松坂大輔「野球好きなまま終われてよかった」引退会見【全文】

今シーズン限りで現役を引退するプロ野球 西武の松坂大輔投手が会見を行い「野球が好きだっていう気持ちが消えないように戦っていた。好きなまま終われてよかった」とこれまでの選手生活を振り返りました。

最後の先発「全部さらけ出したい」

松坂投手は19日に埼玉県所沢市の球団事務所で会見を行い「選手は誰しもが長くプレーしたいと思い、こういう日がなるべく来ないことを願ってると思うが、きょうという日が来てほしかったような来てほしくなかったような思いがある」と心境を語りました。

引退を決断した理由については「昨年の春先に右腕のしびれが強く出るようになり、その中でもなんとか投げることはできたが、コロナ禍でトレーニングも治療もままならない中で症状が悪化した。できれば手術は受けたくなかったが、ほぼ毎日のように、なかなか首の痛みや右手のしびれで寝られないことが続いて精神的に参ってしまい、手術を決断し、これまで時間をかけてリハビリしてきたが、症状が改善しなかった」と説明しました。

引退を決めたことを家族に伝えた時のことを聞かれると「『本当に長い間、お疲れ様でした』と言ってもらった。僕の方からも『たくさん苦労をかけたけど、長い間サポートしてくれてありがとう』ということばを伝えた」と涙を浮かべながら話しました。

現役生活の23年間で印象に残っている試合について「ベストピッチやベストゲームはいろいろありすぎて決めるのは難しい。見て感じるものや記憶に残るものは人それぞれ違うと思うので、松坂、あんなボール投げてたなと思い出してほしい」と話しました。

一方、ここまで現役を続けることができたのは“諦めの悪さ”だとしたうえで「諦めなければ最後は報われると強く感じさせてくれたのは夏の甲子園のPL学園との試合。最後まで諦めなければ報われる、勝てる、喜べると。あの試合が原点だと思う」と明かしました。

そのうえで「野球が好きだっていう気持ちが消えないように戦っていた。好きなまま終われてよかった」とこれまでの選手生活を振り返りました。

松坂投手は19日夜行われる日本ハム戦で背番号「18」のユニホーム姿で先発のマウンドに上がることについて「この状態でどこまで投げられるのかというのもあってどうしようもない姿かもしれないが、もう最後の最後、全部さらけ出したい」と思いを述べました。

「平成の怪物」日米通算170勝

松坂投手は東京都出身の41歳。1998年に横浜高校のエースとして甲子園で春夏連覇を達成し「平成の怪物」と呼ばれました。
ドラフト1位で西武に入団し、1年目から3年連続の最多勝など数々のタイトルを獲得しました。
2007年からは大リーグ・レッドソックスなどでプレーし、ワールドシリーズで日本投手として初めて勝利投手となりました。
その後、日本球界に復帰し、去年古巣の西武に14年ぶりに復帰しましたが、たび重なるけがのため1軍での登板はなく、ことし7月に今シーズン限りで現役を引退すると表明していました。

通算成績は日米23年間でプロ野球で114勝、大リーグで56勝の合わせて170勝をマークしました。

【引退会見 全文】

松坂
「本日はお忙しい中、お集まり頂き誠にありがとうございます。今シーズンをもちまして、引退することをここに報告させて頂きます。きょうはよろしくお願いします」

まずは今の率直な気持ちをー
「そうですね…。選手は誰しもが長くプレーしたいと思い、こういう日がなるべく来ないことを願ってると思うんですけど…うーん。何かきょうという日が来てほしかったような、来てほしくなかったような…。僕、今同じ事言いました?大丈夫ですか?来てほしいような来てほしくなかったようなそんな思いがあったんですけど。現時点では、まだすっきりしていないんですかね、このあとに投げることになっていますし、投げることができて、そこで自分の気持ちもすっきりするのかなと。すっきりしたいなと思っています」

今の発言はどういう思いからかー
「今の自分の体の状態のこともありますし、やっぱり続けるのが難しいと思っていたので、できるだけ早くこうして皆さんの前に出てきて、報告できればよかったんですけど。7月7日に引退発表があって、当初球団とはすぐに会見をしてもらうと、準備してもらう予定だったんですけど、僕自身が発表したものの、やっぱりなかなか受け入れられなかった。発表したにもかかわらず、自分の中で気持ちが揺れ動いてるというんですかね、その中で会見するのもなと思って、球団に『ちょっと待ってください』と言って、だいぶたっちゃったんですけど。この発表をしてから3か月間、やれそうだなって思った日は一度も無かったですね。なのでできるだけ早く、終わらせられたらいいんだろうなって思いながら過ごしていました」

