ビジネス特集

日本の“支払い”変えた技術者 次なる挑戦

PASMO、Suica、nanacoなど。国内の電子マネーに欠かせないのが、「フェリカ」と呼ばれる技術です。日本の“支払い”を一変させたとも言えるこの技術。開発責任者を務めていたのは、ソニーの元技術者、日下部進さんです。技術者として、いまも現場の最前線に立ち続ける日下部さん。フェリカはどのようにして生まれたのか。そして今、新たに何を生み出そうとしているのか、聞きました。(経済部記者 岡谷宏基)

あるエンジニアとの出会い

「天才的なエンジニアがいる。会ってみないか」

取材先にそう紹介され私が訪ねたのは、元ソニーの技術者、日下部進さんです。早速訪れた都内の自宅で、日下部さんが見せてくれたのは、中の構造が見える透明の「Suica」です。
日下部進さん
「ここが1つのコンピューターシステムになっています」

日下部さんが指さしたのは、Suicaの中にはめ込まれた指先ほどの小さな丸い装置。電子マネーによる日々の決済を可能にする、まさに“心臓部”です。
日下部さんが中心となって開発した通信技術「フェリカ」。「Suica」「PASMO」「Apple Pay」など、いまやさまざまな電子マネーで使われています。

始まりは倉庫の無線ICタグ

フェリカのベースになる技術の開発が始まったのは1988年。ソニーで情報処理の研究をしていた、わずか数人のチームで始まりました。

しかし当初開発しようとしていたのは、電子マネーではなく、物流倉庫で商品の仕分けに使う「無線ICタグ」。できあがったICタグは、コスト面から採用されませんでしたが、これがフェリカの原型になります。

その後、日下部さんたちはこの技術をカードに搭載することに成功。1990年には社員証に搭載し、ビルの入退館の管理システムとして利用できるようになりました。
開発初期のフェリカカード
この技術に大きな可能性を感じていた日下部さん。

ただ当初は、電池が搭載されていて、電子マネーの機能も無く、思うように普及が進みませんでした。

転機は香港での挑戦

転機となったのは、香港で始まったある取り組みです。

当時香港では、世界に先駆けて、非接触型のICカードを電車の乗り降りや売店での決済などに導入しようとしていました。このプロジェクトに、技術を売り込むことにしたのです。

最初に仕様書を見た時の驚きを、日下部さんはこう語ります。
日下部さん
「要求は当時のソニーが持っていない技術ばかりで、相当難しいと感じた」
香港のオクトパスカード
日下部さんたちが乗り越えなければならなかった壁。

その1つが、カードを電車の乗り降りだけでなく、売店での買い物など、複数の使い方に対応できるようにすることでした。
それまでのカードは、「乗車券」「ビルの入館証」など1つの用途しか想定していませんでした。複数の使い方に対応させるには、より高い処理能力を持つチップの開発が不可欠です。

その難しさを、日下部さんはこう表現していました。
日下部さん
「数ミリの小さなコンピューターを作るようなもの」
もう1つの壁。

それは、いつでもどこでも持ち歩けるよう、電池を内蔵しない、クレジットカードのようなコンパクトな形にすることです。しかし、チップを動かすには、電気が必要です。

電池なしにどうやって動かすのか。そこで思いついたのが、磁波の利用です。
改札機などから微弱な磁波を出し、それをカードに埋め込んだアンテナがキャッチ。コイルに電流が流れる仕組みを完成させたのです。

日下部さんたちは競争を勝ち抜き、ついに香港でフェリカの採用が決まりました。技術開発のスタートから、実に8年がたっていました。

Suicaに採用、国内に普及

香港での成功をきっかけに、国内でも大きな転機が訪れます。

それがJR東日本の「Suica」の導入です。2001年、香港のカードに改良を加える形で、「Suica」の利用が始まりました。
日下部さん
「当時、多くの人が、スムーズに使っている様子を見て、うれしく感じたことを覚えています」
その後、ソニーはNTTドコモとも組み、携帯電話で決済できる「おサイフケータイ」を投入。国内の電子マネーで次々と利用が広がりました。

