太平洋戦争80年 真珠湾攻撃の爪痕 今なお深く

太平洋戦争80年 真珠湾攻撃の爪痕 今なお深く
真っ青な空と、透き通る海。

楽園のようなハワイの光景とあまりにもかけ離れた“異形”の物体が、海底に無残な姿をさらしている。
アメリカの戦艦アリゾナ。
80年前、日本軍によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で、アリゾナは1000人を超す兵士とともに沈められた。

今も真珠湾一帯は、アメリカ軍の重要な拠点となっており、取材や撮影のハードルは高いが、今回、特別の許可を得て撮影を敢行した。
80年の時が流れているにもかかわらず、激しい戦闘の傷痕が、そこかしこに生々しく残されていた。
(NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争」取材班/在米ジャーナリスト 野口修司)

1941年12月8日 そのとき

1941年12月8日(現地時間7日)、日本とアメリカは4年近くに及ぶ戦争へと突入した。

太平洋戦争である。

緒戦こそ日本軍の勝利に終わったが、アメリカ軍の反転攻勢以降、日本は終始劣勢を強いられ、最終的には300万近い死者を出し、国土は灰じんに帰した。

私は、NHKの戦争や原爆関連の海外取材に40年近く携わってきた。
今から29年前に放送したNHKスペシャルのシリーズ「ドキュメント太平洋戦争」もその1つだ。
日本軍の作戦指導や用兵思想、日本政府の外交戦略などを検証し、「組織」としての日本の課題をあぶり出したシリーズで、私もアメリカの公文書を集め、まだ存命だった戦争の当事者たちのインタビューを行った。

今回、NHKでは、真珠湾攻撃から80年というタイミングで、29年前のシリーズ以来となる太平洋戦争の“通史”「新・ドキュメント太平洋戦争」を立ち上げることになった。

私は、再び太平洋戦争をめぐるアメリカでのリサーチに携わることになった。

コロナ禍で、テレビ局の海外取材は大きな制約を受けている。
今回の私のミッションのうち、特に重要なのは、ハワイで「80年後の真珠湾」を撮影すること、そして数少ない生存者を見つけ出すことだった。

日本軍の奇襲をレーダーは捉えていた

まず最優先で取材したのが、80年前の「機密通信施設」の存在だ。
真珠湾攻撃において、アメリカの命運を決めたといってもいい場所でもある。
ハワイ時間 1941年12月7日午前7時49分に始まった日本軍の攻撃。

さかのぼること47分前の午前7時2分、オアフ島北端オパナにあった最新の移動式レーダーが偶然、日本軍機の機影を捉えていた。

すぐに担当者が連絡。
その情報を受け取った場所がオアフ島の中央に位置するホイラー陸軍航空基地だったのではないかと指摘されていたが、詳細は長年不明だった。

ホイラー基地は戦前戦中、太平洋全域の米軍通信網の重要拠点の1つで、80年後の現在もアメリカ陸軍航空基地として使用されている。
取材に訪れた際、滑走路にはアパッチやブラックホーク、チヌークといった米軍が誇る攻撃用ヘリが次々に離陸、ホバリングしていた。

私はアメリカの専門家、歴史家、国立公文書館などを当たったが、なかなか情報がない。
ホイラー基地の広報の全面協力を得て、かなりの時間を割いて調査してくれた結果、「同基地の一角に残る当時の建物が通信施設の一部だったのではないか」と連絡があった。
撮影した古い建物の一角が、80年前レーダーの情報を受けた将校がいた部屋ではないかと見られる。
現在は非軍事施設の倉庫のようなものになっており、ほとんど使われていない。
だが、外壁を良く見ると日本軍機によるとみられる弾痕も残っていた。
基地広報は通信施設について「おそらくアメリカメディアも撮影したことがないのではないか」と説明した。
基地広報は歴史家と協力して、アメリカ軍のアーカイブで、1930年代の通信施設の写真や航空写真も見つけ出してくれた。これも貴重な資料だ。

80年前、この通信施設に届いたと見られる貴重な情報。歴史に“if”があれば、日本軍の奇襲に何らか対応できた可能性もある。

しかしその機会は見逃されることになる。

レーダーの情報を得た将校はそれをアメリカ軍機B-17だと勘違いしたのだ。

アメリカにとって、奇襲に気付く決定的チャンス。日本軍に取っては「運」が味方した瞬間だった。

80年後も出続ける“アリゾナの涙”

真珠湾の青い海に似つかわしくない場所がある。
真珠湾に浮かぶフォード島の東側。上空から見ると、水面の下に黒い船影がはっきりと見える。

80年前、日本の真珠湾攻撃で真っ二つに折れて沈んだ戦艦アリゾナだ。
このフォード島の周辺には、アメリカ太平洋艦隊が誇る戦艦群が係留中だった。
日本軍の第一次攻撃隊の総指揮官・淵田美津雄中佐率いる水平爆撃隊の攻撃でアリゾナは被弾。
巨大な爆煙を噴き上げ、アリゾナは1000人を超すアメリカ兵を閉じ込めたまま、沈没した。

