被爆者 坪井直さんに教えられたこと

被爆者 坪井直さんに教えられたこと
「私はね、痛めつけられて生きてきましたよ。それでも、素晴らしかったと思うんですよ。死ぬる時は素晴らしかったなぁって死にたいなぁ」

10月24日に亡くなった広島の被爆者、坪井直さんが語ってくれたことばだ。坪井さんを27年間取材してきた者として、このことばの意味をいまかみしめている。(政経国際番組部エグゼクティブディレクター 右田千代)

来てほしくなかった知らせ

10月27日水曜日、午後1時38分、携帯電話に残る着信記録。電話が鳴ったのはロケ先でのことだった。

広島放送局にいる後輩の名前が表示されるのを見て、一瞬、応答するのを躊躇した。怖かった。

その思いをすぐに打ち消して電話を取ると「もしもし」という声の向こう側で、いつもと違うざわつく空気を感じた。

その時、覚悟をした。
「あの…いま一報が入ったので、すぐにご連絡しました。坪井さんが亡くなられました」
後輩の声は厳粛だった。この時がついにきてしまった。この知らせが来るのが、怖かった。
広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)の理事長として、被爆者の代表として国内外で原爆の被害を伝え、核兵器廃絶を訴えてきた坪井直さん。

96歳でこの世から旅立った。

知らせを受け半ば呆然としていた時、次々と電話やメールが入った。これまで坪井さんにお世話になり取材をしてきた同僚たちだった。

坪井さんは、長い間、広島の被爆者の中心にいた方だった。広島放送局に赴任する記者やディレクターの多くが坪井さんの薫陶を受けた。

中学校の教員を長らく勤めていたので、被爆者の仲間は「坪井先生」と呼び、私たちも自然と「坪井先生」と呼ぶようになっていた。

坪井先生との27年

坪井先生とお会いしたのは、私が広島放送局に勤務していた1994年のことだった。

当時の広島は被爆50年という節目を控え、被爆者援護法の制定、原爆ドームの世界遺産化を目指して熱気を帯びていた。

その年に広島県被団協の事務局長になったのが、坪井先生だった。

校長まで勤め上げ、60代になって本格的に被爆者運動に参加した。

坪井先生は20歳の時、爆心地から1.2キロで通学中に被爆した。

2人に1人が亡くなったとされる地点だ。

爆風で吹き飛ばされ、熱線で頭部から背中にかけて大やけどを負った。

原爆投下から3時間後、きのこ雲の下で撮影された写真に、坪井先生の後ろ姿が映っている。

その時、路面に「坪井はここに死す」と記し前後不覚となった。
自身の体験を、坪井先生は国内はもとより、アメリカや中国、核実験を行ったフランス、インドなど世界中で語り、核兵器廃絶を訴えた。

被爆者の仲間が次々と亡くなる中で、いつしか運動の先頭に立つようになり、2004年には広島県被団協理事長に就任。

先に逝った人たちの思いを背負い、終生活動を続けた。

死をくぐり抜けた末に…

長い間取材をしてきた中で、初めて教えてくれたことが3つある。

1つは、本名とは別に、ある号を使っていたことだ。

インタビュー中、紙にボールペンでこう書いた。

「坪井徹死」

終戦直後この名で友人に手紙を書き送っていたという。

被爆後、母によって救い出されたが40日間意識不明だった。

目覚めてからは下痢や歯ぐきの出血がつづいた。

やけどを負った体はウジについばまれ、激痛に襲われた。

1年間歩くことすらできなかった。

「死を徹底的に考えた人間」、それが号の由来だった。
「隣近所の人が、原爆で死んでいく。(被爆後)あの1年の人間の死に方はすごいんじゃけね。もう戦争は終わっとるんで。それであってもね、死をね、とにかく先に考える」
当時の写真に映る坪井先生はやせて、陰のある表情をしている。

