私は祖国を捨てた ~「自由」を求めた5600キロ~

私は祖国を捨てた ~「自由」を求めた5600キロ~
「殺されるかもしれない」

タリバンから殺害予告を受けたと話す男性は6年前、妻と幼い娘2人を連れて、3年かけて5600キロ離れた異国の地を目指し逃げ続けました。

野宿で寒さに震え、見知らぬ土地で差別や暴力を受けながらも男性が諦めなかったのは、ふるさとで奪われた「自由と安全」が、きっとどこかにあると信じていたからでした。
(国際部 記者 北井元気)

奪われた「自由と安全」

「もし、私がひとりでアフガニスタンから逃れていたら、家族は残酷な状況に置かれることになっていたと思います。だから一緒に逃げるほかなかったのです」
こう話すのはアフガニスタン人の男性、ハッサン・ファジリさん(41)です。
みずからの仕事を持ち、妻と娘2人とともに、満たされた暮らしをふるさとで送っていました。
しかしある時、突然奪われた「自由と安全」。
男性は6年前、家族とともに3年かけて5600キロ離れた異国の地を目指さなければなりませんでした。

15年ぶりに戻った祖国

ファジリさんは、アフガニスタン北部にある山あいの村に生まれました。
子どもの頃、親戚とともにイランに移り住み、アフガニスタンに戻ったのは、タリバン政権が崩壊したあとのこと。およそ15年ぶりの祖国でした。

アフガニスタンでは、1996年に当時のタリバンが政権を樹立し、政権が崩壊するまでの5年間、イスラムの教えに反するという理由で、映画や音楽などの娯楽が全面的に禁止されていました。
しかし、ファジリさんが戻った頃のアフガニスタンは、アメリカなど国際社会が支援する政府のもと、欧米の文化が流れ込み、街は活気にあふれていたといいます。

タリバン政権下で、全身を覆うブルカの着用が強制されていた女性たちは、顔を隠すことなく街を歩き、若者たちは音楽に熱狂し、ファジリさんは、誰かに何かを強制される恐怖のない、確かな「自由」を感じることができました。

「自由」を共有できたカフェ

アフガニスタンで結婚し、2人の娘をもうけたファジリさん。
「自由」を表現したいと、映画制作や演劇などの芸術活動に取り組みはじめ、アフガニスタンをテーマにしたドキュメンタリー映画も制作してきました。

その中で、思想や信条にかかわらず、自由に人が集まれる場所を作れないかという思いを募らせ、7年ほど前、首都カブールにカフェを開きました。
店には、詩人、作家、写真家といった文化人やアーティストだけでなく、学生や市民も男女分け隔てなく訪れ、いつしか客どうしが芸術や文化などについて自然と議論を交わすようになっていきました。

カフェを、祖国に「自由」を根づかせる場にしたい。

そう願っていたファジリさんは、ある時、カフェで予想もしていなかったことを目の当たりにします。

およそ1か月にわたり日中の飲食を断つイスラム教の重要な宗教行事、ラマダンの時期のことです。
カフェには祈りをささげたり、コーランの朗読をしたりする人たちの姿がありました。

すると突然、カフェに訪れていたアーティストが音楽の演奏を始めました。
一時は厳しく禁じられていた音楽。
しかし目の前では今、祈りをささげる人と音楽を演奏する人が、同じ空間を共有していました。ファジリさんが理想としていた「自由」な場でした。

突然崩れ始めた「自由」

警察官
「なぜ、ここでは女たちが音楽を演奏しているのか」
「なぜ女と男が同じテーブルで食事をしているのか」
カフェを開いてほどなくしたある日、警察官が入ってくるなりファジリさんに言ったといいます。
同時に、警察官は訪れていた客の女性や男性を殴り、女性の髪をつかんで壁に打ちつけ、蹴り上げているのが見えました。
ファジリさん
「あなたは警察官ではないのですか。市民を守るのが職務ではないのですか」
こう訴えるファジリさんに、警察官は次のように言ったといいます。
警察官
「私たちはムスリムだ。女がここで音楽を演奏することを許すわけにはいかない」
彼らはタリバンの思想に感化された警察官で、当時、国際部隊の大部分が撤退し、タリバンが各地で勢力を盛り返しつつある中で、警察にも影響が及んでいたとみられます。

