消せないメール

消せないメール
2年前、ひらがなと少しのカタカナだけで書かれたメールが来た時、私はもっと早く、察するべきだった。

ところが私はのんきに「はーい」とメールを返し、事態の深刻さに気付いていなかった。

私にはおそらく一生まともに見ることができない、消すこともできない、70通余りのメールがある。

(ネットワーク報道部 鈴木有)

私は逃げた

私が結婚したのは入局して2年目。
鹿児島局に赴任していた時だ。
3年目に長男が生まれた。

うれしかった。
ただ妻にとって不幸なことがあった。
私の仕事の能力が決して高くなかったことだ。

「何がニュースなのか」その切り口がわからず、ひたすら悩んだ。
仕事の不安を払拭するために休むことが惜しかった。
土日に勤務をすれば平日が休みとなるが私は休まなかった。

家族との時間は少なくなっていった。

もう1つの妻の不幸は、関東出身で鹿児島に知り合いがいなかったことだった。
私がいない長い長い時間を、こどもと2人きりになる。
ひとりで育児と家事を担う。
初めての子どもが生まれた喜びから一転、妻はたびたび不満を漏らすようになった。
「あなたは、なんにもわかってない」

「本当に信じられない」
肉体的にも精神的にも参っていたと思う。
でも私はその不満を正面から受け止めるだけの度量もなかった。

家に帰るのがおっくうになり、仕事に逃げた。
仕事をしているのだからと自分に無理に言い聞かせ、育児と家事を遠ざけた。
その結果、妻の負担が増す悪循環。

どうなるのだろうかというギリギリのところで、妻は東京での仕事に復帰し子どもと実家に戻った。
両親のサポートも得られ、頻繁にいらだつことはなくなっていった。

相変わらずな私

入局して6年目で私は東京に異動し、親子で暮らす生活に戻った。
東京の寮に家族で入ったのだ。

ほどなく長女が生まれた。

幸いだったのは、この時、寮には小さい子どもがいる家族がたくさんいたことだった。
外で遊ぶ声が聞こえてくれば、子どもが出て行き一緒になって遊ぶことができた。
別の家に遊びに行くこともあった。
母親どうしで夫の不満も言い合えた。

そして私は相変わらず、平日は育児と家事に全く関わらなかった。

負の連鎖

入局8年目、3人目となる次男が生まれた。

私たち夫婦ともに3人きょうだいで、漠然と子どもは3人欲しいと思っていた。
ただ3人目の子どもの時の負担は、1人目や2人目の比ではないことを想像できていなかった。

手が、回らない。

親2人に対して子どもが3人。
親が子どもを1人ずつ面倒をみると、残った1人の世話を諦めないといけない。
かまってもらえない子どもは不機嫌になり、かまってくれと何倍もやり返してくる。

よくあったのは生まれたばかりの次男が泣くと妻があやす、2歳だった長女が不機嫌になるので私が一緒に遊ぶ、すると小学校にあがったばかりの長男は「パパ見て!」と声を張り上げた。

そして叫び声を上げる。

じだんだを踏む。

おもちゃをわざと高いところから落としてばらまく。

たたんでいた洋服やタオルを棚からすべて落とす。

こうなると私も妻も心の余裕がなくなり、子どもにちょっとつっかかれるとストレスが一気に高まることがわかった。

そして妻はこの負の連鎖に、私がいない間は1人で向き合っていた。

「きょうはなんじにかえってくる?」

いまも忘れられないメールが届いたのはそうした、さなかだった。

小学校1年生になった長男の小学校では、防犯用に児童一人一人に携帯端末が配られていた。
GPS機能などを備えていて、追加料金を払えばメッセージのやり取りができる。
当初は、長男がおもしろがってうんちの絵文字を大量に送ったりしてきた。
ところがある日から
「きょうはなんじにかえってくる?」

「きょうはやい?」
帰宅時間をうかがうメールが届くようになった。
「いまどこ??」
居場所もうかがうようにもなった。

「パパすぐにかえってきてくださいねほんとうに」

やがてある日
「パパはやくかえってきて。」

「パパすぐにかえってきてくださいねほんとうに。」
こい願うようなメールになった。
6歳の子どもが“ほんとうに”と、どんな思いで文末に加えたのか、私はまだ気付いていなかった。
記録を見るとのんきに「きょうもおそいー」「ごめんね」などと返信している。

