最後の福岡国際マラソン 細谷が2位 2時間8分16秒

数々の名勝負を生んできた福岡国際マラソンが5日で最後の大会となりました。細谷恭平選手が2時間8分16秒のタイムで日本選手トップの2位に入り、パリオリンピックの選考レースとなる再来年秋のMGC=マラソングランドチャンピオンシップの出場権獲得第1号となりました。

1947年に始まった福岡国際マラソンは、瀬古利彦選手や宗兄弟の三つどもえの争いなど、数々の名勝負を生んできましたが、トップ選手の出場が減って注目が低下したことに伴い財政が厳しくなったことから、ことしが最後の大会となりました。

また今回は、2024年のパリ大会に向けて再来年秋に行われる“一発勝負”の代表選考レース、MGC=マラソングランドチャンピオンシップの出場権がかかった最初の大会です。

福岡市の平和台陸上競技場を発着するコースで行われたレースには、元日本記録保持者の設楽悠太選手ら有力選手が出場しました。

設楽選手は20キロ地点で棄権しましたが、先頭集団は日本記録に近いペースで進み、32キロ地点で2時間6分台のタイムを持つ細谷恭平選手らを含む3人の争いとなりました。

34キロすぎに日本の実業団に所属するケニアのマイケル・ギザエ選手が飛び出し、細谷選手が追いかけたもののなかなか差を縮めることができませんでした。

そのままギザエ選手が逃げきり、2時間7分51秒のタイムで初優勝を果たしました。

日本選手トップは2位の細谷選手でタイムは2時間8分16秒でした。

細谷選手は、日本陸上競技連盟が定めた基準を突破し、MGCの出場権獲得第1号となりました。

このほか、4位の大塚祥平選手と5位の高久龍選手、それに6位の上門大祐選手がいずれもMGCの出場権を獲得しました。

細谷「MGCの出場権取れたことがよかった」

細谷恭平選手は、「終盤で先頭に追いつくのが厳しくなってからは、日本選手のトップをずっと意識して走っていた。思っていた以上に足が動かなかったので、かなり苦しいレースになった」とレースを振り返ったうえで、「パリオリンピックに出場するには、選考レース、MGCが必須なので、そこの出場権を取れたことはとりあえずよかった」と話しました。

福岡国際マラソンが最後になることについては、「こういう歴史ある大会がなくなるというのはすごく名残惜しい」と話していました。

MGCにつながる最初の大会

今回の福岡国際マラソンは、3年後、2024年のパリオリンピックの選考レースとなるMGCにつながる最初の大会です。

東京オリンピックに向けたマラソンの代表選考で、日本陸上競技連盟は選手強化と選考過程の透明化を図ろうと、“一発勝負”のレース、MGCをおととし初めて実施し、この夏の東京大会では男子の大迫傑選手が6位、女子の一山麻緒選手が8位に入賞しました。

日本陸連は、2024年のパリ大会に向けてこの選考の仕組みを継続し、選考レースのMGCを再来年の秋に行いますが、その出場権がかかった最初の大会が福岡国際マラソンでした。

男子は
福岡国際マラソンなど「グレード1」と呼ばれる4つの大会で、
▼日本選手の3位以内かつ2時間10分以内、
または
▼日本選手の4位から6位かつ2時間9分以内が条件となっています。

女子は
来年1月に行われる大阪国際女子マラソンから対象の大会が始まり、
この大会を含む「グレード1」の3つの大会では
▼日本選手の3位以内かつ2時間28分以内、
または
▼日本選手の4位から6位かつ2時間27分以内が条件です。

このほかにも出場権を獲得できるさまざまな条件が設けられていて、
▼男子では2時間8分以内、
▼女子では2時間24分以内のタイムを
1回でも出せばMGCに出場できます。

福岡国際マラソンの歴史

「福岡国際マラソン」は、日本選手で最初にオリンピック出場を果たした金栗四三の功績をたたえて、1947年に熊本で開催された「朝日マラソン」が始まりで、福岡のほか、香川や静岡、広島など日本各地で開催されました。

1959年から福岡での開催が定着し、ミュンヘンオリンピックの金メダリスト、アメリカのフランク・ショーター選手が4連覇を達成した1974年に今の大会名の「福岡国際マラソン」となりました。

福岡国際マラソンは、オリンピックや世界選手権の男子マラソンの代表選考大会の1つに設定され数々の名勝負が生まれました。

1979年の大会では前年に初優勝した瀬古利彦選手が宗兄弟との三つどもえの大接戦を制し、2位の宗茂選手と3位の宗猛選手とともにモスクワオリンピックの代表に内定したものの、その後、日本がボイコットをして出場はかないませんでした。

福岡の地で数多くの名勝負をした瀬古選手は、1983年の第37回大会では、タンザニアのジュマ・イカンガー選手と最後のトラック勝負までもつれ込む激しいレースとなり、ラスト100メートルで華麗に抜いて優勝しました。

この姿は、当時の瀬古選手の勝ちパターンを象徴していて、多くの陸上ファンの記憶に刻まれています。

このほか、宇佐美彰朗選手や中山竹通選手など男子マラソン界を盛り上げた名ランナーたちも出場していて、中山選手はソウルオリンピックの代表選考会となった1987年の大会を独走で制しました。

1991年からはアップダウンの少ない都市部を走るコースに変更されてより高速なレースとなり、2000年に藤田敦史選手がシドニーオリンピックの金メダリスト、エチオピアのゲザハン・アベラ選手を破り、2時間6分51秒の当時の日本最高記録で優勝しました。

また、アテネオリンピックの代表選考会となった2003年の大会は国近友昭選手と諏訪利成選手、それに高岡寿成選手によって、この大会も三つどもえの激戦となりました。

優勝した国近選手と2位の諏訪選手が代表に選ばれた一方、当時の日本最高記録をもつ3位の高岡選手は涙を飲みました。

そして、近年では2017年に国内初レースとなった大迫傑選手が、当時の日本歴代5位のタイムで実力を見せつけると、翌年の2018年には服部勇馬選手が日本選手として14年ぶりの優勝を果たし、この夏の東京オリンピックへの登竜門となりました。

こうした歴史や功績がたたえられ去年、世界陸連から「世界陸上遺産」に選出されています。

優勝4回の瀬古利彦さん「名ランナーを育てた」

日本陸上競技連盟のロードランニングコミッションリーダーで、福岡国際マラソンに5回出場し4回の優勝を果たした瀬古利彦さんは「優勝した選手が軒並みオリンピックで優勝したとか、世界記録を出したとか、そういう選手ばかりで、世界のマラソンを育ててきた大会だ。私も含めて、宗兄弟、中山竹通選手など名ランナーを育ててくれた。本当に今までありがとうございました」と大会が最後になることを惜しんでいました。