亡させた場合の最も重い量刑は業務上過失致死傷罪で懲役5年。

飲酒運転で居眠りして事故を起こし、2人を死亡させた運転手に言い渡された判決は懲役4年。

礼子さんは到底納得できませんでした。

しかし、検察は控訴を断念。

「他の事例の量刑や情状面を十分検討した結果、一審の判決を覆すのは難しい」というのがその理由でした。
「加害者は4年服役すれば社会に戻ることができても、命を奪われた2人の子どもたちは何年待っても戻ってこない。悪質な運転をした加害者に対して、あまりにも刑罰が軽すぎるんじゃないか」
礼子さんは全国の遺族らとともに、飲酒運転などの厳罰化を求める署名活動を行いました。

全国で37万人を超える署名が集まり、最高刑を懲役15年とする「危険運転致死傷罪」が成立しました。

2001年11月28日、事故から1年後の涼香さんの命日のことでした。

前に進むきっかけ

礼子さんにとって、署名活動でつながった遺族との交流は前に進むためのきっかけになったといいます。

それまで1人で抱えていた苦しみを、受け止め合うことができる存在が全国にいることがわかったからです。
大崎礼子さん
「自分1人じゃないんだって思えたんです。それまでは娘を失った悲しみ、悔しさ、怒りといったさまざまな感情は、自分の中にしまいこんでいた。本当は誰かに知ってほしかった。伝えたかったんです」
事故から2年。
礼子さんは新たな一歩を踏み出しました。

それまで「被害者遺族として、経験を話してほしい」という講演の依頼が寄せられていましたが、「自分の思いを話したところで分かってもらえるのか」という不安から断り続けていました。

それに「被害者遺族」という「肩書き」自体、娘を失うまでは「被害者」にも「遺族」にも縁がなく、事故のあと自ら望んでもいないのに背負わされたもので違和感も感じていました。

その依頼を、思い切って引き受けることにしたのです。

時が過ぎていく中で、事故のことや涼香さんのことを母親である自分が伝え続けていかなくてはならないと感じるようになったからです。
「あれだけ悲惨な事故でも、時間の経過とともに人の記憶から忘れ去られてしまう。涼香が確かにこの世に生きていたという事実、そしてこの静かな街であんなに悲惨な事故が起きてしまったという事実を、忘れてほしくない」

「目を背ける」のではなく「向き合う」

事故から3年。

礼子さんはまた一つ、それまで目を背けてきた現実と向き合うことを決めました。
事故のあと、警察から返されていた涼香さんの遺品のランドセルです。

それまでは、つらさのあまり箱から出して見ることはできませんでした。
「私が見ていない、でも涼香が見た事故の瞬間を物語るものが遺品には残されているんだろうなって思った時に、母親として目を背けるんじゃなくて向き合わなければいけない。そういうふうに気持ちが変化したんです」
丈夫なはずのランドセルは変形し、肩ベルトの金具も引きちぎられていました。
涼香さんの命を一瞬で奪うほどの衝撃の激しさ。

礼子さんはそのありのままの現実を目を背けずに受け止めました。

母親としての役割を果たそうと、つらさに耐えてあえて向き合うことを選んだのです。

「涼香ちゃんと一緒に」

その後1年、また1年と月日が過ぎても、悲しみが消えることはありません。

毎年5月には草木が香る季節に生まれた涼香さんの誕生日を祝い、毎年11月の命日には事故現場を訪れて涼香さんの最後の場所と向き合ってきました。

そして事故から14年となる年の1月。

涼香さんの同級生が自宅を訪れました。

20歳の成人式の日でした。
来てくれたのは小学1年生の時に涼香さんとよく遊んでいた、仲が良かった同級生です。
振り袖姿の同級生は「涼香ちゃんを一緒に連れて行きたい」と涼香さんの写真を大事に抱えて成人式に向かいました。
大崎礼子さん
「すごく、とてもうれしかったんです。涼香のことを本当に忘れないでいてくれたんだなってわかったので。来てくれたことも同級生の成長もすごくうれしかった」
同時に、失ったものの大きさを改めて感じる瞬間でもありました。
「でも、ここに涼香がいてくれたらなぁっていう悲しみもやっぱりありました。涼香が生きていたらどんな風に成長していたのか、どんな笑顔を見せていてくれたのかと思うと、悔しさが込み上げてきて。私たちにとって涼香はいつまでも7歳6か月のままなんです」

