きょうのために生きてきた

きょうのために生きてきた
サックスの音は鳴りませんでした。
それでも会場からは惜しみない拍手が送られました。
久しぶりだったコンサート。
「きょうのために生きてきたようなもの」
男性は、あした体が動かなくなるかもしれないという不安を抱えていました。
(広島放送局 記者 福島由季)

難病かもしれない

広島市の吉田正男さん(45)。
11月、広島市で開かれたコンサートでサックスを演奏しました。

吉田さんは「脊髄小脳変性症」を患っています。
運動をつかさどる小脳の神経が徐々に萎縮して、体が思うように動かせなくなる難病です。全国におよそ4万人の患者がいるといわれていて、治療法や薬などはありません。

体に違和感を覚えたのは、20歳を過ぎたころ。
サックスの演奏中に、舌で音を区切る技術「タンギング」がうまくできなくなりました。

「もしかして、脊髄小脳変性症かもしれない」

父と兄が同じ難病の吉田さん。
治療法がないことも知っていたため、本当のことを知るのが怖いという気持ちもあったといいます。

進行する病

15年ほど前、脊髄小脳変性症と診断。
「周りに心配をかけたくない」と、それまでと変わらず明るくふるまいました。

しかし、病気は進行していきます。
目が見えづらくなり、車の運転中には中央線が二重に見えるようになりました。

転倒して前歯やほお骨を骨折。
勤めていた職場では、ろれつがまわらず話しづらくなったため、かかってきた電話に出ることも難しくなりました。

「迷惑をかけたくない」と去年3月に退職しました。
好きな紅茶を入れることや、自炊も難しくなりました。

毎朝、訪問看護師に栄養の注入や薬を塗ってもらい、洗濯や買い物などはヘルパーの助けを得ながら自宅で生活を送るようになりました。

音楽は生きる糧

これまでできていたことが、日を追うごとにできなくなっていくなかで、よりどころになってきたのは、音楽でした。
高校生の時に吹奏楽部でサックスを始めた吉田さん。
皆で1つの音楽を作り上げる吹奏楽に夢中になり、社会人になってからもサックスを続けました。

コンクールで入賞するほどの腕前で、自宅ではその時のDVDをたびたび見て当時を振り返っています。
吉田正男さん
「昔はこれだけ吹けていたのに。これから楽器を吹くのは難しくなると思ったし、断念する時期が来るんじゃないかとちょっと怖いところがありました」

再び舞台に立てるチャンス

しかし、病気の進行とともにコンサートの舞台から遠ざかります。

そんなある日、訪問看護師から「難病の人の夢をかなえるためのプロジェクトがある」と聞きました。

このプロジェクトは、広島国際大学で社会福祉士などを目指す学生たちが立ち上げたもの。話を聞いた吉田さんは「サックスのコンサートを開きたい」と即答しました。
吉田正男さん
「脊髄小脳変性症のことを知ってほしい。そして、同じ病気の人に、頑張れば願いがかなうということが伝わるようなコンサートにしたい」
思いを聞いた学生たちは、早速プロジェクトを始動させます。
ステージを成功させるために、会場の確保やチケットの準備などを始めました。
コンサートに向けて舞台で着用するスーツも一緒に選びに行きました。

コンサートに向けて

病気になってからも、週に1度、サックスの練習に通っていた吉田さん。毎日1時間以上、長い日には3時間ほど練習を繰り返しました。
肺活量が落ち、比較的音が出しやすい「ネック」と呼ばれる楽器の上の部分だけを鳴らすことも難しく、日によってはほとんど音が出ないこともありました。

それでも、大好きな音楽に触れ、病気のことを忘れられる時間になっていました。

コンサート当日

「なんか夢みたいです」

コンサート当日。
会場を見渡した吉田さんは笑顔を浮かべました。
久しぶりの舞台です。

学生たちはステージを成功させるため、受付や客席の感染症対策、それに音響の調整など入念に準備を行いました。
平日にもかかわらず、会場には120人ほどの客が訪れました。
吉田正男さん
「みんな仕事を休んで来てくれているんだなというのが分かって、涙が出そう。楽しいステージにしたい」
いよいよ、開演。
憧れのサックス奏者、波山美晴さんもかけつけてくれました。

演奏会では、波山さんの演奏を聴いてほれ込んだ「シーガル」というバラード曲を演奏しました。
吉田さんは、楽器に息が入らずほとんど音を出すことができませんでした。

でも、必死に指を動かし、すべての力を出し切った姿に会場からは惜しみない拍手が送られました。

届けたい人がいる

吉田さんには、演奏を届けたい人がいました。

同じ難病で入院している兄の勝弘さんです。
10歳上の兄は、小さいころ、よくお小遣いをくれた、優しく頼りがいのある存在です。
オンラインで配信し、勝弘さんに見てもらいました。
そして、勝弘さんにあてて書いた手紙を学生に代読してもらいました。
「お兄ちゃんの弟でよかった。今はこのご時世でなかなか見舞いに行けないけれど、落ち着いたら昔のことをいろいろ話そうね。それじゃあね」(手紙)
勝弘さんはふだんはベッドで目をつむって過ごすことが多いのですが、ほとんどまばたきをせず、食い入るように画面を見つめていたということです。

きょうのために生きてきた

演奏会の最後、花束を受け取った吉田さんがあいさつをしました。
吉田正男さん
「きょうのために生きてきたようなものなので、この一瞬一秒を忘れずに今後とも歩んでいきたいと思います」
このときの気持ちをあとで聞いたら、「この先、病気が進行しても自分らしく生きることを諦めないという決意をあいさつに込めた」と教えてくれました。

できないことが増えていく日々はどんなに不安だろう、自分だったらどうしただろうかと話を聞きながら何度も思いました。

「障害があっても夢がかなうと伝えたい」

吉田さんが何度も口にしたことばです。
広島放送局 記者
福島由季
令和3年入局 生活に身近な経済の話題や原爆取材を担当