現在は、そのアリゾナをまたぐようにメモリアルが設置されており、アメリカ政府が用意する大型ボートで渡ることができる。
海面には、アリゾナの砲塔の一部がさび付いた状態で顔を出している。

1時間ほど根気よく海面を凝視していると、小さな黒い染みのようなものが浮かび上がり、それが海面で傘を広げたように広がっていく。

今もアリゾナの燃料庫から少しずつ漏れ出ている油だ。
アメリカでは、“黒い涙”、“アリゾナの涙”などと呼ばれている。
管理する国立公園局によれば、燃料庫にはいまなお50万ガロンが残っていると見られ、毎日10リットル弱が漏れ出ているという。

「これからまだ500年、出続ける」と公園局は説明した。

環境への配慮から艦を撤去する話もあったが、中にはいまだに1000近くの遺体があると見られ、遺体の原型を保ったままの回収がほぼ不可能なので、結局アリゾナは80年間そのままの状態で保管されてきた。

ここは真珠湾の巨大な“墓地”でもあるのだ。

日本のメディアに口を開いた真珠湾の生存者

沈没したアリゾナの生存者が生きていることが分かった。しかし日本のメディアの取材には、高いハードルが想像される。

80年経過したとはいえ、布告無しで攻撃され、仲間が多数死傷している。重油まみれの仲間が、苦しみながら焼け死んだ様子も目の当たりにしている。
日本の取材、しかもテレビインタビューの可能性はかなり低いと思った。

その後、いろいろ手を尽くし時間をかけてようやく娘と直接交渉できるまでに至った。
元アメリカ海軍の兵士、ルー・コンター氏、100歳。真珠湾攻撃当時、アリゾナ号の操舵手だった。
100歳を迎えたいま、杖をついてはいるが、かくしゃくとしている。記憶も鮮明だ。

コンター氏は奇跡的に生き延びた真珠湾以降、海軍諜報の任につき、少佐まで登り詰めた。
つまり、発言や情報管理についてはプロフェッショナル。逆に、コメントは計算され、教科書的になることが予測される。
また、これまでの取材でもあったことだが、歴史を後日、“勉強”して評論家のようになってしまう人もいる。

コンター氏には、あくまでも、12月7日当日、アリゾナに乗っていて目撃したこと、感じたこと、触ったこと、匂ったことを中心に聞きたかった。ありがたくも2回インタビューの機会を得て、コンター氏の生の言葉を聞くことができた。

「日本のメディアのインタビューに応じるのは人生初めてだ」と娘は言う。
年齢的には最後の機会かもしれない。
80年前のあの日、いつもの朝が明けた。
アリゾナの艦上で毎朝恒例の国旗掲揚が行われようとしていた。
楽団もスタンバイしていた。

そのときだった。

若きコンター氏が、空に、日の丸が付いた戦闘機の姿を認めたのは。
「戦争が始まった!みんなすぐに開戦だと分かりました。総員配置、全員が自身の戦闘位置に急ぎました。5分くらいで防水扉などが閉められ、すぐに高射砲で対抗しましたが、そこにいた全員が戦死しました」
「日本軍機は1万フィートの高さから空爆。1本の魚雷と3、4個の爆弾がアリゾナの第2砲塔の右舷前方に命中しました。5つのデッキを貫通、下層階に到達。そこには14インチ砲用の100万ポンドの火薬が貯蔵されており、それが爆発を引き起こしたのです…」
コンター氏の記憶には、多くの仲間たちのあまりにも凄惨(せいさん)な最期が生々しく刻まれていた。
「仲間は燃えていました、足も体も…。船に乗っていたほとんどの人は、爆発や銃撃ではなく、火傷が原因で亡くなりました。戦死者は1000人を超えています。多くの兵士が熱さに正気を失い、次々に海に飛び込んだので、指揮官が『病院に連れて行くまで動かないよう甲板上で意識を失わせろ!』と叫びました。船の周囲は…油で燃えていましたが、ついに爆発しました」
「私たちは救命ボートと小型船に乗せ16人を病院に連れて行き、戻ってきました。消防船が近づけなかったので、自分たちで、必死に火を消そうとしているうちに、船首が30フィートほど海面から突き出てぐんぐん上昇し、その後真っ逆さまに下に沈んでいきました。海面に残るメインマストから先はすべて燃えていて、その後も2日間燃え続けました。私も2日間眠れませんでした」
「これらは実際に起きたことです。真珠湾攻撃は、4年間の戦争のうち、たった3時間半の出来事ですが、忘れられるわけがありません」