引退決断“投げることが怖くなってしまった”

引退を決断したいちばんの要因はー
「昨年の春先に出た右腕のしびれですね。強く出るようになって、その中でも、なんとか投げることはできたんですけども、コロナ禍で緊急事態宣言になり、トレーニングも治療もままならない中で症状が悪化して。できれば手術は受けたくなかったですけど、本当にほぼ毎日のように、なかなか首の痛みや右手のしびれで寝られないことが続いて、僕もちょっと精神的に参ってしまったというのもあって手術を決断したんですけども。これまで時間をかけてリハビリしてきましたけど、なかなかその症状が改善しなかった。その中でもことしキャンプインし、もうそろそろバッティングピッチャーをやって、次にはもうファームの試合で投げられそうだねっていうところまで来たんですけど、その話をしたやさきに、ブルペンの投球練習の中で、何の前触れもなく右バッターの頭の方にボールが抜けたんですね。それもちょっと抜けたとかそういうレベルではなくて、とんでもない抜け方をして。そういう時ピッチャーって、抜けそうだなと思ったら、ちょっと指先の感覚で引っ掛けたりするんですけど、それができないぐらいの感覚のなさっていうんですかね。そのたった1球で、僕自身がちょっとボールを投げることが怖くなってしまった。そんな経験は一度も無かったので、自分の中でのショックがすごく大きくて。松井2軍監督に相談して『ちょっと時間ください』ってお願いしたんですけども。時間はもらったんですけど、やっぱりなかなか右手のしびれ、まひの症状が改善しなかったので、もう投げるのは無理だなと思って。それで辞めなきゃいけないと、自分に言い聞かせた感じですね。ー決意が固まったのはいつか。球団に報告する1週間前とかだったと思います。球団にお願いして休ませてもらったのが、もう5月の頭くらいだったので、2か月間ずっと考えて悩んで。その中でも治療を受けに行ったりしてなんとか投げられるようになればと思ったんですけど、ほぼ変わらなかったので、時間ももうないなと思いました」

その期間、誰かに相談したかー
「『もう難しいかもしれない』っていう話は家族にはしていました」

家族の反応はー
「うーん…。あぁもう…だから会見したくなかったんですよね…。(長い沈黙、涙見せる)ちょうど辞めると決断した時に妻に電話したんですけど、その時にちょうど息子がいて…。(長い沈黙)『本当に長い間、お疲れさまでした』と言ってもらいました。僕のほうからも『たくさん苦労をかけたけど、長い間サポートしてくれてありがとう』ということばを伝えました」

今こみ上げてくるものは、家族への感謝かー
「ただ一言で感謝と言ってしまえば簡単なんですけど…。そんな簡単なものではなかったですし、いい思いもさせてあげられたかもしれないですけど、家族は家族なりに…我慢というかストレスもあったと思いますし。本当に長い間、我慢してもらったなと思いますね」

“最初の10年があったから”

いま一番感謝を伝えたいのはー
「妻もそうですし、子どもたちもそうですし、両親もそうですし。これまで僕の野球人生に関わって頂いたアンチのファンも含めて感謝しています」

今後について何か考えていることはー
「家族と過ごす時間を増やしながら、違う角度で野球を見ていきたいと思います。野球以外にも興味あることはたくさんあるので、そういうことにもチャレンジしていきたいと思います。野球界、スポーツ界に何か恩返しできる形を作っていけたらいいなと思っています。漠然とですけど」

この23年間はどういったものだったかー
「23年…。本当に長くプレーさせてもらいましたけど…。半分以上は故障との戦いだったんだと思います。最初の10年があったから、ここまでやらせてもらえたと思ってますし。そうですね、僕みたいな人、なかなかいないかもしれないですね。一番いい思いと、自分で言うのも何ですけど、どん底も同じくらい経験した選手っていうのはいないかもしれないですね」

自分から見た松坂大輔投手とはー
「そうですね…。長くやった割には思ってたほどの成績は残せなかったなって思いますね」

辛口な評価ではないかー
「通算勝利も170。積み重ねてきましたけど…。ほぼ最初の10年で勝ってきた数字っていうんですかね。通算150が2010年くらいだったかな?だったと思うので。自分の肩の状態とかよくはなかったですけど、そこからさらに上乗せできると思っていましたね」

