瀬戸内寂聴さん死去 交流のあった人たちからは追悼などの声

作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなったことを受けて、これまで交流のあった人たちからの追悼などの声をまとめました。

実家の仏具店経営の親類「来ないと願っていた日が来てしまった」

出身地の徳島市にある寂聴さんの実家の仏具店を経営している親類の宮本祥子さんは「いつまでも来ないと願っていたこの日が来てしまった。およそ40年にわたってかわいがってもらった。私たち家族を愛してくれてありがとう」とコメントしています。

徳島県立文学書道館の館長「『徳島の顔』失った」

寂聴さんが2004年から10年間にわたって館長を務め、その後も名誉館長を務めていた徳島県立文学書道館の富永正志館長は「寂聴さんが寂聴塾の塾生に『自分の目で見たもの、肌で感じたことを信じて、世間体にとらわれずに自由に生きなさい』と言っていたことや、反戦や平和を情熱的に語っていたことが印象に残っている。徳島と言えば寂聴さんというくらいの有名人で、徳島の顔が失われたような気持ちだ。長い間お疲れさまでした。ゆっくりお休みください」と話していました。

文学書道館では、12日から寂聴さんを悼む記帳所を設け、寂聴さんの生涯や作品を紹介する展示室を無料開放することにしています。

ノンフィクション作家 澤地久枝さん「ひとりの存在として見事」

雑誌の元編集者として60年以上前からつきあいがあったというノンフィクション作家の澤地久枝さんは「100歳をすぎても生きてほしいと願っていました。寂聴さんは作家としての仕事や、恋に熱心に打ち込んだほか、子どもや孫などの家族と親しくにぎやかに過ごされていました。『人生の答え』とも言えるものを手にされたように思います」と話していました。

そのうえで「晩年は憲法改正の議論について国会議事堂の前に立ち演説を行うなど、仏門に入ったあとも臆することなく、一貫して政治的発言を繰り返していました。ひとりの存在として見事だったと思います」と述べていました。

作家 桐野夏生さん「思いを引き継ぐ」

雑誌で対談を行うなど交流があった、作家で日本ペンクラブの会長の桐野夏生さんは「謹んで哀悼の意を表します。瀬戸内寂聴さんには日本ペンクラブの会員として、平和のため、そして表現の自由を守るため、様々な場でご発言をいただきました。あらためて寂聴さんの思いを引き継ぎ、活動を続ける決意です」と、日本ペンクラブとしてのコメントを発表しました。

SNSには多くの追悼のことば

SNSには、多くの追悼のことばや、これまでの活動に対する感謝のコメントが投稿されています。

ツイッターに寄せられた投稿は「寂聴さんの話は最高に楽しい。もう元気なお声は聴けないのか……」とか「自分の人生を自分の思うように生ききった様は称賛に値するし尊敬する」「源氏(物語)を読むきっかけになった人」「毎朝ラジオで寂聴さんのお言葉いただいていたのに残念」などの寂聴さんの死を悼むコメントのほかに「瀬戸内寂聴さんの著書を読み言葉に支えられてきました。これからも私の中に残ります」「私高校のときもうやだ死にたいってなったとき瀬戸内寂聴さんの新聞のコラムに助けられたんだよね。ありがとうございました」「毎朝の元気になるお言葉が聞けなくなり、とても寂しいですが、お言葉を胸に頑張ります!今までありがとうございました」「1度法話を聞きにいかせてもらいました。凄くあたたかくてためになって心が安らいだのを 今でも覚えています」といった、寂聴さんのことばや活動への多くの感謝のコメントが寄せられています。

黒柳徹子さん「もうお会い出来ないと思うと悲しい」

自身が司会を務めるインタビュー番組への出演などで交流があった黒柳徹子さんは「みんなの味方が、亡くなった。こんなことまで書いちゃうんだ!という小説家が、尼さんになった。尼さんになっても『書いちゃおうかな』と言って書いていらした。100歳近くまで尼さんで、説法しながら恋愛小説を書く。日本は面白い国だと思う。でも、もうお会い出来ないと思うと悲しい」とコメントしています。

芥川賞作家 玄侑宗久さん「不死身でなかったのかという思い」

瀬戸内寂聴さんと20年近く交流がある、福島県三春町の寺の住職で、芥川賞作家の玄侑宗久さんは「とにかく元気で『明るく元気なお坊さん』としての姿が多くの人を励ましたのではないか。いろいろなことを考え、意欲を持って晩年まで創作し続けたのはすごいことだ。その寂聴さんでも不死身ではなかったのかという思いだ」と話していました。