死の恐怖と、それを受け入れなければならない葛藤を抱えていたのだと思う。

2つ目は、奥様の鈴子さんとの結婚のことだった。

坪井先生が被爆者運動に深く関わるようになったのは、鈴子さんが脳溢血で急逝された後のことだ。

大恋愛の末に結ばれたと伺っていたが、そこに至る苦しい歳月について明かしてもらったのは、2016年のことだった。

20代で鈴子さんと出会い、やがて将来を誓うようになったが、被爆者ではない鈴子さんの周囲は結婚に猛反対したという。

当時、健康を取り戻したかに見えた被爆者が突然亡くなるといった話が多くあった。

被爆者と結婚しても将来どうなるかわからない、と反対されたのだった。

会うことすら許されない日が続き、坪井先生は死を考えるようになる。

それを知った鈴子さんが「私も一緒に」と言い、坪井先生が生まれ育った町を見渡す丘で、ふたりは睡眠薬を飲んだという。

数時間後、坪井先生は目覚めた。

自分だけ生きてはいけないと再び睡眠薬に手を伸ばした時、隣で鈴子さんが動く音がした。
「お前も気がついたかと。そのときに顔を見合わせて、それはちょっと表現しようがないがね。本当に泣いたよ。俺たちはこの世では一緒になれんかった。あの世で一緒になろう思うても、またなれん。よう死なんかったんじゃから。あわれというか、こういうさえん運命であったか、いうんで、二人は泣いたんですよ。それは、本気じゃったけえのう。もうどうしようもない。とにかくどういうことがあっても生き延びようという誓いを、握手したんですよ」
出会って七年半。

坪井先生が中学校の教員を立派に勤めていることで、二人の結婚はついに認められることになった。

「喧嘩なんかしたこともない」という夫妻は、3人のお子さんに恵まれ、鈴子さんの支えで、坪井さんは教員生活を全うした。

伝える覚悟

坪井先生と出会って20数年たち、初めて教えていただいたことの3つ目は、自身の体に刻まれた深い傷についてだった。

2015年にご自宅を訪れた際、話の流れで「足にもやけどのあとが残っとるんよ」と靴下を脱いで見せてくれた。

坪井先生は、常に笑顔とユーモアを忘れない方だったので、時にその背負うものを忘れてしまいそうになる。

そこで「もしよろしければ、被爆の実態が伝わるように、足のやけどのあとを撮影させていただけませんか」と申し訳ない気持ちで切り出すと、「ええよ」と快諾してくださった。
すると坪井先生は立ち上がり、「よう見てよ」とカメラに背中を向け肌着を脱ぎ始めた。

何を見せようとしているのかわからないまま撮影をつづけていると、先生はズボンを少し下げ、背中のいちばん下まで見せてくれた。
私はことばを失った。

先生が示したのは、背中の下の部分の「穴」。

被爆した際にえぐられたあとだった。
「骨と皮しかない。肉がない。造血の機能が破壊されて、血がつくれんのです。70年間頑張ってやってきた。こういう体で動きよるんですよ」
撮影後ご自宅を辞した車中で、私は大変なことをお願いしてしまったと、後悔の念にかられていた。

すると、同乗していた佐々倉カメラマンが「僕も坪井さんの覚悟を受け止めきれませんでした」とぽつりと言った。

それを聞いた私は、傷を見せてくださった意味を先生に聞かなければと初めて気付いた。

急いで電話をかけると、坪井先生はこう答えた。
「今なら見せてもいいんかなと思ったんよ。これまで証言活動をしたり、核兵器廃絶を訴えてきたけれど、被爆の真実は伝わっているのだろうかと思い始めたんよ」
坪井先生の背中に刻まれた「被爆の真実」、その果てしなく深い傷。

私はそれまで「被爆者が知る事実」をできるかぎり理解したいと思い続けてきた。

しかし理解などできるはずがない。

被爆の実態を、亡くなった人の代わりにと伝え続け、いまみずからの身をもってまでして伝えようとする坪井先生の姿に、人間の尊厳を感じた。

核兵器に傷つけられた体を、思い出すのもつらい記憶を伝えてくださることの重さに、ただ頭を垂れるしかなかった。

「謝罪は求めない」

坪井先生が逝去されてから10日後、私は広島のご自宅に伺った。

先生は、もしもの時には家族葬で火葬まですませてから公表するよう家族に言い残していた。

家族が静かにお別れできるようにとの配慮だったのではないかという。

「もう一度父の子として生まれたい」と語るご子息の健太さんは、通夜と葬儀、報道発表などで睡眠も十分にとれていない中、訪問を受け入れてくださった。

健太さんにお話を伺うのは、オバマ大統領が広島を訪れた2016年以来のことだった。

訪問前、現職のアメリカ大統領と初めて会う被爆者として、坪井先生が「謝罪を求めるか否か」が国内外で注目されていた。

しかし、坪井先生は最初からきぜんとして「謝罪は求めない」と断言していた。

平和記念公園でオバマ大統領と対面した時も、笑顔で語りかけた。
「被爆者としては、原爆投下は人類の間違ったことの一つじゃと。それを乗り越えて、われわれは未来に行かにゃいけん」
歴史的と言われた対面から自宅に戻った坪井先生は「ここからがスタート」と冷静に振り返っていた。