海外でもインドネシアの首都ジャカルタの鉄道などに採用され、フェリカのICチップの累計出荷数はこれまでに15億個を超えるまでになりました。

運用開始以来、今も一度も破られたことのない強固なセキュリティーは、国内外で高い評価を得ています。

成功の一方で心残りも

こうした成功の一方で、日下部さんは心残りも抱えていると話してくれました。

その1つが、非接触型ICカードとして、国際規格を取れなかったことです。

当時の技術は、市場で広く使われるようになる中で標準仕様になっていくというパターンが多く、ソニーも日下部さん自身も、世界に先んじて規格をとるという意識が低かったと話します。

結局、無線の技術(NFC)で国際規格を取得できましたが、フェリカの海外展開は、結果的に大きく出遅れることになりました。

もう1つが、フェリカのビジネスモデルについてです。

日下部さんは香港でビジネスが成功したとき、フェリカの将来にある懸念を抱いていました。
日下部さん
「カードというハードを売る物販ビジネスには限界がある。特に電池をなくしたことで、長く使える可能性があるので、発行枚数が伸びなくなり、いつか行き詰まるのではないかと感じていた」
この時、日下部さんは、生き残るためにはシステムを運用する側である「オペレーター」になるしかないと考えていたと言います。オペレーターになれば、他社と組んでフェリカを活用したさまざまなサービスを展開できる可能性も広がります。

しかし社内からは「ソニー単体でやるべきだ」「カードが売れなくなる」などの反対の声が相次ぎます。

そして2005年。

「ソニーの中で思うように仕事ができなくなった」

そう感じた日下部さんは退社を決めました。

ネパールでの新たな挑戦

日下部さんはその後、仲間とともに、国際送金などのシステムの研究開発を行うベンチャー企業を設立。会社の技術の責任者として、現在も技術開発の最前線に立っています。

そんな日下部さん、いまお金の形を変える新たな挑戦を始めています。
ネパールの首都カトマンズ(2021年4月)
その舞台は「ネパール」。通貨ネパールルピーのデジタル化に取り組んでいるのです。

9月、ネパールの経済団体の幹部との打ち合わせに同席させてもらいました。
なぜネパールで、通貨のデジタル化が進められようとしているのか。

ネパール商工会議所連盟・名誉通商特使のデブ・マン・ヒラチャンさんによると、ネパールの人口の3割ほどが銀行口座を持っていないとのこと。

一方で、スマートフォンの普及率は高いため、買い物や預金、国際送金など幅広い分野で、スマホを使ったオンライン決済に対する潜在的な需要が高いとみられるということです。
ネパール商工会議所連盟 デブ・マン・ヒラチャン名誉通商特使
デブ・マン・ヒラチャンさん
「(通貨のデジタル化を)早くやってほしいという政府からの要望が強い」
日下部さんたちは、システムの採用を政府などに働きかけていて、スマホを使った決済がネパールで当たり前のように行われる、いつかそんな日々が来ることを目指しています。

現在開発している新たな技術では、フェリカの運用開始から破られたことのないセキュリティーの構築で培った高度な暗号化技術を駆使。

金融決済に欠かせない処理スピード、さらに低コストも実現しているということで、日下部さんは、今後の国際展開に期待を高めています。
日下部さん
「われわれが手がけるサービスは、金融サービスがぜい弱な国ほど進みやすい。そうした点でアジアにはチャンスがある」

これからの技術開発

フェリカのような技術は、今後も日本から出てくるのでしょうか。最後に日下部さんに質問をぶつけてみました。

すると日下部さんからは、厳しいことばが返ってきました。
日下部進さん
日下部さん
「フェリカを開発した当時は研究開発の自由度があった。部品の1つ1つまで管理される今のような状況ではイノベーションは起きづらい」
そのうえで、日下部さんは課題をこう指摘します。
「ある程度利益が出ると、それでもういいと思う人たちが多すぎる。本当はそれを乗り越えた先にバラ色の世界があるのに。技術開発には5年10年かかるが、投資家はそれまで待ってくれない。それを何とかしないといけない」
「研究室にこもっていればいいわけではない。何が足りずに世の中が困っているか、自分の目で見ながら研究してほしい」

取材の中で、日下部さんは若いエンジニアたちにこうエールを送りました。

電子マネーが存在しない時代に、その開発に1から取り組んだ日下部さん。

時代の先をにらんで、必要とされるものを生み出そうとする姿勢は、技術者だけでなく、多くのビジネスマンにとっても大切だと感じました。
経済部記者
岡谷 宏基
平成25年入局
熊本放送局を経て現所属
情報通信業界を担当

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