そのうえで「瀬戸内晴美さんの時代から、出家して瀬戸内寂聴さんとなったことで『過去が変わる』体験をされたと思う。『過去の事実』は変わらないが『過去の思い出のベール』は変わっていく。出家されたことで、人生はいつからでもやり直せるということを身をもって示したのではないか。多くの人の前で『死んだらどうなるのか、私が行って確かめて知らせる』と話していたので『そちらの様子はどうですか?』と聞いてみたい」と話していました。

法話を行った福島県飯舘村の人は

瀬戸内寂聴さんは、東日本大震災から6か月後の2011年9月、東京電力福島第一原子力発電所の事故で全村避難となった福島県飯舘村の人たちを前に、避難先の福島市で法話を行いました。

このとき法話を聞いた飯舘村の菅野允子さん(76)は「避難したばかりで、みな不安ばかりでしたが『人生いろんなことがあるけれど悪いことは続かない。いいことが来るのを待ちましょう』と穏やかに語りかけていただき、私も含め皆さん涙を流して聞きました」と話していました。
菅野さんは法話のあと寂聴さんからブレスレットを贈られたということで、「とてもうれしく、きっといいことがあるなと思ってきました」と話していました。

そのうえで「避難をしていたころも今も、寂聴さんの存在が、心の支えになっていて、いらっしゃるだけで力をもらえていました。100歳まで生きてくださると思っていたので非常に残念です」と話していました。

また、法話を聞いた、菅野義人さん(69)は「寂聴さんが一人一人の話に耳を傾けたり、村の人の肩をもんだりしていた姿が印象に残っています。あすどうなるか分からない、先行きの見えない不安を抱えていた震災直後に体調が悪い中、福島に来てくださり、勇気や力をもらいました」と話していました。

菅野さんは避難指示が解除された4年前に村に戻っていて「震災と原発事故から10年がたち、一部を除いて避難指示が解除された村を見に来ていただきたかったです。自分の農地の隣には除染土が積まれていて復興は道半ばですが、寂聴さんからもらった力で今後も村で頑張っていきたいです」と話していました。

京都市 門川市長「とても寂しい」

瀬戸内寂聴さんは、平成19年に京都市の名誉市民に選ばれました。

毎年、寂聴さんの誕生日に合わせて訪ねていたという京都市の門川市長は「ことしはお会いできず、代わりに花を贈ると、『寂聴』と書いたお酒をくださいました。お酒が大好きで、人との出会いや京都の魅力を話していただき特に源氏物語の話になると止まらなくなるなど、とても魅力的な方でした。いつまでも生きていらっしゃるような雰囲気があり、厳しい病も克服されていたのでとても寂しいです」と別れを惜しんでいました。

美輪明宏さん「生きたいように生きた人生 満足しているのでは」

長年の親交があった、歌手で俳優の美輪明宏さんは、NHKの取材に対し「瀬戸内さんは大正時代から理不尽な戦争、そして戦後の変容など同じ時代を一緒にくぐり抜けた仲間で、そういった存在がまた1人いなくなってしまったことに複雑な思いです」と心境を述べました。

そのうえで「本当に無邪気で烈女の生き残りのような方でした。私にとっては身の上のことも含めて何でも包み隠さずに話ができる存在でした。人の手助けをするのが大好きで、だからこそ多くの方々が相談に訪れたのだと思います。縦横無尽に、生きたいように生きた人生で、十分満足しているのではないかと思います」と話していました。

松野官房長官「日本文化に多大な貢献」

松野官房長官は、臨時閣議のあとの記者会見で「瀬戸内さんは、女性の生き方を真正面から問う小説家として、文筆活動で大きな功績をあげられるとともに、流れるような文体で源氏物語の現代語訳を完成させるなど日本文化に多大な貢献をなされた」と述べました。

そして「51歳で出家されたあとには僧侶として、講話などを通じ、悩む方々の思いに広く耳を傾けられるとともに、社会的な活動にも力を注がれた。心から哀悼の意を表したい」と述べました。