異端者扱い そして殺害予告

「アッラーは偉大なり。お前たちは異端者だ。お前たちを殺す」
その後もカフェには、警察官以外にもタリバンの影響を受けた人たちが次々とやってきて、ファジリさんたちに罵声を浴びせていったといいます。

それでもファジリさんはカフェを開き続けましたが、ある日「殺害予告」が届きます。

その理由は、ファジリさんが監督を務めたドキュメンタリー作品でした。
作品は、当時の政府に投降したタリバンの元司令官を取り上げ、元司令官がタリバンに政府との和解を求めるものでした。
作品は、アフガニスタンのテレビで放送され、これを見たタリバンの幹部が激怒。
直後に、元司令官はタリバンによって殺害されます。
ファジリさんだけでなく、制作スタッフの元にも殺害予告が届いたといいます。

当時の憲法で保障するとされていた、人権と民主主義。
しかし現実のアフガニスタンには、もう存在していませんでした。

「殺されるかもしれない」

ファジリさんは、妻とまだ幼い子どもとともに、祖国を捨てざるをえませんでした。
カフェを開いて、わずか2年足らずでした。

「自由と安全」を求めた5600キロ

最初に目指したのは隣国タジキスタン。
しかし、難民申請は認められませんでした。
そして、ファジリさんたちが目指したのは、当時、難民となったアフガニスタン人の多くが向かっていたヨーロッパだったといいます。
その中で、安全な国への渡航を仲介すると話していたブローカーに、所持金のほとんどをだまし取られた上「追加の代金を払えないと娘たちを誘拐する」と脅されました。

途中で身を寄せた国では、難民の排斥を訴える団体から暴力を振るわれたこともありました。

山の中で野宿をし、冷え込む夜に家族身を寄せ合って、なんとか暖をとろうとしたときもありました。
ただ「自由と安全」を求めているだけなのに、生きていくことすら受け入れてもらえないと感じる現実。そのたび、ファジリさんは何度も諦めそうになりました。

それでも、ファジリさんはヨーロッパを目指し続けました。
きっとそこには、ふるさとで奪われた「自由と安全」があると信じていたからです。

2018年、ヨーロッパに着いた時、祖国を捨ててから3年がたっていました。
移動距離は5600キロ。
8歳だった長女は11歳に、2歳だった次女は5歳になっていました。

“撮り続けた”祖国を逃れる家族

ファジリさんは、祖国から逃れヨーロッパを目指している間、映像作家として、スマートフォンで家族や自分の姿を撮影し続けていました。
そして、1本のドキュメンタリー映画にしました。
“監督”として、苦しい状況にある家族を撮影することに「父親として失格ではないか」と悩み続けながらも撮り続けたファジリさん。
その理由について、こう話しました。
ファジリさん
「私たちは祖国では仕事を持ち、十分な食事をとることができていました。だから、難民になったのは“貧しさ”からではないのです。奪われた『自由と安全』を求めて難民になっているのです。そして私は、祖国から逃れた時、ある種の“義務感”を覚えました。多くの人たちが紛争などのせいで祖国を去っています。それはアフガニスタン人だけではありません。私はこうした大勢の難民の声を映画を通じて伝える“義務”があると感じたのです」
ファジリさん家族は、ドイツで「自由と安全」を感じながら暮らしています。

ただ、ことし8月、タリバンが再び権力を掌握。
今も祖国アフガニスタンに残る友人たちのことを思うと、胸が張り裂けそうだといいます。
ファジリさん
「祖国の人たちは“今この瞬間”があまりにも恐ろしく、誰も未来のことなど考えられません。多くの人が私に『助けて』と連絡してきますが、どう助ければいいのかわからないのです。私には彼らを助ける手段がないのです」

「アフガニスタンの人々を忘れないでほしい」

取材をしている中で、強く印象に残っているのがファジリさんの「アフガニスタンの人々を忘れないでほしい」ということばです。
8月末にアフガニスタンからアメリカ軍が撤退してからまもなく2か月がたち、アフガニスタンへの関心は少し薄らいでいるようにもみえます。

だからといって、タリバンの恐怖におびえる人たちや、この20年で最悪とも言われる食料不足の影響を受ける人たちの暮らしがよくなっているわけでは、決してありません。

今もアフガニスタンで暮らす人たちの置かれた現状を、引き続き取材したいと思います。
国際部 記者
北井元気
2014年入局
函館局、札幌局を経て現所属
南アジア、東南アジアの取材を担当