実は当時、「謝罪を求めない」という坪井先生の考え方について「被爆者なのに、原爆を落とした国の大統領と握手するなんて」という声も聞こえてきたという。

しかし、と健太さんは語った。
坪井健太さん
「父を間近に見てきた人間として思う。父はさんざん苦しんできた、しかしそれでは結局、世の中はよくならないと思って、父は自分を納得させるのにすごくパワーを使って、長い年月をかけて、やっとその境地に立ったのだと思います」

「見ていないものな」

一緒に運動してきた多くの仲間たちが、亡くなっていった。

いくら声をあげても、核兵器がなくならない現実を見てきた坪井先生だからこそ、到達した境地だったのかもしれない。

今、健太さんが繰り返し思い出すのは、小学校低学年の時、一度だけキャッチボールをしてくれた父との時間だという。

たびたび貧血に襲われ、救急搬送、休職を繰り返していた父が、突然キャッチボールに誘ってくれた。

ふたり、夕陽に照らされた中学校の校庭で、暗くなるまで。

そのあと、坪井先生は体調を崩して学校を休んでしまったが、健太さんは「とにかくうれしいばかりで。あのシーンをずっと思い浮かべています」と語った。

もう1つ、健太さんが思い出すのが父がふと漏らした「見ていないものな」ということばだという。たびたび被爆体験を語ってくれた父が、そうつぶやいたことがあった。
坪井健太さん
「さっきまで生きていた人が亡くなるとか、手足がちぎれて、目玉が飛び出てという姿を実際に見て、助けてくれと言う声がしていても、自分の体が動かないという体験。父の頭の中には当時目にした光景が鮮明に残っているのだと思いますが、私にそれを伝えようとしても、実際に見ていない人にはわからないのではという思いもあったようでした。だからこそ多くの人に伝えたいという気持ちが強くて、最後の限界まで頑張ったのだと思います」

「最後まで原爆に負けなかった」

「健やかに太く」という名には坪井さんの願いが込められている。

最後に健太さんが、ことばを選びながら語ってくださった話が今も耳から離れない。

坪井先生が亡くなった原因は、被爆後長年苦しめられてきた貧血による不整脈だった。

そのことに話が及んだ時だった。
坪井健太さん
「心のどこかで、父は原爆で死んだんじゃないと思いたいんです。私だけかもしれませんが、父が原爆に負けて死んだんじゃないと、自分に思い込ませたくて。96歳なんだから老衰でいいじゃないかと。自分の慰めにしかならないです。でも、父は、最後まで原爆に負けなかったと思いたいです」
先生の生涯をそばで見守り、愛情をもって支えてきた家族が、先生の思いを確かに語ってくださったように感じた。

核兵器、戦争の罪の重さを伝え続けていく

私は坪井先生に出会って、人生が変わった。

命の重さ、人間とは何か、人間の尊厳とは何か、先生のおかげで実感をもって、考えることができるようになった。

被爆体験のない私には、もちろん、坪井先生がきのこ雲の下で見たものは、見えない。

ただ、坪井先生が、自分の力ではどうにもできない不条理を背負いながら、毎日を懸命に生きていた姿を間近で拝見することができた。

国家間の戦争によって原爆が使われ、被爆者として生きることを運命づけられた、不条理。

原爆投下という人間が犯した大きな罪、そして誰もその罪を償っていない不条理。

これほどの重荷を背負いながら、なお前を向いて生きてきた人が同じ時代にいたことを、忘れることはできない。
来年の8月6日、慰霊碑に収められる「死没者名簿」には、坪井先生の名前が記される。

しかしそれは、原爆に負けたということではない、と坪井先生とご家族に教えられた。

原爆に負けた人など、どこにもいない。

坪井先生や被爆者の方々は、戦争や核兵器によって傷つくことはもう二度とごめんだという心からの叫びを、長い時間をかけて私たちに伝え続けてくれた。

核兵器の罪、戦争の罪の重さを、伝え続けていく責任が私にはある。

大切な人との約束として。

坪井先生、見ていてください。

私も自分の人生の最後まで先生の思いを伝えていきます。

長い間、本当にありがとうございました。
政経国際番組部エグゼクティブディレクター
右田千代
1988年入局
1993年~97年にかけて広島局に勤務
その後も坪井直さんの取材を継続し番組を制作