比叡山延暦寺「作家やテレビ出演で仏の教え 広めていただいた」

瀬戸内寂聴さんは、僧侶として天台宗の総本山、比叡山延暦寺で修業し、平成18年に比叡山にある寺院の住職に女性として初めて就任しました。

交流があった比叡山延暦寺の小鴨覚俊副執行総務部長は「会うと『いつもありがとうね』と優しく声をかけてくれたのがよい思い出です。作家やテレビ出演といった得意なやり方で仏の教えを広めていただけました。女性を中心にファンも多かったので皆さん悲しまれていると思いますが、瀬戸内さんはよく『私はいつ死んでもいいのよ』と話していました。誰かに頼るのではなく、自分自身の中にある仏の教えを大切にしなさいと、私たちに新たな道を諭しているのではないかと思います」と話していました。

小説家 井上荒野さん「覚悟と自由さ 持っていたことが魅力」

瀬戸内寂聴さんが亡くなったことについて、親交があった小説家の井上荒野さんは、「大往生だが、寂聴さんは亡くならないのではないかとみんな思っていたと思う。頻繁に会っていたというわけではないのに、不思議とすごく寂しい」と語りました。

井上さんは、自身の父親で小説家だった井上光晴さんが、寂聴さんと不倫関係にあったにもかかわらず家族ぐるみでの交流が長年続き、両親と寂聴さんの3人の関係をモデルにした小説も執筆しています。

井上さんは「私たちのことを不思議に思われるかもしれませんが、私の母は、父と寂聴さんの関係を知ったうえで、彼女を悪く言ったことはありませんでした。寂聴さんは、お目にかかったときも、父の話を楽しそうにしてくれて、そんなに好きだったんだなと感動しました。私がこの恋愛を書き留めておかないと消えてしまうと思い、3人について小説を書きました」と語りました。

寂聴さんの魅力については「無邪気な人で、私たちが知らないうちに守っている世間のルールや、普通はこうするという認識から自由でした。なかなかできることではなく、責任を伴うことだと思います。批判もされましたが、それを受け止める覚悟と自由さを両方持っていたことがいちばんの魅力だと思います」と話していました。

また、同じ小説家としては「ことばへの意識が高く、感情を表すことばから色を表すことばまで、すべて“これしかありえない”ということばを使っています。男女の色っぽいことも書いていますが、その瞬間を表すことばが選ばれているので、汚らしい感じはしません。自身の覚悟や世間に対するスタンスが作品にあらわれていて、小説家として憧れます」と話していました。

真言宗僧侶 添田隆昭さん「非常に立派な人生を送られた」

真言宗の僧侶で和歌山県高野町にある高野山大学学長の添田隆昭さんは、同居する101歳の母親が瀬戸内寂聴さんの大学の先輩だった縁で、親交を深めてきました。

添田さんは「寂聴さんは生家が仏具店ということもあり、真言宗には親近感があったようで、高野山の私の寺に泊まりに来られ、母とよく話をしていて私も同席させてもらいました。作家としてだけでなく僧侶としても悩める人たちを自分の寺に招き導くなど、非常に立派な人生を送られた方でしたので、亡くなって残念に思います」と話していました。

ガラス造形作家 野田雄一さん「戦争は絶対だめと訴えていた」

寂聴さんとおよそ40年にわたって交流してきた富山市のガラス造形作家の野田雄一さん(66)は「戦争は絶対にだめだと訴えていた姿が強く印象に残っています。昔から表現力だけでなく行動力にもあふれた人でした」と寂聴さんの死を悼んでいました。

寂聴さんと同じ徳島県出身の野田さんは23歳の時に寂聴さんが開いた私塾に1期生として入り、最初の作品を寂聴さんが買い上げるなど、ガラス造形作家の道に進む後押しをしてもらったということです。

野田さんは、その後も、折に触れて寂聴さんに作品を贈っていて「作品を見せるたびに『いいわね』と言っていただきました。私の背中を押してくれた人で、恥ずかしいものは見せられないという思いで、これまで励みにしてきました」と話していました。

また、野田さんの息子で僧侶の宜応さん(36)は「進む道に迷っているときに寂聴さんに声をかけられて僧侶になりました。寂聴さんは芸術や文化だけでなく僧侶としてもすばらしい方で目指すべき姿を示してもらいました」と話していました。

