秀吉 信長を弔う寺の建立で大量の資金調達示す古文書

本能寺の変のあと、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉が、織田信長を弔う寺を建てるために大量の資金を調達していたことを示す古文書が、東京大学史料編纂所の調査で新たに確認されました。研究者は「秀吉が大量の資金を集め、信長亡きあとの権力争いを有利に進めようとしていたことがうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。

古文書は松山市が40年余り前に購入して保管していたもので、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授の調査で秀吉の資金調達やその使いみちについて書かれたものだと確認されました。

文書は本能寺の変の3か月後に記されたとみられ、秀吉が、提供を受けた銀1000枚について、信長を弔う菩提寺の建立に使うことを伝えています。

村井准教授によりますと、相手は有力な商人と推測され、銀1000枚は現在の金額にして数億円にあたるということです。これまで秀吉が信長の菩提寺の建立の資金などをどのように捻出したのかはよく分かっておらず、今回の発見は、その一端を具体的に示すものだとしています。

村井准教授は「信長の弔いを成功させれば後継者は自分だという大義名分ができ、実際に秀吉はその後の政治的な動きを有利に進めることができた。非常に興味深い史料だ」と話しています。

秀吉 資金面にも気を配り 権力争いを優位に

本能寺の変のあと、誰が権力を握るのかは信長の家臣たちにとって重要な課題でした。

信長が討たれた直後、今の愛知県にある清洲城には織田家の有力な武将だった羽柴秀吉や柴田勝家らが集まり、家督相続などについて話し合っています。この会議では、秀吉と勝家がそれぞれ別の人物を推して対立し、その後も権力争いが続きました。

そして秀吉は、翌年の天正11年=西暦1583年の「賤ヶ岳の戦い」で勝家を破り、秀吉の権力が確立していきます。

今回の古文書は「賤ヶ岳の戦い」の前の年のもので、その内容からは秀吉が資金面にも気を配り、権力争いを優位に進めようと考えていたことがうかがえます。

東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授は「文書が記された当時、信長の後継者の候補はまだ多くいたわけで、その中でぬきんでるためには何よりも信長の菩提を弔うことが大切だった。こうした中で、秀吉個人のためではなく、信長様のためにやることなので、資金を出せという理屈で調達を進めていったのだろう。信長の葬儀などをめぐり、これまで、秀吉がお金を配ったと記された史料は知られていたが逆にお金を集めたという記録はなく、非常に興味深い」と話しています。