ところがついに
「パパかえってきておねがいします。」

「ママがおかしくなってる」
となった。

3人の育児が大変になったころから私はなるべく早く帰宅するように心がけていた。
仕事中でもたびたび子どもとテレビ電話をするようになり、取材中でも出るようにしていた。

「パパみんなないてるぞだかはやくかえってきて」

それでもその日は
「やばいからかえってきて。」

「まママがたいへんしんじゃう」
というメールが届いた。
「パパみんなないてるぞだかはやくかえってきて」
妻が肉体的、精神的なストレスが限界にきてモノにあたったり、1人で部屋にこもって泣いていたようだった。
そうした様子を長男が目の当たりにして、手元にある端末から私に助けを求めていた。
妻がとっさに長男に手を出してしまったことも、1度だけあった。

この日は午後5時から午後8時半までの3時間半の間に31通ものメールが届いた。
「パパなんでおやすみのひでかけるの?」

「パパかえってきてすぐにかえってきてください」
多くは1分おきに届き、働き方を見直す決心をするのには、もう十分過ぎた。

私は時短勤務の記者になることを決めた。

短時間勤務に

上司はすぐに対応してくれた。
呼び出しや泊まり勤務はなし、基本は午前9時半から午後4時半までという形で働くことになった。

それから1年半がたった。

妻は仕事で家を空けることがあり、その間、子ども3人のワンオペ育児を今度は私が担っている。

いちばん戸惑ったのは夕飯作りだが、本当に困った。
私が作った料理を出しても子どもたちは「おぇっ」と声に出し「こんなの嫌い」などと食べてくれないのだ。

一方で、冷凍食品は見まがうぐらいよく食べる。
餃子、牛丼、唐揚げなど、今の冷凍食品の手軽さと味のよさに感嘆する。

いらいらするのだけれど

家庭状況は驚くほど安定した。
もちろん毎日、子どもたちにはいらいらする。

保育園に行かない。

朝食をたべない。

着替えない。

保育園から家に帰ろうとしない。

お風呂にはいらない。

夕飯をたべない。

ネットの動画を見るのをやめない。

ゲームをやめない。

叱ると不機嫌になりつっかかってくる。

寝ない。

寝静まったと思ったら「お茶のみたい」と起きてくる。

おねしょの対応に睡眠時間をがっつり削られる。

思い描いたとおりに終わる日は1日たりとも無い。
しかし、せきを切ったように妻のストレスが爆発することも一切無い。

ただいるだけ それだけで

時短勤務を取得して変わったのは、平日、妻が子どもたちに1人で対応しなくてよくなったこと。

時間ができたことで家に帰宅したあと、子どもの話を聞いたり、一緒に遊んだり、寝かしつけたりを私がやるようになった。

妻が仕事で不在の時、3人の送り迎えや遊び相手、食事の対応を1人でするとどっと疲れる。

でも家事の多くは妻が担っているし、保育園の送り迎えも妻が多い。

私はいい夫ではない。

それでも私が子育てに関わることが、家族の毎日をこんなに変えるのだとつくづく思う。
「家庭のため働き方を変えてくれたことに感謝している」
妻はこう話していた。
仕事のしかたも大きく変わった。
興味あることすべてに手を出そうとすると、中途半端になってしまう。

時間内にできる仕事かどうか、よく考え、できないと思う時は、正直に伝えるようになった。

僕が送ったっけ?

長男はどう思っているか。
当時の状況について聞いてみると意外な答えが返ってきた。
「これ僕が送ったっけ?」
そんなこともあったかなという感じだった。
でも当時は「ママがいつも泣いていた」と苦笑いで話してくれた。

そして
「普通がいい。まあ前はあれが普通だったけどいまの普通がいい」
と話してくれた。
日本はまだ育児と家事は妻が担うという、分業のような意識が根強いのかもしれない。

ただその意識を変えていくために「男性も育休や時短勤務をとりましょう」とだけ声高に言うのも少し違う気がしている。

大事なのはそれぞれ家族の事情に合わせて、多様な働き方が選択できること。

例えば育休なら、取ることも取らないことも、それぞれの立場の選択が尊重されること。

そして子どもが多くてもフルタイムで働ける家族もいれば、難しい家族もいるようなことが想像できること。

働き方も家族の在り方も画一的でないことが当たり前になり、それが十分想像できることだと思っている。

2年前、長男が私の早い帰宅を望んで打ったメール、数を数えたらおよそ70通あった。

おそらく一生、まともに見ることができないが、消すこともできないメールである。