「源氏物語ミュージアム」では名誉館長も

京都府宇治市にある「源氏物語ミュージアム」は、平成10年の開館から瀬戸内寂聴さんが名誉館長を務めています。

宇治市は、源氏物語の最後の場面を飾る「宇治十帖」の舞台となっていて、ミュージアムでは物語を多角的に伝えるさまざまな展示品が紹介されています。

寂聴さんの作品を読むことができるコーナーが設けられているほか、寂聴さんによる「名誉館長講座」も定期的に開かれ、多くの参加者が集まったということです。

寂聴さんと10年以上の交流があったという「源氏物語ミュージアム」の家塚智子館長は「寂聴先生は一人一人のことをよく見てくれる方で、ニュースを聞いて、非常に驚いたという気持ちしか出てこない。先生は『宇治は、源氏物語に描かれている光景が今も残っている』と言っていて、私たちはそんな宇治の風景を今後も大事にしていきたい」と話していました。

文学塾の門下生「先生から“自分の好きなことをしなさい”と」

瀬戸内さんが出身地の徳島市で開いた文学塾「寂聴塾」の門下生の1人で、徳島県美波町の小林陽子さんは「寂聴先生を含め、塾で出会えた仲間が自分の中での何よりの宝です。先生からは“自分の好きなことをしなさい”と自分の人生の基軸になることばをいただきました。偉大で、人間的にあんなにかわいらしい人はいないと思います。“一緒にいられてすごく楽しかったです。ありがとうございました”と伝えたいです」と話していました。

「寂聴塾」の門下生で、40年近く親交のあった徳島県立文学書道館の竹内紀子学芸員は、寂聴さんが亡くなったという連絡を受けて、寂聴さんのもとに駆けつけました。

竹内さんは「ことし7月にお会いしたときはお元気だったので、亡くなった連絡を受けたときは本当にびっくりしました。すぐ駆けつけて顔を拝見し『40年間お世話になりました』とお礼を言いました。本当に安らかな顔で、こちらもほっとしました。寂聴塾の塾生に『みんな才能を持っているから大輪の花を咲かせなさい』といつも言っていたのが印象に残っています。日本を代表する偉大な文学者であり、僧侶だと思っています。本当にありがとうございました」と話していました。

天台寺 菅野宏紹住職「東北最古の名刹 復興してくれた」

瀬戸内寂聴さんが名誉住職を務める岩手県二戸市にある天台寺の菅野宏紹住職は「心からお悔やみ申し上げます。師は、昭和62年より18年にわたり、当山第73世住職として寺門復興に多大なご尽力を頂きました。在任中は、解りやすい仏教解説や地域振興活動にも注力されました。師の発案による『あじさい植栽』も現在では3000株以上が境内を彩っています。本堂・仁王門保存修理事業にも療養中にありながらもその進ちょくを気にかけておられ、その完成を大変喜んでおられたと伺っております。東北最古の名刹天台寺を今日の姿に復興してくださいました。師のご功労に謝意を表し、謹んでご冥福をお祈り致します」というコメントを発表しました。

天台寺の檀家「もう一回お会いしたいと思っていたので残念」

瀬戸内寂聴さんが住職を務めた岩手県二戸市にある「天台寺」の檀家で、寺の役員を務める桂太郎さん(72)は「檀家が集まって寂聴さんと交流会をやった時のことを覚えています。お酒が大好きで、地元でつくられたどぶろくが大好きでした。もう一回お会いしたいと思っていたので残念です。寂聴さんには感謝しかありません」と話していました。

また「天台寺」がある岩手県二戸市浄法寺町の歴史民俗資料館の資料調査員で、つきあいが深かった中村弥生さん(62)は「職場の人から電話があってニュースを見て知りびっくりしました。私が知らないうちに先生は逝ってしまったと思いました」と話していました。

また、中村さんは寂聴さんとの思い出について「『もっと自由に生きなさい』という先生のことばが支えになっていました。自由奔放な方でしたが先生の作品を若い頃に読んで影響を受けました。先生がまいてくれた何かの種が地元の人の中に生きていると思います」と話していました。

中尊寺 奥山元照貫首「被災地東北の人々に多大なるお力添え」

瀬戸内寂聴さんが出家の儀式を行った岩手県平泉町にある中尊寺の奥山元照貫首は「突然の訃報に、ただただ驚いております。中尊寺で得度されてから、当寺ならびに岩手県に賜りましたご恩に感謝いたします。東日本大震災では物心両面にわたり復興にご尽力いただき、被災地東北の人々に多大なるお力添えを賜りました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」というコメントを発表しました。