“諦めの悪さ ほめてやりたい”

ほめてあげたい部分はー
「選手生活の後半はたたかれることの方が多かったですけど、それでも諦めずに…。諦めの悪さをほめてやりたいですね。もっと早く辞めてもいいタイミングはあったと思いますし。なかなか思ったようなパフォーマンスが出せない時期が長くて、自分自身苦しかったですけど、その分、たくさんの方に迷惑をかけてきましたけど。よく諦めずにここまでやってきたなと思います。最後はもう、これまではたたかれたり、批判されたりすることに対して、それを力に変えてはね返してやろうってやってきましたけど。最後はそれに耐えられなかったですね。最後、本当に心が折れたというか、今まではエネルギーに変えられたものが、受け止めてはね返す力がもうなかったですね」

この23年で印象に残っている試合はー
「その質問をされるだろうなって思って、いろいろ考えてたんですけど。ベストピッチだったり、ベストゲームだったり、いろいろありすぎてですね、やっぱりなかなか、この人、この試合、この1球と、決めるのは難しいですね。見て感じるものだったり、記憶に残るものって、人それぞれ違うと思うので、何かをきっかけに松坂があんなボール投げてたな、あんな対戦してたな、あんなゲームあったなって。思い出してくれたらいいかなと思います」

(背番号)18番に対する思いはー
「小さい頃にプロ野球を見始めて、ほぼジャイアンツ戦しかやっていなかったので、その試合に映る桑田さんの背番号18が、ものすごくかっこよく見えて。当時はエースナンバーって知らなかったですけどね。最初に受けた衝撃がそのまま残ってたっていうんですかね。だからエースナンバーと知る前から、プロに入ってピッチャーをやるなら18番をつけたいと思ってずっとやっていました。何かと18という数字に対しては、こだわってきたというか、周りにいい加減にしろって言われるぐらい、何にでもやっぱり18、1と8をつけたがる自分がいましたね。最後に途中、背番号が変わることはありましたけど、最後にまたこうやって18番をつけさせてくれた球団には本当に感謝しています」

最後のマウンド “全部さらけ出して見てもらおう”

きょうはファンにどんな背中を見せたいかー
「本当は投げたくなかったですね。今の自分、体の状態もあるし、この状態でどこまで投げられるのかっていうのもありましたし。もうこれ以上、だめな姿は見せたくないって思ってたんですけど。引退をたくさんの方に報告させてもらいましたけど、最後にユニフォーム姿でマウンドに立っている松坂大輔を見たいと言ってくれる方々がいたので。もうどうしようもない姿かもしれないですけど、最後の最後、全部さらけ出して見てもらおうと思いました」

試合後のセレモニーはー
「特に引退セレモニーとかはないんですけども、セレモニーに関しては改めてファン感謝デーの時にやらせてもらえるということなので、そこで改めてファンの方々には、何か伝えられたらいいなと思っています。きょうは試合後にグラウンドを1周して、スタンドにあいさつにだけは行かせてもらいます」

ファンへのことばはー
「12月4日に。きょうやるとナイターですし。皆さんも時間がたぶんないと思うので、別の日にしたほうがいいかなと。僕の気遣いです(笑)」

最後までファン思いー
「終電もありますし(笑)」

自身にとって野球とはー
「何かこう、気の利いたことが言えたらいいんですけどね。5歳ぐらいから始めて35年以上になりますけど、ほぼここまで来た僕の人生そのものだと言えますし、その中で本当にたくさんの方々に出会えて、助けてもらって、ここまで生かされてきたと思いますね。本当に皆さんには感謝しています。その思いを込めて何球投げられるかわからないですけど、最後のマウンドに行ってきたいと思います。本当にありがとうございました」

“好きなまま終われてよかった”

野球への思いが揺らいだことはー
「これは僕だけじゃなくて、ほかにもけがをしている選手、なかなか結果が出ない選手、いると思うんですけど、やっぱりその時間っていうのはすごく苦しいんですよね。周りの方が思ってる以上に。でも僕の場合は、野球を始めた頃から変わらない野球の楽しさ、野球が好きだっていうことを、そのつど思い出して、なんとか気持ちが消えないように戦っていた時期はありますね。どんなに落ち込んでも、最後にはやっぱり野球が好きだ、まだまだ続けたい…そうですね、もう後半はなんかギリギリのところでやっていたなって思いますね。いつその気持ちが切れてもおかしくなかったなって思いますね」