太平洋戦争の“地獄” そのすべてはここから始まった

真珠湾における日本軍の攻撃は、オアフ島の北から南下し、西側を回って真珠湾を目指した第一次攻撃隊183機に対し、第二次攻撃隊167機はオアフ島の東側から真珠湾へとアプローチした。

第一次攻撃時に比べ、アメリカ軍も防御態勢を整える時間があったため、地上からアメリカ軍が反撃の激しい砲火を浴びせる中、日本軍機が攻撃を加える激しい戦闘となった。

第二次攻撃のターゲットの1つとなったのが、現在海兵隊の基地となっているカネオヘだ。
ここにも80年前の「痕跡」が残されていた。

私はアフガニスタン戦争やイラク戦争でもアメリカ軍の取材を重ねてきた。陸・海・空・海兵隊のアメリカ4軍のなかでは、海兵隊をもっとも多く取材してきた。
取材先の海兵隊員の1人とは30年以上のつきあいがある。また、軍高官の取材も重ねてきた。
そうした経験を、カネオヘ基地司令部の高官に話すと、好印象だったようで、取材に非常に協力的だった。
今回、撮影したうちの1つ、今も米軍機が使用している滑走路に残る、日本軍機の爆撃の痕。その後、アスファルトで埋められ、周囲と色が変わっている。

基地の担当者によれば、おそらく撮影は初めてではないかということだった。さらに、格納庫の中にも、階段にいくつもの弾痕が残されていた。

日本軍機による可能性が高いという。
このカネオヘ基地には日本軍機の墜落地点に記念碑が建てられている。
蒼龍艦戦分隊長の飯田房太大尉がカネオヘ基地からの対空砲火で被弾し、格納庫目がけて突入、自爆した。その跡だ。

真珠湾攻撃では、アメリカの戦艦4隻が撃沈され、破壊された航空機は300機以上に上った。
日本側の戦死者64人、アメリカ側の戦死者2402人だった。

“殺し殺される”その果てに見たものは

大破して沈んだ戦艦アリゾナの生存者、ルー・コンター氏100歳。

真珠湾攻撃がいかにアメリカ軍全体にぬぐいがたい感情を植え付けたか、声を絞り出すように語った。
「日本の攻撃は決して正当化されるものではありません、決して…。
当時私たちアメリカ人は、日本人のだまし討ちを許そうとは思いませんでした。日本人は、私たちが学んできた“行動規範”や“常識”とは違う世界で生きていると考えていました」
その後、コンター氏は、太平洋の戦場、英領ギニアやラバウルで日本軍と対じしていくことになる。
ギニア周辺では軍用機に搭乗しているとき、2回撃墜されたが、奇跡の生還を果たした。
「日本兵は誰もが死ぬための訓練を受けていました。武士道の掟です。捕虜になるくらいなら、自決して死んだほうがましだ、というわけです。当然、私たちも、捕虜になったら殺されると思いました。殺すか殺されるかの戦場でした。
日本では、誰もがアメリカ人を殺すように訓練されていました。10代の子どもでさえ、兵士に近づいてポケットに手榴弾を入れ、ピンを抜く。もし日本本土が戦場になっていたら、日本人だけでさらに数百万人が死ぬことになったかもしれません。
最終的に原爆で数十万人の日本人が命を落としました。しかしさらに多くの人たちが死ぬよりも良かったのではないかと私は考えます。
戦争が終わり、講和条約が結ばれました。アメリカと日本は良い友人になりました。そして今、日本は世界の中で良き同盟国の一つとなっています」
これまでコンター氏に対するアメリカメディアの取材に同席してきた娘が、「あんなことを言った父は初めてだった」とインタビュー後に語った。

日本相手、ということがコンター氏の中でも特別に響いたのだろうか。

取材後記

今回の取材はNHKスペシャルの新シリーズのためのものだが、29年前のオリジナル「ドキュメント太平洋戦争」は、自分にとって「事実を知らないで判断することの怖さ」など、人生においてものの見方を変えたといっても過言ではない。

人命軽視の航空機の設計思想。その結果、日本軍は早い時期にベテランパイロットを失い苦戦を強いられた。
情報収集の軽視、長期的戦略的な思考欠如、虚飾に満ちた大本営発表…。

戦争から80年がたち、戦争を知らないどころか、誤った知識を身につけている人たちもいると聞く。
日本、そして私が長年住むアメリカと日本の関係のためにも、視聴者や読者がもっと深く「調べよう」「考えよう」「議論しよう」という気持ちになるための材料を提供していきたい。
ジャーナリスト(在米42年)
野口修司
「スパイ・ラストボロフ40年目の証言」、NHKスペシャル「電子立国」「靖国神社」「沖縄戦全記録」など多数の番組に携わる。ビル・ゲイツ、スノーデン、アサンジへの世界的スクープインタビューも。