再び「あの日」に…

涼香さんたちの尊い命の犠牲の上に実現した飲酒運転の厳罰化。

さらに警察による取り締まりの強化もあって、社会全体の意識は大きく変わりました。

飲酒運転による事故の件数は去年までの20年間で10分の1と大きく減り、犠牲者の出る事故の件数も年間1276件から159件に減少しました。
しかし、ゼロになったわけではありません。

涼香さんの事故から21年となる、ことし。
6月、礼子さんの心が再び大きく乱れる出来事がありました。
千葉県八街市で下校中の小学生の列に飲酒運転のトラックが突っ込み、児童2人が死亡、3人が大けがをする事故が起きたのです。

「児童の列」に「飲酒運転のトラック」、そして「児童2人が死亡」…。

あれから21年、もう二度と繰り返されないよう、多くの人が多くの努力を重ねてきました。

それなのに、涼香さんの命が奪われたあの事故と、あまりにも重なるところが多い事故の知らせでした。
「あの日に引き戻されたような感覚になりました。悔しさや憤り、そんないろいろな感情が次から次へとわき起こってきて。また同じような悲劇が起きてしまったのかと。残された家族のことを思うと、今ごろどういう思いで過ごしているだろうと…」

それでも伝え続ける

同じような飲酒運転の事故を防ぐために厳罰化が行われ、社会全体でさまざまな取り組みが進む中、それでも何の落ち度もない尊い命が奪われる事故が後を絶たない現実。

だからこそ礼子さんは21年前のこと、涼香さんのことを伝え続けていこうとしています。
礼子さんがいまも続けている活動があります。

小中学生や高校生への「いのちの授業」です。
大崎礼子さん(講演で)
「娘が私の前から突然いなくなってもうすぐ21年たちます。みなさんが生まれるずっと前のことです。でも事故や涼香のことは過去のことではなくて、今もずっと向き合って生きています」
そして千葉県八街市で起きた事故にも触れたうえで、こう語りかけます。
「いつかみなさんがハンドルをにぎる時がきたら、これまで犠牲になった尊い命がたくさんあったんだということ、残された家族の気持ちを想像してもらえたらと思います。そして、被害者を作らないためにも絶対に加害者にならないという意識を持ち続けてください」

命日 涼香さんと誓ったこと

そしてことしの11月28日。

涼香さんが亡くなって21年の朝です。

事故が起きた場所に、ひとり花を持って訪れる礼子さんの姿がありました。

「サンタさんがいるなら、妹を連れてきてほしい」と願った兄たちも成人し、それぞれの道へ進んでいます。

しかし、礼子さんにとって、涼香さんはいつまでも7歳6か月のままです。
涼香さんを失ったこの場所に立つことは、とてもつらいことです。

それでもあえて、毎年事故の起きた時刻に合わせて訪れています。
大崎礼子さん
「私にとってはいろいろなことがありすぎて、本当に長い長い年月だった。毎年、11月28日という日を1日1日待っているような感覚なんですね。とてもつらいっていうのは今も変わらないです」
「あのような悲惨な事故は二度と繰り返されてはいけないと改めて強く思うんです。それが涼香の思いでもあると思う。涼香の最期となったこの場所と向き合って、一緒に生きていく。それを誓うためにも、毎年ここに立ってます」
礼子さんはこれからも事故のこと、涼香さんのことを伝え続けていこうと決めています。

「ハンドルを握るドライバーは、人の命を握っている」「そう思って運転してほしい」

礼子さんと涼香さん、親子2人からの願いです。
盛岡放送局記者
梅澤美紀
2020年入局
県警担当 震災取材担当