今も野球が大好きな気持ちは変わらないかー
「そうですね。好きなまま終われてよかったです」

ブルペンでボールが抜けた話はいつのことかー
「4月の終わりのほうだったと思いますね、確か。たぶん僕、ゴールデンウイーク前ぐらいから休ませてもらったので、4月の終わりだったと思います」

自信を持ってボールを投げられた最後はいつかー
「2008年ぐらいですかね。今でも忘れないというか、細かい日付は覚えていないんですけど、2008年の5月か6月か、調べたらすぐわかると思うんですけど、チームがオークランドに遠征中で、僕もその前の試合で投げて、オークランドで登板間のブルペンの日だったんですけど。ロッカーからブルペンに向かう途中で足を滑らせてしまって、とっさに何をつかんだんだろう、ポールのようなものですかね、転ばないようにつかんだんですけど、その時に右肩を痛めてしまって。そのシーズンは大丈夫だったんですけど、そのシーズンオフから、もういつもの肩の状態じゃないって思い出して。そこからはもう肩の状態を維持するのに必死でしたね。僕のたぶんフォームが大きく変わり始めたのが、2009年くらいだと思うんですけど、その頃には痛くない投げ方、痛みが出てもなるべく投げられる投げ方を探し始めた頃っていうんですかね。だからその時には、自分が追い求めるボールは投げられてなかったですね。それからはその時その時の最善策を見つけるという、そんな作業ばっかりしていました」

松坂世代へ

松坂世代に託す思いをー
「本当にいい仲間に恵まれた世代だったと思いますね。本当にみんな仲良かったですし。ことばに出さなくてもわかり合えるところはありました。松坂世代という名前がついてましたけど、なんて言い方がいいんだろう、自分は松坂世代って言われることはあまり好きではなかったんですけど、僕の周りの同世代のみんながそれを嫌がらなかったおかげで、ついてきてくれたと言ったらおこがましいかもしれないですけど、そんなみんながいたから、先頭走ってくることができたっていうんですかね。みんなの接し方が本当にありがたかったなって思いますね。それと同時に自分の名前がつく以上、その世代のトップでなければならないって思ってやってきましたけど。それがあったから最後まで諦めずに、やれてこれたかなと思います。最後の1人になった(ソフトバンクの和田)毅にはですね、僕の前に辞めていった選手たちが残った僕らに託していったように、まだまだ投げたかった僕の分も、毅には投げ続けていってほしいなと思います。できるだけ長くやってほしいと思います。本当に同世代の仲間にも感謝しています」

“最後は逃げない 立ち向かう”

マウンドに上がる時にいちばん心がけていたことはー
「(長く沈黙)この23年間…、あまりこう…自分の状態がよくなくて。投げたくないな、できれば代わりたいな、代わってもらいたいなって思う時期もあったんですけど…。やっぱり最後は逃げない、立ち向かう。どんな状況もすべて受け入れる。自分に不利な状況もはね返してやる。試合のマウンドに立つその瞬間には、必ずその気持ちをもって立つようにしてました。ギリギリまで嫌だなって思っていることもありましたけどね。でも立つ時には、その覚悟を持ってマウンドに立つようにしていました」

大舞台で力を発揮できない子どもたちにどんな声をかけるかー
「国際大会とか試合によっては厳しい状況もあったんですけど。このマウンドに立てる自分はかっこいいって思っていましたね。思うようにしていたっていうんですかね。ほかの人に任せて勝ってもらったほうがいいっていうこともあったかもしれないですけど、やっぱり大きな舞台、目立てる舞台に立てる自分がかっこいいと思うようにしていたからなんですかね。毎回勝っていたわけじゃないですけど、もちろん痛い思いしたこともありましたけど。やっぱりそういう舞台に立てるのはかっこいいことだと思うので。みんなにはそういう舞台には積極的に立ってもらいたいなって思いますね」
やり残したことや心残りはあるかー
「ライオンズに入団した時に、東尾さんに200勝のボールを頂いたので、自分自身が200勝して、お返ししたかったなって思いますね。それはやっぱりいちばん先に思いますかね。ちゃんと持っていますよ、200勝のボールは」

諦めの悪さ 原点はあの試合

苦しい時期も長かったが、乗り越えた自分に声をかけるとしたらー
「うーん…。『もう十分やったじゃん。長い間お疲れさま』って言いますかね。ー報告した時に子どもたちの反応は。家族も僕の体の状態をわかっていましたし。実際に辞めるよって言う前にも『もうそろそろ辞めるかも』って話した時は喜んでたんですけどね。『これから遊ぶ時間が増える、うれしい』って言ってたんですけど、実際に辞めるって報告した時は、みんな泣いてたんで。『やったー、お疲れさま』って言われるのかなって思っていたんですけど、みんなしばらく泣いて黙っていたんで。でも僕にはわからない感情を妻や子どもたちはもっていたのかもしれないですね。でもそれを知って改めて感謝の気持ちと同時にやっぱり申し訳ないな、申し訳なかったなって気持ちがありましたね。あんまり家族のこと言いたくないですし、言わないようにはしてきたんですけど、妻と結婚してもらう時も『批判の声だったり、たたかれることもたくさんあると思うけど、自分が守っていくから』と言って結婚してもらったんですけど。半分以上、それができなくて。本当に申し訳なかったなって思いますね。妻は関係ないところでたたかれたりすることもあったのが大変だったと思います。そんなに気持ちの強い人ではなかったので、迷惑かけたと思います。その中で『ここまでサポートしてくれて本当にありがとうございました』と改めて言いたいですね」

まず家族と一緒にやってみたいことはー
「最近、家の庭で野菜を育てたりしているので、そういうことをみんなで楽しみながらやっていきたいなって思いますね。大したことじゃないのかもしれないですけど、そういうことをさせてあげられなかったので。これからはそういう時間を増やしていけたらと思います」

「諦めの悪さ」のいちばんの原動力とはー
「すべてがそういうわけではないですけど、諦めなければ最後は報われると、それを強く感じさせてくれたのは、夏の甲子園のPL学園との試合ですかね。今、質問をされても、パッとその試合が出てきたので、やっぱりあの試合があったからですかね。最後まで諦めなければ報われる、勝てる、喜べると。あの試合が原点なのかなと思います。諦めの悪さの原点ですね、はい」

松坂大輔 プロ入り後成績(10月18日現在)

年   所属     奪三振 防御率
1999 西武 16勝5敗 151 2.60 (新人王・最多勝)
2000 西武 14勝7敗1S 144 3.97 (最多勝・最多奪三振)
2001 西武 15勝15敗 214 3.60 (最多勝・最多奪三振・沢村賞)
2002 西武 6勝 2敗 78 3.68
2003 西武 16勝 7敗 215 2.83 (最優秀防御率・最多奪三振)
2004 西武 10勝 6敗 127 2.90 (最優秀防御率)
2005 西武 14勝13敗 226 2.30 (最多奪三振)
2006 西武 17勝 5敗 200 2.13
2007 BOS 15勝12敗 201 4.40
2008 BOS 18勝 3敗 154 2.90
2009 BOS 4勝 6敗 54 5.76
2010 BOS 9勝 6敗 133 4.69
2011 BOS 3勝 3敗 26 5.30
2012 BOS 1勝 7敗 41 8.28
2013 NYM 3勝 3敗 33 4.42
2014 NYM 3勝 3敗1S 78 3.89
2015 ソフトバンク (1軍登板なし)
2016 ソフトバンク 0勝0敗 2 18.00
2017 ソフトバンク (1軍登板なし)
2018 中日 6勝 4敗 51 3.74
2019 中日 0勝 1敗 2 16.88
2020 西武 (1軍登板なし)
2021 西武 (1軍登板なし)
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日本通算218試合 114勝65敗1S
米国通算158試合 56勝43敗1S
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日米通算376試合 170勝108敗2S

※BOS=ボストンレッドソックス NYM=ニューヨークメッツ

ファン「お疲れ様」「投げてくれるだけで本当にうれしい」

夫婦で訪れた50代の男性は「高校時代からずっと追いかけてきました。常に世代のトップにいた選手だと思います。お疲れ様という思いで見届けたいです」と話していました。

長年のファンだという埼玉県所沢市の43歳の男性は「1球でもいいので、メットライフドームのマウンドで上がっている姿が見たかった。持ち味はやっぱりまっすぐと逃げない姿勢だと思うので、力いっぱい全力でやってもらいたい」と期待を込めていました。

松坂投手がきっかけで野球に興味を持ったという都内の30代の女性は「松坂投手のプレーに勇気をもらいました。投げてくれるだけで本当にうれしいので、もし打たれても満足です」と話していました。